正坐は日本固有の美風なり、と、野口晴哉は言う。
と、いきなり国粋主義者になったのかお前は、といわれそうだが、違う。
そもそも仙人じゃなかったのか?と問われれば本当はこれも違う。
ちょっと話が逸れるがこうである。
またもや出てくるいつものお店。飲みながら世間話として兄さんに語った。
「断食すると健康にいいんだそうな。有害成分が脂肪に溶け込んでるから云々」と。
兄さんは「はぁ~まるで仙人ですね」などと答える。
仙人、などという言葉がそもそも念頭になかった。世間じゃ仙人と呼ばれるのだナァと思ったので、時折、仙人と呼ばれるのを当たり前にしてしまったのであった。
左のプロフィールの一言は、更新停止前と解除後で書き換えたのである。約めていうと「人が仙人と呼ぶんだよ」と。
ブログタイトルの下の副題も変更したのだが、こちらは関係ない内容である。ついでというわけで。
さて、野口晴哉(のぐち・はるちか)とは誰なのか。
日本に「整体」と呼ばれるものがあるのは周知のことかと思われる。ただし、その整体とはまったく別物である。
区別するために、一般には「野口整体」と呼ばれている。本人は「整体」と称していた。
その直弟子にあたる方の道場とホームページがあって、故野口師の文献などを展示したり、後は色々と学際的なことを行っておられる。
ただ、引用文以外は転載禁止だとか、直リンクもダメという感じなので、とりあえず、そのHPのトップのリンクを貼っておく。
野口整体 気・自然健康保持会
仙人染みた人が気だなんだというと、まるでマンガだが、別に空を飛んだり妖怪と戦ったりはしていないので安心して欲しい。
むしろこちらが妖怪と認識されて退治されてもおかしくない。現代社会的に。
さて、引用文は構わないということなので、一つ。
野口晴哉著『思春期』という著作の一部である。
その人の生命の自由を束縛している無駄な知識、教養をみんな捨てさせるような方法を常に考えているのです。(中略)私達が“自分”だと考えているものは、自分が生きて来た知識、経験の総合なのです。「○○さん」と呼ぶと「はい」と答えるのは○○さんが自分だと思い込んでしまった先入主です。(中略)そういう知識の集りが自分だと思っているのです。
けれども自分とは、それだけのものなのだろうかと言えば、自分の名前をまだ覚えていない内から自分は在ったのです。生まれる前から自分は在ったのです。しかし意識以前に在った自分は判らないのです。意識以後に自分で作って来た、自分だと思い込んで来たその自分だけを、自分だと思い込んでいるのですが、生きているということ、健康を保つということ、いざという時の咄嗟の行動も、みんな意識以前の自分の行動なのです。そして、それを縛っているのが意識しての自分なのです。
さて、これを読んで思い浮かんだのが、エックハルト・トールだった。
もう何十年も前にこのことを指摘していた人物がいて、しかも実は何年も前にその近くにいた(著作二冊ほど読んだだけだが)のだが、すっかり忘れていた。
何たる不覚。
ところで、あまり気だとか整体とか、しかもブリサリアンなどとタイトルにあるのにそんな話が出てこないと思われるだろうが、もう少しお待ちいただこう。
『整体入門』にあったかと思ったが、ちょっと違った。が、引用する。
私のいいたいことは、表面に表れている体力だけが体力のすべてではなく、潜在している体力も体力であることを自覚し、自発的に行為すれば、こういう力(註:冒頭は「火事場のバカ力」の話から始る、平素は使わないが、人が本来持っている身体能力のこと)を、活発に喚び起こすことができるのだということです。(中略)野蛮人の体力を持つようになることは我々の欲していることです。野蛮人の体力を得て今日の文明生活を見直すことが現代の人々にはことに必要なことでありましょう。
では、気とは何か。同じく『整体入門』から。
気は物質以前の存在です。欅の大樹も始めは一粒の趣旨でした。その種子の中にあった気が必要とする物質を集めて、ああいう大きな樹となったのです。(中略)人間の体も気が造ってきたのです。要求によって生まれた気が、必要とするものを集め産み出したのです。気は精子以前の存在、物質以前の動きなのです。だから見えない、触れない、ただ感じる。それも五官ではない。気で感じるだけなのです。気の動きは勢いなのです。勢いは人のいのち(本文では傍点)です。
だが、気は心ではない。心そのものではないという。心も体も気の動くように動くだけだという。
その後で続くのが、その章で説明されている、気に心が引きずられないで、心で気の集散を自由にする訓練へと続く。
とまあ、今これを書いている本人はなんとなくわかっているような風で書いているが、これを知らない状態の自分が見たらなんと感じるだろうか。たぶん、理解しないだろう。
で、書いているところを見つけられなかったのだが、こういう理想を述べていたと記憶している。
あまり食べなく、あまり眠らず、よく働けて(マネー労働のことではないには違いない)皆仲良く和気藹々と、といった風だったか。
サァここだ!ここなのだ。長かった。
野口整体の要点は、もう書いた通りでもあるが、体に本来ある力を発揮させること、である。
もっと細かく言うと、病気にならないとかいうことではなく、例えば風邪だとかその他病気なども含めて、それらの刺激に的確に反応していける敏感な体作りである。
それには気というものの動きを自覚して、というわけであるのだが、こういう感覚というのは実は、野口晴哉一人による発案だったわけではない。
野口整体というもの自体はそうなるのだが、それを可能にさせたものが、実は古来の日本人の生活にあったという。いわば再発見である。
それで冒頭の言葉に繋がる。
正坐もそうだが、着物も実は重要である。野口整体が重視する「身体感覚」というものは、着物(正確には腰に帯をすることだろうが)を着ている状態のほうが自覚しやすい。
ええい、論が飛んでいる。
さて、話を戻して。気というもの、また新たに飛び出してきたこの身体感覚という言葉。まあ、わからんでもいい。
ただ正坐するだけではちゃんと座れていないのである。野口師の言葉を借りるなら、「臍が上を向いた状態」でないとダメだそうな。
鳩尾の力が抜け、上半身が柔らかくなり、頭がすっきりとし、息は深くなり、足は温かくなる。これを「頭寒足熱」というわけだが、この言葉は本来は今の通り、「そうなっている」ものであり、頭冷やして足温める、ではない。
というわけで、ここから実体験に話を進めていく。いやぁ、縁切った友人だったやつに昔言われたものだ。「無駄に長い」と。
度々話を持ち出してきた覚えがあるのだが、改めて言う。貴様の言葉が有益に短かったことなどない。
野口晴哉から正式に認められて道場を開いている人のHPを先ほど紹介したが、そちらのページに正しい正坐のすすめというのがある。
必ずしも正坐でないとダメ!というわけではなく、椅子坐でも要点を抑えて坐ればいいらしい。坐るときに是非とも一考していただきたい。
表千家の総本山?は不審庵だが、仙人もどきの俗世のお仕事は不寝番である。ちょっと言いたかっただけである。申し訳ない。
家にいるなら正坐をやるわけで(今も時折体勢を整えながら正坐して書いている)椅子しかない仕事場でやるわけにもいかない。
というわけで、その要点を抑えた椅子坐を心がけた。電車の時も、仕事中も食べているときも。
いやはや、行きも帰りも電車で寝ることがなく、ずっとじゃないが本を読んでいた。前ならすぐ眠くなったのだが、休憩しようと辞めただけで、眠くならない。
行きはまだしも、帰りは仮眠を数時間(眠りに落ちないこともあるが)とってあるとはいえ、普段は眠くてしょうがなかった。その帰りの電車の中でも読んでいたが、途中で欠伸が出たので、姿勢を意識し直したら、すぐに止んだ。
羽織袴で仕事なんか行くから眠くないんだろうが!と思うかもしれんが、別に着物は着慣れたものなので、汚してはいけないという風な余計な意識はない。世間の目が冷たいので目が冴えたんです、ということにしておく。
冗談はさて措き、食事の時に話を戻そう。
仕事場の近くで天丼を食べたのである。大盛りで。天丼だと!とお叱りを受けそうだが、考えあってのこと。ご容赦願いたい。
天ぷらなんて消化に悪いわけだ。しかも大盛りで食べる。普段ならこれでひどく眠くなるのだが、これがまたなんともない。
食べきるのに苦労する日もあったのに、特に問題なく胃に収まった。まあ、食べきれないなら残すべきではあるが、また別の話である。
飽くまで大盛りは試しただけなところがあったのだが、後は夜食に豆大福を二つ食べた切りで、茶を飲む以外は、昼に住んでいる町に戻るまで食事らしい食事は無かったが、疲労感も空腹感もない。ある意味元気だったので、朝は空になった胃が音を立てたが、飯を呉れ、という要求ではなかった。
昼に帰ってきて、いつも一駅歩いて帰る。約一時間。そこでよろしくないのだろうが、食べて帰ることが多い。
たまに行くそば屋の昼の定食に、刺身御膳なるものがあった。
ご飯は茶碗に軽く。家で炊いて食べる量の三割くらいであった。が、例の坐り方(そこも椅子である)を意識しつつ食べていると、(ついでに飲んだ)別にこのくらいの量でまったく問題がなさそうだな、という気持ちが出る。まあ、空腹の絶頂だったというわけではなく、これまた試してみようか、というレベルであったが。
第二次世界大戦後の日本は、全国食糧難だった。が、我々より壮健な方々もいらっしゃる。
江戸時代に飢饉が度々起こっていて、餓死者も大量に出たが、別に全員死んだわけでもない。
ブリサリアンというのは、文字通りでは「空気を食べる人」であるが、その指導的立場にある人だったか、ブリサリアンがとっている栄養というのは「プラーナ」と呼ばれるものであるという。
ちなみに、ブリサリアン=一般に食べない人、ではないそうだ。
プラーナで生きていない存在は、いくら食べずに頑張って生きていてもブリサリアンではなく、また反対に飲食をほぼ一般と変わらずに行っていても、プラーナによって生きているものはブリサリアンである。
プラーナと気が同じものかどうかは判らないが、似たようなものかもしれないと考えている。解釈違いで、同じものの状態や動きに合わせて名前が変わっただけではなかろうか、と。
「人は飢餓によって死ぬのではなく、飢餓による絶望で死ぬ」という風な言葉がある。
気で解釈するなら、腹が減りすぎて死ぬ、という風に気が向いてしまって、心身が死んでしまったのかもしれない、といえる。
口にするモノは大事である。それは間違いないことの一つであろうが、あたかも糖尿病患者にインスリン注射をするせいで体のインスリン分泌機能を怠けさせることになるのと同じで、他に頼るだけの行為になり得るのだといえる。
ブリサリアンになる訓練法があるのだが、それでやはり、誰でもなれるわけではなく、失敗する人もいる。
それよりももっと簡単にカリキュラム化されたものは、五年ほど、年毎に食べるものを変えていって、最後の一年は生ジュースだけ、というのが一番簡単な方法として紹介されていた。
もしそれでも失敗する人がいるとするなら、(いたかいないかは調べてないが)その人は「インスリン分泌機能が怠けた体」の人であるといえる。
人とは本来ブリサリアンで、そのものになるかどうかは文字通り「気」がつくかどうかであるのだ、と。
正坐せよ。「気」が付きたくば正坐せよ。うーむ、どっからどうみても怪しい。では、また。
と、いきなり国粋主義者になったのかお前は、といわれそうだが、違う。
そもそも仙人じゃなかったのか?と問われれば本当はこれも違う。
ちょっと話が逸れるがこうである。
またもや出てくるいつものお店。飲みながら世間話として兄さんに語った。
「断食すると健康にいいんだそうな。有害成分が脂肪に溶け込んでるから云々」と。
兄さんは「はぁ~まるで仙人ですね」などと答える。
仙人、などという言葉がそもそも念頭になかった。世間じゃ仙人と呼ばれるのだナァと思ったので、時折、仙人と呼ばれるのを当たり前にしてしまったのであった。
左のプロフィールの一言は、更新停止前と解除後で書き換えたのである。約めていうと「人が仙人と呼ぶんだよ」と。
ブログタイトルの下の副題も変更したのだが、こちらは関係ない内容である。ついでというわけで。
さて、野口晴哉(のぐち・はるちか)とは誰なのか。
日本に「整体」と呼ばれるものがあるのは周知のことかと思われる。ただし、その整体とはまったく別物である。
区別するために、一般には「野口整体」と呼ばれている。本人は「整体」と称していた。
その直弟子にあたる方の道場とホームページがあって、故野口師の文献などを展示したり、後は色々と学際的なことを行っておられる。
ただ、引用文以外は転載禁止だとか、直リンクもダメという感じなので、とりあえず、そのHPのトップのリンクを貼っておく。
野口整体 気・自然健康保持会
仙人染みた人が気だなんだというと、まるでマンガだが、別に空を飛んだり妖怪と戦ったりはしていないので安心して欲しい。
むしろこちらが妖怪と認識されて退治されてもおかしくない。現代社会的に。
さて、引用文は構わないということなので、一つ。
野口晴哉著『思春期』という著作の一部である。
その人の生命の自由を束縛している無駄な知識、教養をみんな捨てさせるような方法を常に考えているのです。(中略)私達が“自分”だと考えているものは、自分が生きて来た知識、経験の総合なのです。「○○さん」と呼ぶと「はい」と答えるのは○○さんが自分だと思い込んでしまった先入主です。(中略)そういう知識の集りが自分だと思っているのです。
けれども自分とは、それだけのものなのだろうかと言えば、自分の名前をまだ覚えていない内から自分は在ったのです。生まれる前から自分は在ったのです。しかし意識以前に在った自分は判らないのです。意識以後に自分で作って来た、自分だと思い込んで来たその自分だけを、自分だと思い込んでいるのですが、生きているということ、健康を保つということ、いざという時の咄嗟の行動も、みんな意識以前の自分の行動なのです。そして、それを縛っているのが意識しての自分なのです。
さて、これを読んで思い浮かんだのが、エックハルト・トールだった。
もう何十年も前にこのことを指摘していた人物がいて、しかも実は何年も前にその近くにいた(著作二冊ほど読んだだけだが)のだが、すっかり忘れていた。
何たる不覚。
ところで、あまり気だとか整体とか、しかもブリサリアンなどとタイトルにあるのにそんな話が出てこないと思われるだろうが、もう少しお待ちいただこう。
『整体入門』にあったかと思ったが、ちょっと違った。が、引用する。
私のいいたいことは、表面に表れている体力だけが体力のすべてではなく、潜在している体力も体力であることを自覚し、自発的に行為すれば、こういう力(註:冒頭は「火事場のバカ力」の話から始る、平素は使わないが、人が本来持っている身体能力のこと)を、活発に喚び起こすことができるのだということです。(中略)野蛮人の体力を持つようになることは我々の欲していることです。野蛮人の体力を得て今日の文明生活を見直すことが現代の人々にはことに必要なことでありましょう。
では、気とは何か。同じく『整体入門』から。
気は物質以前の存在です。欅の大樹も始めは一粒の趣旨でした。その種子の中にあった気が必要とする物質を集めて、ああいう大きな樹となったのです。(中略)人間の体も気が造ってきたのです。要求によって生まれた気が、必要とするものを集め産み出したのです。気は精子以前の存在、物質以前の動きなのです。だから見えない、触れない、ただ感じる。それも五官ではない。気で感じるだけなのです。気の動きは勢いなのです。勢いは人のいのち(本文では傍点)です。
だが、気は心ではない。心そのものではないという。心も体も気の動くように動くだけだという。
その後で続くのが、その章で説明されている、気に心が引きずられないで、心で気の集散を自由にする訓練へと続く。
とまあ、今これを書いている本人はなんとなくわかっているような風で書いているが、これを知らない状態の自分が見たらなんと感じるだろうか。たぶん、理解しないだろう。
で、書いているところを見つけられなかったのだが、こういう理想を述べていたと記憶している。
あまり食べなく、あまり眠らず、よく働けて(マネー労働のことではないには違いない)皆仲良く和気藹々と、といった風だったか。
サァここだ!ここなのだ。長かった。
野口整体の要点は、もう書いた通りでもあるが、体に本来ある力を発揮させること、である。
もっと細かく言うと、病気にならないとかいうことではなく、例えば風邪だとかその他病気なども含めて、それらの刺激に的確に反応していける敏感な体作りである。
それには気というものの動きを自覚して、というわけであるのだが、こういう感覚というのは実は、野口晴哉一人による発案だったわけではない。
野口整体というもの自体はそうなるのだが、それを可能にさせたものが、実は古来の日本人の生活にあったという。いわば再発見である。
それで冒頭の言葉に繋がる。
正坐もそうだが、着物も実は重要である。野口整体が重視する「身体感覚」というものは、着物(正確には腰に帯をすることだろうが)を着ている状態のほうが自覚しやすい。
ええい、論が飛んでいる。
さて、話を戻して。気というもの、また新たに飛び出してきたこの身体感覚という言葉。まあ、わからんでもいい。
ただ正坐するだけではちゃんと座れていないのである。野口師の言葉を借りるなら、「臍が上を向いた状態」でないとダメだそうな。
鳩尾の力が抜け、上半身が柔らかくなり、頭がすっきりとし、息は深くなり、足は温かくなる。これを「頭寒足熱」というわけだが、この言葉は本来は今の通り、「そうなっている」ものであり、頭冷やして足温める、ではない。
というわけで、ここから実体験に話を進めていく。いやぁ、縁切った友人だったやつに昔言われたものだ。「無駄に長い」と。
度々話を持ち出してきた覚えがあるのだが、改めて言う。貴様の言葉が有益に短かったことなどない。
野口晴哉から正式に認められて道場を開いている人のHPを先ほど紹介したが、そちらのページに正しい正坐のすすめというのがある。
必ずしも正坐でないとダメ!というわけではなく、椅子坐でも要点を抑えて坐ればいいらしい。坐るときに是非とも一考していただきたい。
表千家の総本山?は不審庵だが、仙人もどきの俗世のお仕事は不寝番である。ちょっと言いたかっただけである。申し訳ない。
家にいるなら正坐をやるわけで(今も時折体勢を整えながら正坐して書いている)椅子しかない仕事場でやるわけにもいかない。
というわけで、その要点を抑えた椅子坐を心がけた。電車の時も、仕事中も食べているときも。
いやはや、行きも帰りも電車で寝ることがなく、ずっとじゃないが本を読んでいた。前ならすぐ眠くなったのだが、休憩しようと辞めただけで、眠くならない。
行きはまだしも、帰りは仮眠を数時間(眠りに落ちないこともあるが)とってあるとはいえ、普段は眠くてしょうがなかった。その帰りの電車の中でも読んでいたが、途中で欠伸が出たので、姿勢を意識し直したら、すぐに止んだ。
羽織袴で仕事なんか行くから眠くないんだろうが!と思うかもしれんが、別に着物は着慣れたものなので、汚してはいけないという風な余計な意識はない。世間の目が冷たいので目が冴えたんです、ということにしておく。
冗談はさて措き、食事の時に話を戻そう。
仕事場の近くで天丼を食べたのである。大盛りで。天丼だと!とお叱りを受けそうだが、考えあってのこと。ご容赦願いたい。
天ぷらなんて消化に悪いわけだ。しかも大盛りで食べる。普段ならこれでひどく眠くなるのだが、これがまたなんともない。
食べきるのに苦労する日もあったのに、特に問題なく胃に収まった。まあ、食べきれないなら残すべきではあるが、また別の話である。
飽くまで大盛りは試しただけなところがあったのだが、後は夜食に豆大福を二つ食べた切りで、茶を飲む以外は、昼に住んでいる町に戻るまで食事らしい食事は無かったが、疲労感も空腹感もない。ある意味元気だったので、朝は空になった胃が音を立てたが、飯を呉れ、という要求ではなかった。
昼に帰ってきて、いつも一駅歩いて帰る。約一時間。そこでよろしくないのだろうが、食べて帰ることが多い。
たまに行くそば屋の昼の定食に、刺身御膳なるものがあった。
ご飯は茶碗に軽く。家で炊いて食べる量の三割くらいであった。が、例の坐り方(そこも椅子である)を意識しつつ食べていると、(ついでに飲んだ)別にこのくらいの量でまったく問題がなさそうだな、という気持ちが出る。まあ、空腹の絶頂だったというわけではなく、これまた試してみようか、というレベルであったが。
第二次世界大戦後の日本は、全国食糧難だった。が、我々より壮健な方々もいらっしゃる。
江戸時代に飢饉が度々起こっていて、餓死者も大量に出たが、別に全員死んだわけでもない。
ブリサリアンというのは、文字通りでは「空気を食べる人」であるが、その指導的立場にある人だったか、ブリサリアンがとっている栄養というのは「プラーナ」と呼ばれるものであるという。
ちなみに、ブリサリアン=一般に食べない人、ではないそうだ。
プラーナで生きていない存在は、いくら食べずに頑張って生きていてもブリサリアンではなく、また反対に飲食をほぼ一般と変わらずに行っていても、プラーナによって生きているものはブリサリアンである。
プラーナと気が同じものかどうかは判らないが、似たようなものかもしれないと考えている。解釈違いで、同じものの状態や動きに合わせて名前が変わっただけではなかろうか、と。
「人は飢餓によって死ぬのではなく、飢餓による絶望で死ぬ」という風な言葉がある。
気で解釈するなら、腹が減りすぎて死ぬ、という風に気が向いてしまって、心身が死んでしまったのかもしれない、といえる。
口にするモノは大事である。それは間違いないことの一つであろうが、あたかも糖尿病患者にインスリン注射をするせいで体のインスリン分泌機能を怠けさせることになるのと同じで、他に頼るだけの行為になり得るのだといえる。
ブリサリアンになる訓練法があるのだが、それでやはり、誰でもなれるわけではなく、失敗する人もいる。
それよりももっと簡単にカリキュラム化されたものは、五年ほど、年毎に食べるものを変えていって、最後の一年は生ジュースだけ、というのが一番簡単な方法として紹介されていた。
もしそれでも失敗する人がいるとするなら、(いたかいないかは調べてないが)その人は「インスリン分泌機能が怠けた体」の人であるといえる。
人とは本来ブリサリアンで、そのものになるかどうかは文字通り「気」がつくかどうかであるのだ、と。
正坐せよ。「気」が付きたくば正坐せよ。うーむ、どっからどうみても怪しい。では、また。