日常
2012-05-21 | 雑記
たまには、というよりわしにとってはどれもこれも日常であり得るのだが、一部ではそう受け取ってもらえそうにないので、今日はささやかな、言ってしまえば塵世の楽しみを少しご紹介しようかと思う。
昨日、いつものお店(こればっかり書いている気がする)で飲んでいたら、おそらく初めて会ったであろう常連さんがいた。
いつものことだが、こんな格好である。店の兄さんは、よく冗談半分で、「武道の先生なんですよ」などと人に紹介する。
ちょっと世間話ししつつ飲んでいたら、その常連さんのお知り合いがやってきて(電話していたので、その時落ち合う約束をしていたようだ)、さっきそこの古着屋でTシャツ買ったんだ、などという。
そういえば以前、あの店の前を通りかかった時、入り口からすぐ見えるところに、夏向けの帽子が置いてあるのを思い出した。
店を出てから、あのバーに一杯だけやりに行こうかどうか歩き始め、家に向かうかそのままバーのほうへ向かうかの分岐に差し掛かる。さっきの店から歩いてほんとにすぐのところだ。
迷わずバーのほうを目指すことになった。ただ、分岐に差し掛かるまではちょっと悩んでいた。
話に出た古着屋のほうを目指すのを強く意識してたわけではないが、結果、そっちの方に行くことになった。店はまだ閉まってなかった。帽子もある。
通り過ぎてから横断歩道を渡り、その店に引き返す。
店番は、店主の息子なのだろう。小学生くらいの子がいた。帽子を物色している位置からでは見えなかったので、レジに立ってから判ったことだったが。
「ちょっと待ってください」と言って、電話をかけ始めた。二階から女性が降りてきて、会計をしてもらう。なんだか妙に家庭的な感じで面白かった。
帽子を袋に入れようとしてたので、「そのまま被って行くんで、タグとか切っておいてください」と頼み、袋も辞退した。
で、ついでに被ってみて、「似合いますかね?」と聞いたら「着物とよく合う」と言われた。
もうお決まりパターンのようなところがあるが、「着物はお仕事ですか?」とやはり問われる。
いやぁ、仕事は関係なくて休日だけ着てますやら、こいつはデニムなんですよ、などと話する。
というわけで、こんな帽子を買ってきた。
遠めには判り難いが(元の大きさの写真だとそうではなかった)、透けるくらいの網目になっている。ちゃんと確認していないが、去年買ったハンチングと同じメーカーだったと覚えている。
さて、帽子の上に何か乗っかっているのが判るだろうか。
これは帽子とは関係ない。
羽織紐である。着物の構造を一々説明するのは手間だが、要するに前を閉じないコート状のもの(羽織という)があって、腹の前で紐を結ぶ。古式ゆかしいのは、文字通り紐状になっていて、それをTPOに合わせて結び方を変えたりする。一体化してるものは普段着向けなのだろう。簡単に結んだりしているのが、昔の人の写真などで見受けられる。
乳(ち)といって、引っ掛ける部分があるタイプのものは、こういう、変わった物を取り付けたりしておしゃれができるというわけである。
本当は、以前持っていた飾りつきの羽織紐(真ん中にドーナツ状の石がくくりつけてある)を、間抜けなことをして千切ってしまった。紐の部分を交換出来ないかと、市内の呉服屋を訪ねたのだが、仕立てたものらしいので、買うのと変わらないことになるだろうと。
それならば新しくお買い求めになってはどうか、と勧めてくる。
面白そうだったので買ってしまったというわけである。ただ、最近は着物着て遊び(飲み)に行くときはケータイ電話を家に放り出していく。
だから、着てる写真はないのである。上記のリンクは以前の写真であり、昨日着ていたものそのものではないことをここに記しておく。
気が向いたら写真を撮るかもしれないが、電話は嫌いである。荷物自体持ちたがらないので(財布とキセル、あとは暑くなってきたので扇子があれば特に)仕事以外はカバンも持たない。
そんなカバンも実は、風呂敷を結んで肩掛けにしたものだったりする。店の人に「おしゃれだ」などと言われるのは営業トークかもなと一歩引いて聞いてはいたが、ある日、近所のインド料理屋で食後(たまたま昼の仕事帰りに立ち寄った)、帰ろうとしたら他のお客さんから声をかけられる。
「風呂敷ですか?」
「ええ、結んであるだけなんで、いつでも解けます」
「へぇー、おしゃれですね」
風呂敷を結んで肩に掛けているだけで「おしゃれ」といわれることがあろうとは夢にも思わなかった。その時は和装ではなく、洋装である。ジーパンにTシャツ。
ちなみに、気取ってやってるのではなく、仕事以外でカバンを持つ気がないのと、その仕事もちょっとした着替えがあれば済むため、カバンなんぞ買う気にならん、という投げ遣りな動機からである。
そうしようと思い立って、風呂敷の結び方を調べ、肩掛けにする方法を見つけたのはいいのだが、キャッチコピーが「エコバッグ代わりにスーパーで買い物する時なんかにどうでしょう」だったりする。
うーん、そういうのは普段のカバンにするにはよくないのだろうか?と考えたが、考えてもカバンはない。それからもう凡そ一年かそこいらか、風呂敷が肩にぶら下がっている。
これからはしばらく、この新しい羽織紐がぶら下がることになるのであろう。着物の時は、風呂敷は肩に掛ける部分を短く結びなおして手提げに切り替えるので、ぶら下がらない。
どうもこういう話は久しぶりすぎて勝手がわからない。帽子買ったり羽織紐買ったりおしゃれだとか似合うだとか言われるのは面白いなぁ、と感じるのだが、やっぱりどこかで「それがどうした」と思っているところがあるのだろう。
腹が立つことも悲しいことも、確かにその時はその時でとても感情を揺さぶるものである。ただ、揺さぶるのはその時の話でしかない。
また野口晴哉の話を持ち出してしまい恐縮だが、こういう話がある。
十日前だか十年前だか、強盗にあって死ぬほど怖い目にあった、と来客が野口氏に語る。もうそれはそれはひどく蒼ざめて。
野口氏は「別にこちらがその強盗なわけじゃないんだから、そんなに蒼ざめるんじゃあない」とかいう風に語りかけるのだが、来客は強盗にあった時の話を思い出してずっと蒼ざめていたそうな。
人の記憶、つまり意識というものが、その時の感情をそのまま今に呼び起こしてしまって、まるでその強盗に今あっているかのような状態に陥れてしまうのである。
勿論、記憶というのは人間以外の動物にもあるくらい、普遍的なものである。ただ、人間は意識に過剰に引き摺られるのである。
ああいっている野口氏というのは別に人間としての記憶をなくせとか言っているわけではない。でなけりゃ来客と話も出来ないし、上記のエピソードも出ない。
意識だとか記憶だとかいうものを絶対的に見るのが今の社会である。それを相対化せよ、というところなのだろう。
上の強盗の人の例で言えばこういうところか。「いやぁ、十年前に強盗に会いましてね、あん時は生きた心地がしませんでしたよ、あっはっは」という感じになれと。空元気でそうやるのではないが。
「全生」という思想を、野口晴哉は打ち立てる。野口整体の考えを示したものというのだろうか、読んで字の如く、生を全うするということであるのだが、意識や記憶はどこまで行っても過去のこと。「生きて」はいない。生を全うするとは、今を生き切ること、といえる。
本来、あなたを縛るものは何もないのである。ただ「過去」があなたを縛っていると思っているだけである。無論、現実に起こっていることがあり、それに影響されるだろう。解決しない問題も山積しているだろう。だからせめて、一日の終わりに、その日あった、辛いことも悲しいこともそして楽しいことも含めて、「それがどうした」と一蹴してみるのもよかろう、と思うのである。では、また。
昨日、いつものお店(こればっかり書いている気がする)で飲んでいたら、おそらく初めて会ったであろう常連さんがいた。
いつものことだが、こんな格好である。店の兄さんは、よく冗談半分で、「武道の先生なんですよ」などと人に紹介する。
ちょっと世間話ししつつ飲んでいたら、その常連さんのお知り合いがやってきて(電話していたので、その時落ち合う約束をしていたようだ)、さっきそこの古着屋でTシャツ買ったんだ、などという。
そういえば以前、あの店の前を通りかかった時、入り口からすぐ見えるところに、夏向けの帽子が置いてあるのを思い出した。
店を出てから、あのバーに一杯だけやりに行こうかどうか歩き始め、家に向かうかそのままバーのほうへ向かうかの分岐に差し掛かる。さっきの店から歩いてほんとにすぐのところだ。
迷わずバーのほうを目指すことになった。ただ、分岐に差し掛かるまではちょっと悩んでいた。
話に出た古着屋のほうを目指すのを強く意識してたわけではないが、結果、そっちの方に行くことになった。店はまだ閉まってなかった。帽子もある。
通り過ぎてから横断歩道を渡り、その店に引き返す。
店番は、店主の息子なのだろう。小学生くらいの子がいた。帽子を物色している位置からでは見えなかったので、レジに立ってから判ったことだったが。
「ちょっと待ってください」と言って、電話をかけ始めた。二階から女性が降りてきて、会計をしてもらう。なんだか妙に家庭的な感じで面白かった。
帽子を袋に入れようとしてたので、「そのまま被って行くんで、タグとか切っておいてください」と頼み、袋も辞退した。
で、ついでに被ってみて、「似合いますかね?」と聞いたら「着物とよく合う」と言われた。
もうお決まりパターンのようなところがあるが、「着物はお仕事ですか?」とやはり問われる。
いやぁ、仕事は関係なくて休日だけ着てますやら、こいつはデニムなんですよ、などと話する。
というわけで、こんな帽子を買ってきた。
遠めには判り難いが(元の大きさの写真だとそうではなかった)、透けるくらいの網目になっている。ちゃんと確認していないが、去年買ったハンチングと同じメーカーだったと覚えている。
さて、帽子の上に何か乗っかっているのが判るだろうか。
これは帽子とは関係ない。
羽織紐である。着物の構造を一々説明するのは手間だが、要するに前を閉じないコート状のもの(羽織という)があって、腹の前で紐を結ぶ。古式ゆかしいのは、文字通り紐状になっていて、それをTPOに合わせて結び方を変えたりする。一体化してるものは普段着向けなのだろう。簡単に結んだりしているのが、昔の人の写真などで見受けられる。
乳(ち)といって、引っ掛ける部分があるタイプのものは、こういう、変わった物を取り付けたりしておしゃれができるというわけである。
本当は、以前持っていた飾りつきの羽織紐(真ん中にドーナツ状の石がくくりつけてある)を、間抜けなことをして千切ってしまった。紐の部分を交換出来ないかと、市内の呉服屋を訪ねたのだが、仕立てたものらしいので、買うのと変わらないことになるだろうと。
それならば新しくお買い求めになってはどうか、と勧めてくる。
面白そうだったので買ってしまったというわけである。ただ、最近は着物着て遊び(飲み)に行くときはケータイ電話を家に放り出していく。
だから、着てる写真はないのである。上記のリンクは以前の写真であり、昨日着ていたものそのものではないことをここに記しておく。
気が向いたら写真を撮るかもしれないが、電話は嫌いである。荷物自体持ちたがらないので(財布とキセル、あとは暑くなってきたので扇子があれば特に)仕事以外はカバンも持たない。
そんなカバンも実は、風呂敷を結んで肩掛けにしたものだったりする。店の人に「おしゃれだ」などと言われるのは営業トークかもなと一歩引いて聞いてはいたが、ある日、近所のインド料理屋で食後(たまたま昼の仕事帰りに立ち寄った)、帰ろうとしたら他のお客さんから声をかけられる。
「風呂敷ですか?」
「ええ、結んであるだけなんで、いつでも解けます」
「へぇー、おしゃれですね」
風呂敷を結んで肩に掛けているだけで「おしゃれ」といわれることがあろうとは夢にも思わなかった。その時は和装ではなく、洋装である。ジーパンにTシャツ。
ちなみに、気取ってやってるのではなく、仕事以外でカバンを持つ気がないのと、その仕事もちょっとした着替えがあれば済むため、カバンなんぞ買う気にならん、という投げ遣りな動機からである。
そうしようと思い立って、風呂敷の結び方を調べ、肩掛けにする方法を見つけたのはいいのだが、キャッチコピーが「エコバッグ代わりにスーパーで買い物する時なんかにどうでしょう」だったりする。
うーん、そういうのは普段のカバンにするにはよくないのだろうか?と考えたが、考えてもカバンはない。それからもう凡そ一年かそこいらか、風呂敷が肩にぶら下がっている。
これからはしばらく、この新しい羽織紐がぶら下がることになるのであろう。着物の時は、風呂敷は肩に掛ける部分を短く結びなおして手提げに切り替えるので、ぶら下がらない。
どうもこういう話は久しぶりすぎて勝手がわからない。帽子買ったり羽織紐買ったりおしゃれだとか似合うだとか言われるのは面白いなぁ、と感じるのだが、やっぱりどこかで「それがどうした」と思っているところがあるのだろう。
腹が立つことも悲しいことも、確かにその時はその時でとても感情を揺さぶるものである。ただ、揺さぶるのはその時の話でしかない。
また野口晴哉の話を持ち出してしまい恐縮だが、こういう話がある。
十日前だか十年前だか、強盗にあって死ぬほど怖い目にあった、と来客が野口氏に語る。もうそれはそれはひどく蒼ざめて。
野口氏は「別にこちらがその強盗なわけじゃないんだから、そんなに蒼ざめるんじゃあない」とかいう風に語りかけるのだが、来客は強盗にあった時の話を思い出してずっと蒼ざめていたそうな。
人の記憶、つまり意識というものが、その時の感情をそのまま今に呼び起こしてしまって、まるでその強盗に今あっているかのような状態に陥れてしまうのである。
勿論、記憶というのは人間以外の動物にもあるくらい、普遍的なものである。ただ、人間は意識に過剰に引き摺られるのである。
ああいっている野口氏というのは別に人間としての記憶をなくせとか言っているわけではない。でなけりゃ来客と話も出来ないし、上記のエピソードも出ない。
意識だとか記憶だとかいうものを絶対的に見るのが今の社会である。それを相対化せよ、というところなのだろう。
上の強盗の人の例で言えばこういうところか。「いやぁ、十年前に強盗に会いましてね、あん時は生きた心地がしませんでしたよ、あっはっは」という感じになれと。空元気でそうやるのではないが。
「全生」という思想を、野口晴哉は打ち立てる。野口整体の考えを示したものというのだろうか、読んで字の如く、生を全うするということであるのだが、意識や記憶はどこまで行っても過去のこと。「生きて」はいない。生を全うするとは、今を生き切ること、といえる。
本来、あなたを縛るものは何もないのである。ただ「過去」があなたを縛っていると思っているだけである。無論、現実に起こっていることがあり、それに影響されるだろう。解決しない問題も山積しているだろう。だからせめて、一日の終わりに、その日あった、辛いことも悲しいこともそして楽しいことも含めて、「それがどうした」と一蹴してみるのもよかろう、と思うのである。では、また。