ウヰスキーのある風景

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人として軸がぶれている

2012-05-30 | 雑記
中学生のころだったか。読んでいるかたにも身に覚えがあるだろう。

体育の時間に「行進」というものをやらされたことを。運動会だとか体育祭の時期になると、よく授業で練習するあれである。


その時の体育の教師が、ちょっとした笑い話をしていた。


腕をブンブン振るのだが、手の振りが宜しくない(寧ろ正直である)奴がいるので、「こら!そこ!もっと手を振れ!」と注意した。

すると、注意された生徒はにこやかにその教師の方へ手を振ったのである。「お前は天皇か!」と、体育教師の言。


さて、行進とは何ぞや。言うまでもない。軍隊の行軍の練習である。学校は兵士の訓練所だったとは知らなんだが、そもそもそこらじゅう訓練所だらけである。


学校でやらされる行進は、足の運びは膝を曲げて腿を上げる足踏み方であるが、彼のナチスドイツの場合はグースステップという、膝を全く曲げずに前へ出す行進をしていた、と書いてふと気になったので調べてみたら、現在でもいたる国で、式典などでやっているようだ。※ガチョウ足行進

国によって手の振り方が違うと言う。


まあ、大体は左右交互に前後させている。(右手が前に来てる時は左脚も前に)


さて、実際今となってはお目にかからなくなっただろうが、(アニメ「クレヨンしんちゃん」では見たことがある)手足を左右同じ前後の位置で出しているというのを見たことはなかろうか。

こちらも、ごく小さい時はもしかしたら、その行進など、人前に引きずり出された緊張の余り、ぎこちなくなり、その歩き方をしたかもしれないが、もう判らない。


さて、この歩き方。緊張して「ぎこちなく」なったからそういう変な動きをする、とよく言われている。(見たことがない、という方にはよく判らんと思われるが)


実はこれ、緊張して「ぎこちなく」なったから、までは同じだが、そのぎこちなさを解消するがために、自然な歩き方へ戻っているのである。


この、同じ左右の手足を同時に前後させる(誇張していえば半身を交互に前に出しているようなものだ)歩き方は、日本古来からあるといわれる、「ナンバ」という歩き方なのだそうな。

古来、武士が太刀を佩いている時は、今一般に行われている歩き方だといざというときに抜けなくなる(必ずしもではないようだが)。武士でなくとも、和装で歩く際、衣擦れが起こったり、帯が緩むそうな。

上記のリンク先のウイキペディアでは、ナンバについては諸説あるそうだ。一説によると、手を振らない歩き方も「ナンバ」であるとか。

古武術研究家の甲野善紀氏が広めるのに一役買ったようである。

ナンバ歩き-甲野善紀-



動画の中でも、ナンバで(その時の示し方は手足を同時に出すほうの)歩くほうが歩幅広がるという風な話をしている。体を捻らないこと、が要のようだ。

ウイキペディアに、「検証せよ」という決まり文句つきではあるが、利点が書かれている。貼り付けてよかったのかどうかわからんが、気にしないでおく。

 体を必要以上にひねらないためスタミナが減りにくい。
上半身のねじれが小さくなるので、姿勢が安定する。
動きに無駄がなくなり、瞬発力が出る。
相撲の鉄砲のように、片側の腕、腰、足を合わせて動かすとパワーが出やすい。
急な坂道や階段などを上る際にナンバで歩行すると体に負担がかかりにくい。



ここまで書くとそろそろ答えが見えた!と思われるだろう。

「つまり和装して手を振らずに歩けということだな!そして正坐しろだな!?」正坐は最近のいつものセリフだが、和装云々は個人の自由である。無論、和装したほうが正坐やナンバで気づきやすくなる「身体感覚」と呼ばれるものをもっと自覚しやすくなるだろう。


問題はそこにはない。いや、それも問題だが、もう少し込み入っている。


手足を左右交互に歩くやり方が明治から(西洋に倣ったが故に)始った、というような話もウイキペディアにある。「ナンバ」が廃れた理由として挙げられていて、そして横槍も入っている。そこはウイキのこと。話半分で聞いてもいい。(横槍の方についてだ)


いわゆる学校教育が始り、大抵の人は冒頭の行進と同じように(流石に太股を持ち上げるようなことはないが)歩くことが普通になったといえる。元がどうだったかはさておき。


さて、ここでまた別の話を始める。こちらも一応歩くことについてである。


歩行瞑想法というのがある。解説ページはこちら。ヴィッパサナー瞑想実践方法 歩行瞑想マニュアル

瞑想というのは意識の障りをなくし、無意識に到達するという試みというわけだが、いきなり意識とやらを飛ばすことは難しい。

そこで、歩く時に、左足を上げたら「左」という風に意識をする。(ページでは「ラベリング」と呼ばれている)
ただ、機械的に「右」「左」とラベリングしていくのは、掛け声やマントラと同じになってしまうと注意が促されており、その一瞬一瞬に浮かび上がったものや時々の状況についてラベリングしていく。飽くまでメインは歩行ではある。それを心が落ち着くまでやると。

ここ最近、意識意識と書いていたのだが、野口整体も言ってしまえば瞑想(技法、修練法と言うのかその一つに活元運動というのがある。「動く座禅」と呼ばれたりする)なのである。


また少し逸れていくようだが、もう少し続ける。


今まで普通の食事をしていた人が、配置換えを機に、仕事場の片隅で忙しなくかき込むような食べ方になっていった。そして、普段は食事だけで満足していたのに、隙を見てはなにやら食べるようになっていった。そうなったころには飯の味も判らなくなっていたそうである。直リンク禁止なので、こうすればいいのかな。http://p.tl/41OE
ストレスによって食に対する集中力が損なわれ過ぎたがため、体を壊したのである(本文中では「体が乱れてしまった」とある)。虫歯が化膿したとか。


こういうことが出来る。「食に対する集中力」とは意識することであろうが、それは歩行瞑想法における「ラベリング」であるといえる。

ストレスや食事中にも仕事に気を使う状態という、「掛け声」や「マントラ」が、意識を乱したと言える。


意識とは無意識のうちにあると、野口整体ではいう。さっきのページのどこかに書いていたが、興味があったらいろいろお読み戴きたい。


現代は、無意識の一部でしかないはずの意識が自身を統べていると考えている。要するに思い込みだ。

ストレスにさらされ、一瞬一瞬に意識を集中できない状態は、いわば霧のようにバラけた意識の断片が無意識を薄く覆っているだけなのを勘違いして「ここに見えるものが全部意識である」と言っているようなものである。

意識する、とはそのバラけた断片を一まとめにして、無意識の一部でしかないことを自覚させるように持って行ってこそ、なのだといえる。



さて、通りを歩く人をご覧戴こう。手足を左右交互に振らない人を見ないことはまずないだろう。まず歩く人がいなかったとか、やっと来たと思ったら荷物持ってたとか、そもそも両腕がなかった、などという事情は別にしてもらう。


彼らはマントラを唱える。左右交互に手を振るというマントラを。体を捻りながら。そして、種々の掛け声に苛まれる。捻られ続けた体は休まることがない。


体の軸と言えるものがその心身両方の圧力によってぶれていく。


そのようなぶれた人間がぶれた人間をぶれたままに統率していくというのである。「人として軸がぶれている」と言わざるを得ないのである。


ちなみに、今回のタイトル。然る歌手があるアニメで歌ったOPテーマだそうな。最初はその関連で話をやろうかと思ったが、長くなるので辞めた。「日本をインドにしてしまえ!


というわけで、わしが皆の衆にマントラを届けたいと考えた。



「手を振るのを辞めよ 体を捻るのを辞めよ 意識を捻って無意識まで捻ろうとすることなかれ」





捻じれた心身では前を見ることも叶わぬ。努々「意識する」を怠ることなかれ。では、また。




追記:ラヂヲ用にピンマイクを購入しました。今日、もしくは明日中に試験の後に録音予定です。長くなりすぎないよう気を付けたいと思います。