ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

ラヂヲ 十六杯目最終回とキセル自棄酒

2013-03-05 | ラヂヲ
時刻的には昨日、ラジオを早朝には仕上げておいて、それから寝ていたら、最近なんだか調子がおかしい。

春先には昔から言われるだろう。春眠暁を覚えずと。


そういうものかしらんが、寝ているとひどく動悸がするような、胸が苦しい感じになる。ああ、きっとコイであろう。寒い日に餌投げ込んだらあまり食べなかったので、「邪魔するな」と怒られたに違いない。


ラジオも、本編はともかく、おまけのキセルの時間の方が、編集を間違えていたのにアップするときに気がつくという有様。怒り心頭とまではいかなかったが、しばし腹立ちが治まらなかった。


それもあってか、再編集と投稿を終えてから少し腑抜けた気分になった。ええい、飲んで寝てやる!と。そして今になって書いているというわけである。


余談はまた後で。まずは十六杯目の最後を。



【ラヂヲ】ウヰスキーの時間 十六杯目チェイサー



これにて十六杯目は終了。ここは十七口にして、長引いたから五分くらいの総評コメントみたいなものを締めに入れようかと思ったが、くどいので辞めた。



さて、間違えていたので編集し直した、キセルの時間。

【ラヂヲ】キセルの時間 四服目


今回は、ライヒの話が中心。フロイトと対立した理論になどについて。





さて、寝ていたら電話が鳴った。着信を見ると、橋本幸一なんて名前が出ている。そんな名前知らないのだが、何故だか高校の時の友人だった。幸の一文字しか合ってないのに。


なんでも、この間アフリカに行って来て、その知り合いをつれてきたから、お前は着物を着て日本の文化というものを見せてやってくれ、という。

日付が変わっている日の今日というのである。無茶を言う。当然、「知らん。自分でやれ」と断った。


日本の文化だとかいって、普段意識もしないくせに、日本の一部地域で行われていることをあたかも「日本の」文化と吹聴しているのが現代である。


例を挙げよう。

飯を食うときに、手を合わせて「いただきます」という。これも、日本の一部だけで行われていた風習である。後は、お寺だろうか。

何十年か前のテレビドラマでそういうシーンが流され、それから流行ったのだという。そんなふざけた話をあたかも地球開闢から続いているかのように「伝統だから」と言って押し付けているだけである。


これまた、昔テレビで流された話だが、然るキャリアウーマンがカナダかに行った時、現地の人間に「何か日本の文化を示せるかね」という風に言われ、何も無いことに衝撃を受ける。

そして一念発起して、舞妓だか芸妓になったそうな。

雲泥の差はあるが、それは現代でいえばキャバ嬢のような気がするが、まあ、「文化」には違いない。個人の自由である。


キャバ嬢になるのはバカである。

芸妓になるのはそれよりましなバカである。

そして、それらを作り上げたのは大バカである。

そんな大バカに右往させられるバカの集まりが世界である。


カナダなんぞ数百年ぐらい前にフランスあたりからの入植者から出来た国である。アメリカなら確実にこういって喧嘩になろうが、こういえばいい。「あなたがたにお見せして気に入られるような血なまぐさい文化はございませんので」と。言う必要はないが、大体そういうことを聞いてくるのは白人ばかりである。しつこいようなら言ってやろう。

いってしまえば、日本も同じであろうが、つまりはどこも同じだということである。繰言のように文化文化とのたまうやつは、文鳥とさして差は無い。文鳥の方が愛嬌があるくらいである。


はて、暴言を吐く時間だったかな。そうそう、話を戻す。


電話を切った後、これまた書き込んだ覚えのない掲示板だか、ブログのリンク集のようなものを見て、自分の書き込みだかブログの記事だかにレスが付いてないかを見ていた。内容は忘れたが、タバコの話だった気がする。


そして、気がつけば、かつて通っていた大学の今は無き茶室で、茶を点てていた。

客も供も無い状態で、一人で点てては飲んでと、数杯ほど繰り返していた。「ああ、この温度だな」と。


そのあたりで目が覚めた。電話とパソコンを見ている話と、茶を点てていた話は夢である。文化云々の一部は、その夢でも反芻していた話もあるが、本当に電話を受けていたのじゃないかというくらいはっきりとしていて、変な気分である。



「いただきます」についてもう少し。


実家でもやはりそれは躾けられてきたのだが、ついぞやろうとしなかった。人がやっていると一緒にやろうとはするが、一人でやったことは、意識してやろうとした時だけで、続いたことがなかった。

西洋人の家でホームステイしたときに、食事前に周りがお祈りをするので、見よう見まねでポーズをとる、というような気分である。


果物をもぎ取って口に運ぶ前に、一々「いただきます」と言ってきただろうか。言ってきたかもしれないが、食べたいと思うならもう通じているだろうと。


口でいわなきゃならなくなったのは、やはり、分裂したからといえるだろう。


仏教の伝来で始ったと仮定するならば、こうもいえるかもしれない。

本来は食べるべきものでないから、いただくという気概をこめないと食えなかったと。分裂との相乗効果もありで。



「いただきます」を否定しようというわけではない。が、そもそもの根拠がテレビからのブームだったことと、日本だからといって津々浦々まで同じではないということである。

画一化しているだけのものを文化というならば、そんな文化は権威である。現代は、文化の衣を纏った権威が溢れかえっているわけである。

「いただきます」をやるのはバカだ、というわけではなく、やってないからと人をバカにするのは大バカだというわけだ。躾がなっていない、というだろう。

習慣の違いを考えないということはつまり、「キリスト教徒以外は人間にあらず」と言っては虐殺を繰り返してきた白人と変わらないのである。


真の「文化」と呼べるもの。それは他者の膝を折るものではない。己の膝は己に拠って屈するべきである。では、また。


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