ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

仙人的な、あまりに仙人的な

2012-05-19 | 雑記
仙人仙人と言ったり言われたりだが、先月くらいに言われたのは「人間のクズ」である。

その話はちょっと遡れば、つい最近の更新頻度が少なかったのですぐ見つかるかと思われる。

一般的な感覚から言えば実に「人間のクズ」と言われてもおかしくはない。


ちと要約するとこうである。


ヒートアップした豚みたいなおっさんが(豚に失礼だが)こういう。

「お前にとって大事な父やら母やら兄弟やらが死んだ時なんとも思わないのか!」と。

そこでこう答えた。

「なんとも思わない」と。


まあ、いきなりそういう話になったわけでなく、その「大事な」存在が死にかけた時、足掻かないのかというので、「こちらが足掻くことに何の意味がある?」と言って、ヒートアップさせたのである。

してやったり、では無いが、事前にちゃんとこういっておいたが、理解するはずも無い。

「父だとか母だとかなんてものは既成事実にしか過ぎんのだ」と。


豚のおっさんは間違えている。そもそも、こちらは一言も「父や母は大事である」とは答えていない。豚のおっさんの了見で勝手に誰でもそう思っているものだから、こちらもそう思っているのだ、もしくは思わなければならないというところである。

生返事的にへいへいそうですね、という感じで言っては置いたが、豚の了見(略し始めたぞおい)に同意したものと見たようだ。


そして豚はこういうのである。「だったらそんな格好するな!」と。

ではこちらもこういうべきだったであろう。「だったらそんな豚みたいな腹と奴隷のTシャツ姿をするんじゃない」と。

当時は思いつかなかったのと、何か知らんが席を立ってお仲間のほうに戻って喚き続けることになった。一息つけるかと思ったが、まだこちらに何か言っている。正直逃げたのはあっちにしか見えない上に聞こえない。


どうも若い者は若い者らしくもっと奴隷らしくしろといいたかったのだろう。最初から何か、人を縛りつけようとする気持ちの悪い意図が見え見えで、嫌な感じであった。


奴隷状態にされ続けた(ている)人間は、自分より弱い立場の存在をその奴隷にしようと企ててしまう心理作用があるそうだ。

例えるなら、吸血鬼に血を吸われた人間が吸血鬼になってしまう状態という。


何が人を豚に変えたのか。


それをわしは「世界」と呼ぶ。


さて、もう少し似たような、いや、同じ話を続ける。



住んでいる町で、ちと物騒な話があった。某検索大手のトップニュースにも出たそうだが、正直そういうニュースはまったく見ないので、知らなかった。

話を聞いたのは、いつものお店の兄さん(こう書いたら誰かバレてしまうが気にしない)からだった。

何ゆえ聞く事になったかというと、その事件の内容への解釈で、フェイスブックつながりの人のコメントに腹を立てたらしく、愚痴を聞く事になったからである。

「愚痴ってすんません」と言われて、ああ、愚痴だったのか、というくらい、こっちは気にしてなかったのだが、腹を立ててたのは聞きながら伝わっていた。


さて、その事件の内容から掻い摘んで話す。


然る中学生が、バスジャックを起こしかけたという事件である。ナイフで運転手を刺そうとしたが、ナイフは安物で刺さらず、そのまま子供は逃走、捕まって云々というわけだ。


中学生が動機を問われて曰く「友達にバカにされて、見返したかったから」という風だった。


兄さん曰く「子供と謂えど、善悪の判断はつくんだから、キチガイは殺すべきである」と。掻い摘んで言うとこうなる。まあ、少年法改正だー!ではあった。


こちらは、確かに法改正というのも必要であろうが、そもそも何故その子がそういう犯罪行為に至ったのかを考えるなら、それは社会(いきなり「世界」と言ったら広すぎてわからんからそう言った)がそいつを追い詰めたところがあるのである、と柔らかく言った。

兄さんはこういう。

「社会には適応せねばならないのだから、適応出来ないやつぁどうしようもない」とかいう風だったか。ちと忘れたがそういう感じであった。

こっちと話して怒ってたのではないので、腹立ちの原因となった知り合いのコメントを読ませてもらった。こちらとしてはこの内容のどこに立てる腹があるのか、自分の腹をさすってみたが、ぺったんこだった。


彼の前提にあるのは、現今の社会(狭義の「世界」と呼ぼうか)に立脚して我々は生きている(飼育されていると言おうか)のだから、その秩序乱すことまかりならぬ、というわけだろう。


さて、話を少し戻して、何故その子はそんな危なっかしいことをしでかしたのか、はたまた「善悪」とは何ぞや、というところに論を進めたいと思う。


社会、といってもまだ広い。この場合、その子を追い詰めた直接の原因は答えた動機にあるとおり、その友達という繋がりの「社会」である。それと学校という「社会」。

あんな監獄と変わらんところで過ごしてたら、ちと弱いものと見たらいじめにかからざるを得ない状況(前述の酔っ払い豚の論理と同じである)になるわけだ。

じゃあ、その子供らも悪いな、共犯者だな、というのは簡単である。もう少し正解に近い答えを言えば、首謀者であり被害者である。


首謀者というのはまあ、いじめて追い詰めたから、であるが、被害者とは何か。

それは、それまで我々も含めて、育ってきた中で吹き込まれてきた知識だとか常識といったものの影響である。


まあ、個別の状況は不明なので、その子、特に危なっかしいことをしでかした方に焦点を当てていくとしよう。

もしかしたら、いじめた方も解明できるかもしれない。


さて、確か中学生だったはず。

なら、幼稚園だか保育所、小学校と過ごしてきたわけだ。

大体、なんて聞いて育つかな?



友達は大事にしましょう。




これを聞いて腑に落ちた人は、皆まで読まなくても大丈夫。


進めるとしよう。


やんわり言っているがこれは命令である。裏を返せば、友達を優先しろ!一人になるな!と、言っているようなものである。

友達とやらの評価が高くないとダメである、というわけだ。そもそも、善いか悪いかなんぞ人が人として生きることになんの意味があろうか。

それは措くとして、その件の子は、友達からの評価が最低レベルに達してしまったわけだ。


このままじゃダメだから見返してやろうと(評価を上げようと)して、かくしてバスジャック未遂に至ったというわけである。


友達を大事にする(される)のは善で、友達に見放されるのは悪。


つまりは、善悪の判断自体はついているのである。善悪判断の拠り所がおかしかったといえなくはないとはいえ。


戦争する時、「石油独り占めしたいから分捕りに行きます」などと言って、戦争に行く国があろうか?動機はともあれ。

ムスリムは宗教的な戦いをするときは、ジハード、「聖戦」と自称する。


善悪というのは自らの行為に正当性を与えるためにでっち上げた、予防線でしかないのである。あまりに稚拙で粗雑で、そもそも予防線を張らなければ出来ない行為というもの自体が欺瞞である。


善悪、つまりは上か下かという評価基準に彩られた、言わば空気、社会、大きく、また小さく個人の中にあるその「世界」を盲信して生きる存在を「人間」と呼び習わすのなら、わしは「人間のクズ」であることを最高の栄誉であると考えるのである。



と、実はこんなことを書きたかったのではなかった。いつもタイトルから書く癖があって、今回は特にタイトルに引っ張られて内容が決まってしまったようである。



前回ちらっと話した、「何故最近は電車で眠くならなくなったのか」をしようと思っていたのだが、細かい話は抜きにして、やんわりと命令して終わることにする。


「お願いだから正坐しなさい」














追伸

ラヂヲ的な動画をやるかも、という話をちらっとしました(ここじゃないよ)が、その内容は予てより考えていた「何故ゲームを辞めるのか」というもの。

すぐには始まらないので、以前に出したものを。参考にどうぞ。ですが、軽く飲んでおりますゆえ、少々ノリは軽薄。

約四分後くらいに始まるエンドロールで喋っております。

もっと話を広げて、経済的に(専門的な話は皆無ですが)とか、うさんくさくスピリチュアル的な話に行ってみたりだとか出来たらいいなと思っておるしだいです。






では、また。