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再燃

2010-09-10 | 雑記
アメリカあたりの研究チームが最近、ちょっと面白い成果を発表したそうな。

記事についてはもうどっかいったのでわからないが、内容はというと、
「怒りの感情は行動に移すと発散されるのかどうか」といった内容。

腹が立った場合、例えばクッションを殴ってみる、とある芸能人が昔いっていた、安い皿を布団の上で叩き割る
といった発散行動は、実際に発散につながるのかどうか実験したのだという。


実験の方法は、大学の授業であるテーマに沿ったレポートを学生に書かせる。
片方は褒める。片方はひどく罵倒する。
褒めるほうは別に関係ないが、その罵倒するほうのうち半数には前もって
「怒りの感情はためずに行動に移して発散したほうがよい」というレポートを読ませてある。

で、その後の行動をチェックする、というわけだ。細かいことは忘れたがこういう風だった。

msnだかのホームで見たので、探せば記事は見つかるはず、と思い立ったがわからなかった。


結果として、行動で発散した場合、発散ではなく更なる怒りを呼ぶといえる、となったそうな。

『クレヨンしんちゃん』に登場するねねちゃんのママというキャラがまさに当てはまる。
ひどく腹を立てると「おほほ」と中座し、影でぬいぐるみを静かに殴る人で、それで「発散」する。

もちろん、それで済むわけもなく、何度も何度も影でドスドスやるわけで、ギャグの一つになっている。

昔、TVアニメで見て、面白いなぁと思ったものだったが、理に適っているというかなんというか。

ちなみに、怒りが増さなかった人達は、暴れたりしないでゆったり過ごしたという。
怒りの感情を冷静に見直したりして、文字通り冷ましたのだという。

記事の結びも「怒りの感情を余裕をもって見直すのがストレスをためないコツなのかもしれない」などと。


今回の研究は「怒り」についてだったが、他でも同じことがいえるかもしれない、と感じた。

「怒り」に近い「悲しみ」も同じことがいえそうだ。泣く子が延々泣くというアレだ。
念頭にある人物が浮かぶのだが、前に、その話はするなといわれていた。時効ということで。


例の記事の冒頭のほうだったか、古代ギリシャかローマだかのものの考え方で、カタルシスがどうのとあった。
まあ、感情を昂ぶらせて、一気に落とす。その落差に快感を覚えるとでもいうか。

有態にいえば、感情に思いっきり振り回されるのが一番気持ちよい、と昔から言われてきたわけだ。

その流れで現在も「ストレスは解消するもの」という認識で、如何に解消するかを模索してきた。

だが実際は、「ストレス」という言葉は、本来は「刺激」を意味する語で、脳生理学的にいってしまえば
喜びも悲しみも「ストレス」になるのだという。

刺激に刺激を与えたところで余計に痛くなるだけ。ひっぱり方を変えたところでひっぱってる事には相違ない。

自分の感情をコントロールせよ、などと言われるが、大抵は「振り回され方を変えよ」程度だったのだろう。

感情すなわち心というわけだが、同じ古代ギリシャの賢人は面白いことを語る。
曰く、「自分の頭の後ろ上の方から自分を指示する声がする。私はこれに従っている。」
何かの引用ではないが、そういうことをソクラテスが語っていたという。聞いた話である。

本当に頭の上に妖精でもいてあれこれやっているわけではなかろうが、解釈するとこうだ。
つまり、「自分」と、それを客観視するもう一つの「自分」があると。これもよく聞くような話ではあるか。


泣く子にこういう話を昔聞かせたような気がするが、変わるわけはなかった。今は知らない。
そういう話をこう理解するからといって、ちゃんと出来ているわけはないので、人の事をいうべきでもないが。


一瞬で入れ替わる感情とかいうものに拘泥して振り回され、もっと苦しむことになるのだから
人間の欲というのは留まるところを知らないのである、と人間が申しております。

ソクラテスじゃないが頭の上の方からこう聞こえる。
「アホみたいに喜ぶのも悲しむのも、怒り狂うのも、己が欲しがり過ぎたからだ」と。

そう聞こえるようになってから、なくなったわけじゃないが、イライラする頻度と時間は減った。

たまたま調子がいいだけの話かもしれないが、それはそれで結構。では、また。

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