ウヰスキーのある風景

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認識

2010-04-08 | 雑記
オンラインゲームは、基本的に見ず知らずの相手とゲームのキャラをその人の身代わりとして(アバターという)
コミュニケーションをするものだと。MMORPGなどと呼ばれる本格的なゲームから、セカンドライフのような
ゲームと呼びにくいものを一緒くたに呼ぶのはいささか抵抗があるが、根本は上述の通り。

テレビなどでたまに取り沙汰されることといえば、はまりすぎて仕事いかなくなっただとか
現実の区別がつかなくなって以下略、と、暗いところがクローズアップされる。

はまりすぎて仕事や学校云々はそいつの問題だが、ネット=非現実 それ以外=現実
というくくりも実に曖昧というか、あまり本質を突いた言葉ではないと考えている。

「ネットゲーって、実際に顔合わせたこと無い人とやるんでしょ?」とか
「顔も知らん人間に罵倒されるのに意味があるのかね?」などなど、よくもまあ判で押したように、と失礼。

さて、誰だったか、上記のやり取りをやった相手かもわからないが、(前者と後者は別の機会)
「実際に顔合わせないとかいうけど、顔も合わせてない人と文通してる人はどうなんだ?」
と、これも皆が皆やるわけじゃないがおよそ想像つく話を振ってみたが、満足する答えは無かった。

実際に目に見えるものが「現実」というなら、目の見えない人には「現実」がないことになる。
実際に声を聞くから「現実」だというならこれもまた聴覚障害の人間にはないことになる。
盲聾だったヘレン・ケラーはとてつもなく非現実的な存在だったと。ある意味そうだが、これは余談。

宇宙飛行士がスペースシャトルに乗って宇宙で活動をしてくるのをテレビで見るわけだが、
それを見て「わしは実際に見に行ってないから宇宙なんてない」などというわけはないし、
そういうとまず正気を疑われる。皆が皆見たわけではないが、「現実」にあると認識されている。

最新学説によって今まで「現実」として認められていたものが覆されることもある。
自然科学のようにすぐさま波及するものでない場合は、それまでの「現実」が運用され続けることもある。
実際に未だに天動説を信じている世界があるわけで、アメリカの一部州では進化論を教えていない。

「現実」の反対は「非現実」、というならば、夢という「非現実」を見たという「現実」も否定されるべきか?

100m先のゴミ袋が、近づいてみると倒れた人だった。
100mより離れていて目に入った時は人だっという「現実」はそこにはない。ゴミ袋に見えた「現実」だ。
もし、その目撃者が近づかなかった場合、彼の「現実」ではゴミ袋のままになる。
これを「非現実」と呼ぶことは出来ないだろう。まして夢でもない。

物事をあっさりと峻別して疑ってもみないのは、生活上の技術としては歓迎できるが、好きにはなれない。
一度「非現実」と認めた場合の彼らが、その「非現実」に対してどれだけ不寛容になるかは、
別にネットだけでなくいたるところで感じられるはず。
具体例はあげたくもないので、気が向いたら想像する程度で。
愉快な「現実」のために不愉快な「非現実」を否定もしくは破壊しようとするわけだ。
もしくは、自身の「現実」ではないから、簡単に踏みにじれる。

多かれ少なかれ、その感情の動きはどの人間にも当てはまる。良し悪しでなくそういう仕組みなんだと。
お互いの「現実」を破壊されないよう、お互いの妥協点を探るために、付き合わざるを得ない他者と交流をする。
そうやって自他の「現実」を修正していくわけだ。
それが出来なかった場合、自他どちらか一方の破壊につながるといえる。
かつて、ネット上でのやり取りを「非現実」と嘲い、そのネット上の先の相手が
今、同じ時間を共有している、という「現実」を認識しようともしない行動を見たが、
自身にとってまさに「現実」の破壊を目の当たりにした気分だった。

ただ、それが頻発するのがネット環境ともいえるし、話題になりやすいというか攻撃の目標にされやすいのが
ネットゲーを代表とするネットでのやりとりだったと。そもそも、その問題を内包する現代文明の粋だから。

「現実」や「非現実」などと乱暴に、そして無思考でただ利便性でのみ存在する区別のつけようは
まったくもって現実的な話ではなかったようだ。区別しているつもりで実際は混同しているのだから。

これが現実というのなら、毎日二日酔いが「現実」に起きているほうがマシだ。では、また。