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仙人、風呂敷を広ぐ

2018-06-11 | 雑記
いつも何のことだが、人が判りかねるような内容を書いてばかりでは、こちらが人間であることを疑われかねないなと。

疑うのは勝手だが、それで悪魔だとか何かの手先だとかと、石持て追われるのは本意ではない。

拙はただ、人間の限界を知り、超えたいだけなのである・・・。


というのは措くとして、日常的な話を書く。



先日、近所、といっても歩いて二十分ほど行った所に、カフェがある。

当初は欧風カレーとネルドリップのコーヒーを出していたが、カレーは仕込みに手間がかかるので、カレー以外にも色々出すお店になっている。

色々拘った素材を使っていたりするのだが、別に高級店ではない。同じ内容で都心で食べたら少ない量で倍する、というような具合にはなるだろうが。

そのお店は、然る舞台演出家とその奥方のお二人が切り盛りしているお店で、開店当初からちょくちょく出向いている。

飯を食ってコーヒーを飲んでしばし雑談していると、その舞台演出家のご主人がこういう。

「君はカリスマとまではいかないが、何か人をひきつける魅力があるようだ」と。

奥方は「カリスマじゃないのか」と笑われておった。


そこで昔や、最近でも言われた事などを思い出す。


かつて、某ハンティングアクションゲームをプレイしていたときのことだが、何かで仲良くなって一緒に行動していた人が、ログインしてきたある日のこと。

しばし雑談していると、眠くなってきたのでログアウトすると言い出した。ついさっき来たばかりだが、深夜ぐらいの時間だし、仕事で疲れていたりだとかもあるのだろうと。

そう思ったら、こう言った。「あなたと話していると、落ち着いてしまって、眠くなっちゃった」と。

別に催眠術なんぞかけた覚えはないのだが、そういって寝てしまわれた。


今度は最近の方だが、よく雑談して、たまには買い物もしている、蛙の雑貨店がある。

この話は先日も書いたが、そこのお店の店員のお姉さん(年齢的に)は、本人は気功を習ったりしているわけではないが、血筋の影響やらで、ご子息が気を練っては肩に乗せてもらって癒してもらうだとかしてもらっていたという。
何かの切っ掛けでその話になったので、お互いの手をかざしてみると、お姉さんはびっくりして「息子の時と同じ具合だ」と言っておられたものである。

その人はこう言っていた。「いつも楽しそうに来るので、お店の雰囲気も明るくなる」という風に。

話が前後するが、こういわれたというのを、上記のカフェの奥方としゃべっていたら、奥方も同意し、ご主人の方があのように言われた、こういう流れだったと思う。


やはり、カリスマというほどではないのなら、拙は参謀のような立ち位置で振舞うのが最良なのだろうなぁと思うのだが・・・。

誕生日とか、選択肢を選んでいって調べるオーラの色診断、なんていうものがあるが、その結果も、似たようなことを言われた覚えがあった。

ある意味望み通りとは言えるが、人生は上手く行かないように上手く出来ていると思うような出来事が起こっている。

そのことは後述する。


先日から話題になっている、子供虐待死のニュースがある。内容はここで改めて書くまでもない。

そういったニュースは、非情に聞こえるのは承知で言うが、ありふれている。痛ましいと思わない、という意味ではない。

アリス・ミラーを紐解くまでも無く、子供に躾とは名ばかりの虐待をするというのは、機械的に行動する個人の力だけでは如何ともしがたいものであろう。本人は当然と思っているのだから。

行政の怠慢がどうこうというのもあるだろうが、怠慢があるとして、それがどうして引き起こされたのかを、ただの人間に本当に理解し、解明できるのだろうかと思う。


というわけで、その事件のニュースを見聞きして思い出した、奇妙な話を綴ることにする。


内容はというと、とあるゲームのシナリオなのだが、感慨深いものがある。


『真・女神転生Ⅲノクターン(ノクターンまでがタイトル)』というのがある(以下ノクターン)。これの追加シナリオ版で、さらに『マニアクス』(以下マニアクス)というのもあって、ノクターンで語られなかった部分や、追加のダンジョンやボスや調整を施した限定版である。

上の話に繋がる部分を説明するためには、冒頭のシナリオから書かなくてはならなくなってきたので、もうしばらく我慢いただきたい。


主人公が、病気で入院している先生の見舞いに行くと、変な男に会って、その男は主人公の先生は別に病気ではなく、一仕事してもらうからここにいる、ということを言われる。

ゲーム内の言葉で、「東京受胎」という次元が捻じ曲がるようなことが起こり、その病院にいた人以外は皆、様々に変貌してしまう。

東京を舞台にしているのだが、地面を内側に曲げた球形の状態になっており、その球体の真ん中には太陽ではないが、太陽のように光り輝く物体が浮かぶ。

周りは異形の存在だらけになり、主人公も死にかけるのだが、異形の力を授かり、一命を取り留める。己もまた異形の一つと成り果てて。


と、こういう始まりである。病院にいなかった人々は、大体は想念体という形で、幽霊みたいになって道端に浮かんでいたりする。


シナリオの途中で、「マネカタ」という、人の形はしているが、色々とぎこちない言動をする人々?が登場する。

「マネカタ」は琉球の伝承だとかに存在する言葉から来ていると思われる。

その「マネカタ」のリーダーは、顔も凛々しく、普通の人と変わらない言動で、他の「マネカタ」たちを率いて町を作ったりする。名前は忘れた。

そして、「マネカタ」を虐殺してその顔の皮を剥ぎ取る「マネカタ」がいる。こっちも名前を忘れた。


シナリオ終盤で、両者ともご退場したと思うが、マニアクスの追加ダンジョンで、この二人の関係がほのめかされていた。


「東京受胎」で、病院にいなかった人は姿を変えたといったが、追加ダンジョンに現れる想念体がそれぞれ上記の固有名のある「マネカタ」と思しきことを語っている。

片方は若い殺人鬼。得々とかつての殺しの話をする。しかし、「生まれ変わるなら、人と触れ合ってよく生きたいな」という風なことを最後には語る。

その想念体の形は、「マネカタ」のリーダーを彷彿とさせる形だった。

もう一つは、その殺人鬼に肉親を殺害された男性で、普通の人だったのだが、「あいつを殺してやりたい」という風なことを語っていた。

その形は、「マネカタ」の顔の皮を剥ぎ取る「マネカタ」を思い起こさせる形をしていた。


さて、例の事件の話に戻る。

アリス・ミラーの論から語るなら、例の親は、その親かそれに当たる存在に同じ目にあわされていたとなるだろう。

そして、子供には自身の子供時代の姿を投影して、という流れである。これはまだ目に見える形だから、理解できるかと思われる。

だが、本当はもっと込み入った因縁が、例の事件だけではないが、そういうことを引き起こしているのではなかろうかと。


おかしなことは毎日起きている。「マネカタ」が「マネカタ」の顔を剥ぐ、というのはおかしな話であろう。

しかし、それは故あってのことだったと書いた。


実生活とやらからすれば、虐待死させたのは覆しようもない事実である。

法律で裁くことは当然だが、しかし、人が人を本当に裁けるものなのだろうか、と思わざるを得ないのである。


山田さんという人がいるとしよう。本当にその人は山田さんとして生きて死んだ、と言い切れるのだろうか?

あなたは?わたしは?本当にそうなのだろうか?目に見える形からだけでは決して言い切れないものなのだが、目に見えるものが答えだとする世の中では、キチガイの戯言になる。


然るオカルトレベルの説だが、人類は地球のために存在する状態がずっと続いていて、それ故に、人類は人類としての進化は阻害されているという。

その状態を抜けようとすると、地球のための歯車であることへ引き戻される。目立つ人がいると足を引っ張るかのようであるが、これが人類の状態なのだという。

上記と直接関係ない部分だが、そこでも釈迦と同じ事をいっている。釈迦の言はこうであった。

「己の見解を真理と見なしている」から、お互いの論を攻撃しあっているのだと。


また、別のところからの話だが、人類の最大公約数は宗教になるという。そして宗教というのは、生活パターンであるという。

民族が違っても、お互い共通して保持できる約束事があるという安心感を持たせるためのシステムが宗教なのだとか。

だから、宗教が民族をまたがって大きく存在しているのである。それを働かせるための権威として、神が既定されている。

宗教を超えたことを言い出すと、深く考えない人々ほどひどく叩き始めるのは、その約束事に機械的に安住しているが故であろう。

上記のオカルトレベルの説と書いたところと同じようである。

思うに、現代の宗教が地球だと以前書いたことは間違いではなかったようだ。

世界統一の宗教を、こちらから言えばかつての宗教を復活させたがるのは、別にどこかの誰かの陰謀ではなく、我々が機械的に生きているが故の帰結だったのである。


さて、宗教は生活パターンのことだと述べた方が言っている。

我々は宗教を超える始まりなのだ、と。

同じ生活をしていても、抜け出でる存在は現れるものである。

生活パターンを投げ捨てろとは言わないが、だからといって、生活パターンに則れば判る物でもないのである。

「法によらなくても悟れるとは言わないが、だからといって、法によれば悟れるというものでもない」という風に、釈迦も言われていた。


今ある人の世、人の姿というのはある意味自然の流れであり、奇跡ともいえる。

しかし、「奇跡とは自然に反することではなく、我々が自然だと思っていることに反しているに過ぎない」のである。


奇跡だとか自然だとか、そういうものすら乗り越えるのが、人間としての本当の進化なのかもしれない。


では、まだ終らない。







ここから冒頭通り、日常的なお知らせである。後述する、で区切った続きである。


来る七月一日都内某所にて、風呂敷だけで作る鞄の講習会が開催される予定である。

その孔子、じゃなくて講師はなんと、拙である。

色々と風呂敷を広げて来たものだが、今度は畳み方を教える羽目になるとは、因果なものである。

拙は参謀であってリーダーではないのである・・・。

ここであまり詳しく語りたくはないので(身バレというのを恐れてみる)、「西八王子 ネパール料理屋」で検索したら出るお店のホームページやらフェイスブックでお知らせがされていると思われる。

近くに住んでいて、やってみたいという方は、お店のほうにお申し込みの程を。


では、よき終末を。


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