ウヰスキーのある風景

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変化

2010-04-04 | 雑記
現在は民主党政権。なる前にも、それ以前から折に触れて喧しく謳われた言葉がある。

それは、政権交代で政治が「変わる」と。新聞や、特にテレビでコメンテーターがうるさかった。

衆参議員の入れ替え選挙の前後だけでなく、他の例では都知事選挙でも同じように使われていた。

「変わる」という言葉には、どう贔屓目に見ても「それまでのものと違うものや状況になる」
という以上には意義が見出せない。なのに、だ。それを口にするものはしかめ面をしながら
それまでの状況のよくないことをあげつらってこういうのだ。「これで政治は変わるのでしょうか」と。

言葉に期待をこめるのは結構だ。それが影響力のない場合に限り実に無邪気なものだ。
だが、状況を整理し分析し、挙句の果てに公にするものがどうしてこう言葉に無頓着なのか。
選べない、というか選びたくないのだろう。そしてわざわざ否定的な結論があるのにあたかも
存在しないかのように表現し、逃げ道を確保する。

「変」や「変わる」という言葉に、「良くなる」などという謂が「字統」や「言海」にあった、
というのならこちらの誤りだろうが、少なくともよくなるという風を無理矢理重ねている。

かつて、スペインの思想家、ホセ・オルテガ・イ・ガセットは、
世界の「大衆化」に警鐘を鳴らした主著「大衆の反逆」で述べていた。
  一つの言葉に多くの意味を重ねることは、精神の大衆化の兆候である。
と、細かい表現は忘れたがそう述べていた。

なに、この世は元から大衆の世界。これは別に貴賎や財産の多寡ではない。
約めて言うなら「精神の高貴さ」とでも言うべき概念。

精神の高貴さとはなんぞや、といわれて答えられるものは自身にも現代にもあまりないと思うが、
一つの言葉に多くの意味を重ねて使いまわされる「決まり文句」でもって事物をわかりきったつもりになるのは
とてつもなく危ういことだと感じている。その危うさを感じないことこそが「大衆化」なのだから。



さて話は変わって、春らしく旬の素材を使ったお料理です。

昔からスパゲッティを作って食べることが多く、そしてソースも基本的に自作するわけだが、
ネタが二種類しかない。ぺペロンチーノかアラビアータか。元を質せばぺペロンチーノにしかならない。

と、いうわけで、ほんの少しだけ別の素材を使って味を変えてみた。といっても定番の料理だが。

イタリアの食材に、「アンチョビ」というのがある。魚の漬物のようなものだ。鰯の油漬けである。

これと、春キャベツを使ったシンプルなスパゲッティを作ってみた。
以下が完成したものの写真。



アンチョビの味は実に濃く、ぺペロンチーノベースなのにその味を抑えるほど。

甘味のあるキャベツとの相性はよいらしく、シンプルながら飽きない味だった。

作り方は色々ある。いくつか作り方を調べてみて、ペペロンチーノベースで作るやり方でやってみた。
やりなれた方法に少し応用を加える、応用というほどでもないのだが、簡単なのでそうやったまで。
「キャベツとアンチョビのスパゲティ」で調べてみると沢山の調理方法を見ることが出来るだろう。

彼岸と此岸の違いを見比べてみるのも、また一興。作ってみてまずい、アンチョビ臭いと思うのもよし。
と、いうわけでいい加減寝ようと思います。では、また。