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ウヰスキーのある風景

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仙人、モデルと邂逅す

2018-07-01 | 雑記
これを書き始めた日の午前中、以前に何度か告知した、「風呂敷鞄の講習会」を行ってきた。

紆余曲折、というほどではないが、参加者は三名。内一名は市内に住む、大学の後輩であった。

しかし、終了時に講習費を頂戴したところ、何故か四名分貰うことになったのだが、それは今回の企画発案者の女性スタッフの方も実際に着席して講習を受けたからというわけで、締めて四名に風呂敷鞄の作り方を教えたわけである。

しかし、まさか本当に行うことになるとは思わなかった。告知してからすぐに参加表明した方一人だけになるかと危ぶんでいたのだが、かき集めてきた自前のと借りてきたのと、上記の女性スタッフの自前の分(インドの織物)で、参加者全員とついでに店主(大きすぎる布の端っこだけ結んだだけのを持ってもらって)とで記念撮影をして終了と相成った。

ただ、残念なことに、純粋な参加者は一人として風呂敷を持ってこなかった。出来れば自分で作った鞄を持って、使う使わないはいいとしても、こういう事が出来るのだなと自身の肥やしにしてもらえたらよかったなぁとは考える。

とはいえ、肝心要は結び方なので、この先何かで役立ててもらえれば結構である。結び方の練習はハンカチでも紐でも出来る。

それに、一週間くらい前に、馴染みのバーで「例のお店でこの講習会をやる」と喋って、結び方はこうこうと、持ち歩いていた手ぬぐいでやってみせたところ、「それ、知ってる」と返された。
というのも、その結び方で包帯を結ぶそうで、バーの女性店員は「看護師結び」と言っていた。
知っている人は知っているレベルといえるが、見たことがない人には、まるで手品のように見える。

風呂敷を借りたお店に返却しにいってその場で鞄に作り直して渡した後、帰宅途中で気が変わって、いくつか言いふらしていたお店に立ち寄って実演するとかいうことをやってきたが、最初に立ち寄ったお店で見せたところ、店の人はたいそう面白がって、カウンターから出てきて横から作り方を見入っていたりしていたものである。

話を戻して、講習をしてみて思ったところは、発案者の女性スタッフに以前こちらが「そんなに時間もつかねぇ」と言ったら、「意外とすぐに覚えられないと思うから」とか「後は安生さんのトークが長すぎないようにしてくれたら」などと言っていたりしたが、トークはまあ、そんなに出来なかった。講習自体の終了後のランチタイムで飲みながらしゃべって、やろうと思ったネタを話す、などというのはやったが。
それはともかく。一時間半の講習の中で一番時間がかかったのは、結び方の反復練習だった。

同じ視点に立って実演しながら結び方を教えてみたところ、結び方自体は出来たが、何故かセットで見せた解き方を失敗したりだとか、後で戻ってきてやってもらったら、こんがらがって余計な結び方をして失敗したりだとかしているものであった。

もしこれが十人ほどの参加者だったら、一人ずつ実演しながら今のはこう、それは反対、という風にやるところだったので、人数としては丁度良かったと思われる。

十人いたら、結び方を覚えてもらうだけで終ったかもしれなかった。それはそれで、次回に持ち越し、というやり方もありではある。


とはいえ、一時間半の講習でも覚えているのかというと、ちょっと怪しい。

ランチ中に、こちら自前の手ぬぐいを使って抜き打ちでやってもらったところ、もう忘れてたり忘れかけていたりした。

数日前に呼びかけたら参加してくれた件の後輩が覚えているか賭けになったが(勝ったら参加費用減額)、あっさり失敗していた。

「十回連続でやりますから!」と豪語していたのだが、最初の一回で失敗して「これはウォーミングアップ」と負け惜しみを言って・・・という、よくある笑い話の流れになったものである。


今度、お店に自前の風呂敷でも置いてもらって、「和の結び方講習できます(その人がいたら)」みたいな感じで、ちまちまと教えまわるのもいいかもしれないが、そうなると頻繁に店にいなくてはならないので、飲みすぎで倒れかねない。鞄ををディスプレイとして置いて貰って、年中告知できる体勢にするぐらいがよかろうか。

とはいえ、もう既に述べたが、肝心なのは結び方である。別名看護師結びの真結びは、引っ張りに強く、物理的に限界な力がかからなければ、解け難くなる。

なのに、簡単な手順でスルっと解ける。秘密でも手品でもなんでもないので、興味がある方は、ネット上で検索してみるとよい。

とはいえ、一人で動画や写真を見てても中々理解しづらいという人もいる。また機会があれば、こちらも鞄以外の物を包むやり方だとかを勉強しておこうかと考えている。




さて、ここからはまた、いつもの変てこな話である。別に怖い話でもヒナンチューショーな話でもない。


以前から、人に見せるためではない小説のようなものを書いている、というのは忘れたころにここで記している。

それの登場キャラの容姿に纏わることで、あれやこれやと考えていたら、昔テレビで見た女性モデルのことを思い出した。

その女性が好みだとかなんだとかいうのではなく(ある程度綺麗だと思ったら誰でも好みである)、髪型が特徴的だったからである。

奇抜だから、ではなく、もう少し時代を遡った、ゲーム機がスーパーファミコン全盛だったころの話を思い起こす髪型だったからである。

現代で通じる(上の話もまだ現代だが)言葉だと、今調べたらウィキナンタラにも載っていた、「ぱっつん」という髪型である。

上でも触れかけたが、某高校を舞台にした恋愛シミュレーションゲームでそういう髪型の女性が出てくる。

のだが、ファ○通の当時の記事だとかで「ヘルメット」なんぞと言われていた印象が拭えず、普段はモデルの名前を覚えることがなかったのだが、覚えてしまったものである。

あのモデルさん、普段テレビ見ないのもあるが、元気かねぇ?などと思い、じゃあ、それで行こうと考えた次の日か数日後。


馴染みのバーに夕方立ち寄って、テレビを見ていた。何かないかねと、店の人にチャンネルをいじってもらっていたところ、懐かしい名前を見た。

NHKでやっていた、ノストラダムスについての特集番組の再放送があり、マスターも気になったのかそれにする。

番組が始まってすぐ、ナビゲーターが画面に現れ、内容を話すのだが、つい先日名前も顔も思い出した、その女性モデルが映っていた。

驚いたが、上の話をするわけにもいかないし、したくないので、黙って番組を見ていた。しかし、変わっていなかった。髪形が。

ちなみに、五年前の番組の再放送とのこと。

世の中、不思議で一杯である。



日常の些細でつまらない話ではある。

しかし、上記のように思えるかどうかで、日常は不思議なのだと思えるかどうかで、物事は一変してしまう。

風呂敷講習の話で例えるなら、向こうからのお誘いだったとはいえ、こちらが強情を張れば行われることもなかった。

が、こういうものでも習い事になるのだなぁと不思議に思って承諾し、開催する運びとなった。


ここからまた、特定であり不特定多数への批難染みた話になるので、お覚悟を。


かつて、サラリーマンをやっていたある男性は、世の中を牛耳っているという存在のことを知る。

後ついでに、家のこととか毎日の通勤電車とかで嫌になっていたのもあったろう。多分。

それで脱サラして何やらその手の本を翻訳したり、文明生活がいけないのだと農地を開いたりして、今は幸せだーとかやっている。

世の中を牛耳っている存在云々はなくても構わないが、見せ掛けの規模が違うだけで、同じ事を思っている。

「世の中は嫌な物でしかないし、自身の生活は嫌な物だ」と、何ごとにつけてもそう思っていたのである。


現在、彼とその伴侶の目的は、「世の中をマネーのいらない生活に導くこと」だとのこと。

実に不思議である。何が?その生活を見せびらかすのが楽しくて仕方ないらしいが、それはマネーがある故に成り立っているという点である。

いずれその目的が達成されるために現在はそうしているというのであろうが、そんなことはどうでもいい。

「世の中(今のその生活環境)は良い物でしかないし、自身の生活は良い物だ」と、現在は何事につけてもそう思っているだけなのだから。

何かが原因で自分はこうなったと決め付けているだけで、要するに、環境や対象に振り回されている点がまったく変わらないのである。

だから、何事かを槍玉に挙げて排撃対象となし、それが達成できれば幸せになれるとのたまう。


彼らは、そして我々も常々思い起こさないと忘れるし、また聞いただけでは実感しないのも常だが、考えてもらいたいものである。

朝起きたとき、まだ自分が生きているということは、実に不思議なことなのだと。

生きていることを不思議だと考えることに、マネーも文明生活も関係ない。だから、マネーのない生活に導かれれば幸せだとか曰まうというのは、世迷いごとである。

そんなことは人間をやっている時点で既に達成されていたのだから。

とはいえ、こういう言い草の方が世迷いごとにされるのが不思議な世の常だと、拙は不思議に思いながら、風呂敷を広げたり畳んだりするのである。



では、よき終末を。


仙人、空を扇ぐ

2018-06-30 | 雑記
ある日のことであった。

駅前の大通りから細い路地の方へ入り歩いていると、向こうから女性が歩いてくる。

お互い道の両脇を歩いていたので、ぶつかるというようなことはなく、ただすれ違うはずであった・・・。


などと言うと大仰に過ぎるのだが、ただすれ違ったことには変わりはない。ただ、ひどく注目せざるを得ない状況を目の当たりにしたのである。

十メートルほど先から女性が歩いてくるのを確認し、その女性もこちらが視界に入ったと思しき瞬間、女性は長い髪を何か必死に梳きはじめるのである。

その路地はビルに挟まれており、特にビル風もなかった。そう。向こうから歩いてくるのを見た時に風で髪がぐしゃぐしゃになったというのも見えはしなかった。

余りにも梳き続けるので、「それでは余計に髪が乱れるのでは?」と心配になるほどであった。


などという話は、度々していたものである。

自慢か?そりゃ勘違いだろう?と言われても仕方ない話ではある。

とはいえ、勘違いのつまらない話で終らせても、面白い話にはならないであろう。



とはいうものの、勘違いのつまならい話としか言えない続きをやっていくことにする。



「雲消し」というのをご存知だろうか。この話も以前やったものである。

大きすぎる雲では出来ないので、ある程度小さなちぎれ雲を対象にするとよいのだが、それをじっと見ながら、「雲は消えました」と念じていると、消えたり消えなかったりする。

コツは過去形にすることであり、雲は消える、ではならないそうな。

たまに思い出したときにやってみると、雲全体ではなく、見定めた端っこが千切れて消えていくというのがあったり、歩きながらしていると建物などで隠れたりするので、その後見ていたと思しき場所を確認すると、見ていたはずの雲が見当たらなくなったりする。

不思議だなぁと思うのと、やはり勘違いなのか?と両方思わなくもない。


それである日、応用してみた。

某駅前の喫煙所で一服していると、そこからはバスロータリーが見渡せ、視線の先には建物の間にそこそこ空が広がっている。

少々風のある日で、雲は向かって右から左に流れていく。

ぼんやりと眺めながら、ふとこう思った。「止まれ!」と。

そうすると、本当に止まっているのである。そして意識するのをやめると、思い出したように動いていく。

雲の形は変わらないので、建物による隠れ具合で移動は確認できている。本当に勘違いでないのならば。


また、これはもう少し前のこととなるが、夜勤明けで最寄り駅までまっすぐ帰り、よく立ち寄るネパール料理店で飲んで食べていた。

事前に天気の具合を見て、これは帰りに降られるかと思いつつも立ち寄ったのである。雨雲の動きが丁度な具合であった。

そして、店に入る前だったか出た後だったか。「雲消し」の要領でこうやった。

「雨は止みました」と。

その後、途中にあるケーキ屋で買い物しつつ、しばし雑談した後に帰途についたが、雨に降られることはなかった。

ついでにいうと、店の人が心配して傘を借してくれたのだが、結局、使う事はなかったのである。



上記までのと趣が違うが、これまた不思議なことがあった。


仕事場には、モーニングコールを受けた場合に使用するデジタル時計が何個か置いてある場所がある。

手前に三つ並んでいて、その後に一つ隠れているのがあった。

たまたまその一つが目に入った。尋常に動いているなら気にならなかったのだが、その時計は表示がおかしくなっていた。

電波時計という奴で、時折受信して調整する機能付きとはいえ、仕事場では実は機能していないし、仮にその機能が働いていたからとしても、特殊な表示がされるわけでもない。受信のアイコンが表示される程度である。

「ああ、壊れたのか」と右手を伸ばし、左手と共に支える形で眼前に持った瞬間、まともな表示をしていなかったその時計が、思い出したように動き始めたのである。

流石に、少し時間がずれていたが、時刻合わせしている間にまた壊れる、ということもなく、平然と時を刻み始めた。

元の場所に戻し、それから数日して出勤してから確認すると、その時は問題なく動いていた。今は判らない。これを書いたせいで元に戻ったりしているかもしれないが。



勘違い?たまたま?それも結構。


だが、本当に勘違いやたまたまで済ませられるほど、我々はこの世の仕組みを知らないのもまた、事実である。

そう思えば、世の中というのはひどく面白いものとなろう。



後輩がたまにこう聞いてくる。「何か面白いことはないのか」と。

拙はこう返すのである。「ないなら作ればいい」と。

物事を勘違いや偶然でだけで済ますのならば、面白いことなどどこにもないのである。


ないなら作る。それが出来るのは、人だけなのだから。



では、よき終末を。


仙人、他山の石を拾う

2018-06-27 | 雑記
いつも誰かの批評という名の悪口を書いてばかりいるが、今回はちょっと矛先を変えて、ラクダ達以外の話に行き当たったので、少し書いておこうと思う。

とはいえ、これ自体は特に話の中心ではないし、きっかけは例のラクダ達に関係があるといえばあるが。


以前、拙の弟の調子がよくなくなり、今年の頭に働き始めたが結局辞めてしまったと書いた、と思う。

自分のことは自分でどうにかしろ、というのが本音なのだが、どうにかするには本人に踏ん張るところ、いわば基礎体力のようなものがないとどうしようもない。

というわけで、然るHPに載っていた呼吸法を教えた。呼吸法を教えるのがメインのサイトではなく、いわば基礎体力アップのための方法だと思ってくれればいいが、一昔前かそれより前だと確実に眉唾だと無視されるであろうタイトルである。

記事の題に「オーラ視の獲得」とある。この呼吸法をしっかりやっていけば、オーラが見えるようになるかもしれないというのである。

とはいえ、それが目的ではなく、そういう呼吸法をやっていくと、底力が出てくる。

かくいう拙も、そのサイトで学んだわけではないが、古くは野口整体の背骨呼吸だとか、魔術だとか仙道の呼吸法を色々試してきた結果、ここ数年ほど、それまでならすぐ疲れるようなところが平気になったものである。おかげで財布がすぐばてる。

何やら靄のようなものがあらゆるところで見えるようになったのは、そのせいなのか元からなのかはよく判らないが、これは元々かもしれないと、知り合いとの雑談で思ったところである。

弟には、そのサイトで気になるところがあれば、よく読んでおけと伝えておいた。拙が自分なりにやってきて思い当たったことを、その人物は既に書いており、信頼できるだろうと踏んだからである。

とはいえ、それだけでは心もとないかもしれぬ、と思っていた矢先、件のサイトを見ていたら、とある石の話をしていた。巷でも当たり前になってきた、パワーストーンというものである。

その話については、以前読み漁っている時に見出したものだが、特に気にしていなかった。が、改めて注目してみようと思ったら、近い内容の別の記事で色々書いていた。

石の名は「アズライト」という。組成としては、酸化銅の一種といえる。酸化が進むと、マラカイトという緑の石に変貌する。

一口にパワーストーンといっても、その石が合うのか合わないのか、もっと遡れば、掘り出した場所や掘り出した人、また加工して販売する人が良いか悪いかというのが多大な影響を及ぼすという。

寧ろパワーストーンとかいう、いわば科学的に根拠がないといわれるようなものだからこそ、こういう話は気になるところである。とはいえ、普通はそこまで気にせず扱うのが大多数だろう。

さて、そのアズライトというものはというと、その人物が言うには、「誰が持っても、どこに置いていても大丈夫」と太鼓判を押している。

理屈はというと、ネガティブをポジティブに反転する構造なのだとか。そしてこれはアズライトの結晶構造由来なので、勝手になり続けるという。

アズライトの存在はそこで読み漁っていた時に知ってはいたし、そういう話を書いていたなとは覚えていたが、ついでに水晶もセットで完璧だというのは忘れていた。

しかし、お高いのでしょう?と思って忘れていたのである。が、まあ、見るだけ見てみようと検索してみたところ、東北の方の天然石販売店の通販で、安くて一個千円少しから買えるというのが判った。

然るパワーストーン辞典のサイトで効能を調べると、精神によい影響を与えるものだとか。花言葉ならぬ石言葉というものが書かれており、「瞑想力」とあった。

そのサイトで、病状ごとに向いている石から検索すると、「うつ(欝)」の項目にもアズライトの名があったので、実家に送りつけようと考え、帰宅後(帰宅したら夕方だったのは秘密)に直接実家に送り届けるよう手配した。

いきなり石ころ一個が家に届くと、不審なことこの上ないので、母親と弟にそれぞれ話をしておいた。「パワーストーンって知ってるか?」と母に聞くと「うちもしてる」といっていたが、何をつけているかは聞いていない。

後二つを自宅に向けて購入し、そのうち一つは仕事場のロッカーに入れておくことにした。

夜勤中に調べて、「うつで困っている弟にこういう石を送ってやろう」などと話していたら、上司が「こっちの方がストレスたまってウツになりそうだから、俺にくれ」などと言うので、やらぬ代わりに我がロッカーに放り込むことにしたのである。


この石は、古くは二十世紀の超能力者とか予言者とか言われている、「エドガー・ケイシー」という人も持っていたそうで、彼は「喋る石」と呼んでいたそうな。

また、こう述べていた。「人類にはまだ早い。だが、二十一世紀にはその助けが必要とされるだろう」という風に。この場合の人類は二十世紀の時点となる。

エドガー・ケイシーについては、昔、ある話を聞いたことがある。なんでも、「揚げ物料理は人間の食べ物ではない」のだとか。

二千年代になってからだが、アクリルアミドと呼ばれる化学物質が発見された。これは強烈な発がん性物質で、炭水化物に高熱を加えると発生する。炊き込みご飯のおこげだとかもそうなる。

その話が混同されて、焼き魚の焦げ目に発がん性が云々というのもついでに現れたが、本来はこちらである。

アクリルアミドの原因は、モンなんたらの農薬のせいじゃないか、という話もあったがともかく、科学者でもない人物が、かつてそういう指摘をしていたのである。


さて、買った日はよく判らなかったのだが、自宅で、また仕事の合間にロッカーで持ったとき、不思議な感覚があった。

以前から拙は、気がどうこうという話をしているが、つまるところ、気功のようなことが多少出来るようになっている。

何かで人を後から触れずに倒すとかいうのがあるが、申し訳ない。そこまでは出来ない。出来たとしても見世物のためにやってきたわけでもない。

それはともかく。物を持ったときに、ただの温度だけとは言い難いものを感知したり出来るといえる。

アズライトの話に戻すが、これを持って手のひらの乗せると、腕に熱が出る。別に石がお湯のように熱いというわけでもない。

腕に熱が伝わる感覚は、実は普段から出来るのだが、石を持っただけでこういう風に熱が出るという経験は初めてである。

右手は自分の意志で出来るが、左はあんまりである。気功の話を色々と聞くと、右は出す方で、左は吸い取る方というのがあるので、問題はないようではある。

それで、左手のひらに載せると、左腕が熱くなる。石ころ一個に驚かされるという目にあったものである。


アズライトのことを紹介していた人物も語っていた。「石を触っただけで、筋力が弱くなったり強くなったりする現実に衝撃を覚えてください」と。本当に衝撃だったナァというところである。


というわけで、知り合いに教えてみようと思い、アズライトって石がすごいぞと話をしたら、いきなりこう返答してきた。

「見たことないけど、なんだか青だと思った」と。青い石だという前にである。

長い前振りは終わり、これから本当の戦いが始まる・・・。

というのは嘘ではない。


ここでたまに存在を匂わす程度に紹介していた、とある魔術関係のことを書いているブログがある。


上記の知り合い(正確に言うと、元姉弟子)と、何ゆえかそのブログの話になった。


どうしてそうなったのかはあまり思い出せないのだが、実はそのブログの人は、昔はHPを運営していて、その記事の一つがかつてのヒトコブラクダのHPの記事ネタになっていたのである。

そういう話をすると、先方も承知していた。それだけならまだしも、なんと、その人とメールをやり取りしたことがあるとも語っていた。


そのブログは、以前はちょくちょく見に行っていたのだが、今は見る気が起きない。理由は簡単で、つまらないからである。

どうつまらないかというのを掻い摘んで書くと、元姉弟子の一言が判り易い。

「オタクなんですねぇ」と。

色々と解せぬのだが、『魔術入門』を所持し、アイクの著作を全部読破したというのに、どうしてこうも、俗世間の目から離れた視点を持とうとしないのか?というのがずっと引っ掛かっていた。

『魔術入門』で著者のバトラーは魔術の定義を、師匠の言を借りてこう述べている。「思うがままに意識に変革をもたらす技術」なのだと。

それでもって、アイクもいう。「全ては意識なのだ」と。

上記の元姉弟子にオタクと評されたブログの人物は、アイクを「魔術教団のバックアップを受けている」と指摘しているのだが、寧ろ魔術教団で薫陶を受けた人物だとするなら、どうして宇宙人のせいにするのか思い至らないのだろうか?という話を元姉弟子にしたというわけである。


それで、すこしピンと来たのである。

かつて、彼はヒトコブラクダの言動を詳しく知らぬからこそだろうが、かつてのHPで関わりを持てたことが嬉しかったのか、「大人の男」だとか言っていたものである。

そして、今も昔も、ラクダは俗世間の目、つまりは常識から一歩も外に出ない理屈で物を言っている。

ここでいう常識というのがちと範囲が広いかもしれないが、我々という存在は地上で確認されている物質のみで出来ているという視点である。

そして、舞台を森に移しただけである。地球云々は昔から言っているが、レベルは変わらない。

「似たもの同士だったんですねぇ」とはまた、元姉弟子の言である。

両者とも知識偏重な具合で、本質は何かを見ようとはしなかったというわけである。知識の「オタク」というわけで、上記の「オタクなんですねぇ」と相成る。

全ては意識なら、意識に変革をもたらすということは、全てを変えてしまえるということである。

そんな話を入門に書いてあるのに、すっかり忘れて、宇宙人がどうこうだとか、この世を牛耳っている奴らは魔術師だとか、漫画やアニメのシナリオの元ネタは魔術師達で共有しあっているネタ保管庫の如きものがあるだとか、どうでもいい話ばかりだと思ったので、読む気がなくなった。

またもや元姉弟子の言になるが、引用しているのは同感だからである。

「で、それで?っていう内容ばかり」と。

真を見抜くのに方法なんぞいらぬ。ただ、集中するのみ。

『魔術入門』で書いてある修練をしっかりやっていったほうが、成功できるやもしれぬなぁと、お節介なことを考えるのであった。


ああいう色々と目新しいネタを掘り起こしているだけのつもりなぐらいなら、森で生活している方がなんぼかマシである。

そういう意味では、ヒトコブラクダは「大人の男」かもしれないが、あれもまた、前例踏襲主義というか懐古趣味というべきかの古来の宗教復活を願っている点では、知識偏重である。

宗教とは生活パターンである、とは以前に書いたと思う。例えば、ニューエイジも古きよき生活を営むことで安心感を共有しあっているわけで、間違うかたなき宗教というわけである。

現代文明とのハイブリッドを志そうが関係ないのである。宗教は宗教なのだから。



さて、こういう話をしたかったわけでもない。したくもあったが、本題でもない。



キネシオロジーテストというものがある、と何度か書いたものである。筋反射テストだとか訳されるもので、簡単に言えば、良いものには力が入り、悪いものは力が抜ける。

それの考案者が色々テストして、数値化したものがどうこうとある。それを現地で習ってきて、日本で流布している人もいる。

考案者のホーキンズ博士がいうには、誰がやっても同じ結果が出るので、科学的だという。でも、同じようにやっても同じようにならなかったりする、という話もあって、疑似科学だと批難もされている。

キネシオロジーテストの批判をやろうというわけではない。ただ、例えを思いついただけである。

その前に。このキネシオロジーテストというのを実行する際には、ステイトメントをはっきりさせる必要がある、と聞いた。曖昧な質問ではだめで、例えば、コーラは200を越えるのかどうか?と言った具合にやるべし、なのだとか。

それでいて、ホーキンズ博士と同じような計測結果が出ない場合は、やはりその人のレベルの問題なのだろう。そういう話も書いてあった気がする。ある程度のレベルの人が揃わないと、まともな測定は出来ないらしい。

つまり、殺人鬼の二人組みで釈迦を計っても意味がないというわけである。これは極端な例とはいえるが。


思いついた例えの話にする。


フェルマーの最終定理というものをご存知だろうか。大昔のフランスの数学者のフェルマーが、自分の日記だかに一言、この定理を解いたと書いてあったのだが、近年まで誰もそれを解くことが出来なかったという代物である。
余りにも解けないので、嘘じゃないのかと言われ続けた。

イギリスの数学者がこれを解き明かし、話題になったものである。とはいえ、数論という、数学の上に位置する学問は、はっきり言って素人には理解できない。

素人どころか、数論を研究している学者が全員理解出来るのかというと、そういうものですらなかったりするほどのものだとか。

では、何ゆえ認められたのかというと、数論の権威がそれを確かめて、間違い無しとしたからである。

その確認の具合すら、一般には理解できないレベルの話ではある。


キネシオロジーテストというのも、そういう具合のものがあるのかもしれないと、拙は考える。

というより、あるとしかいえない。

キネシオロジーテストは理解できないが、数論は理解できるとでも?数学者でもないのに?ご冗談を。

とはいえ、あなたの心身が健全ならば、体が勝手に反応するものである。ホーキンズ博士と同じ数値になるかどうかなどとは考えなくてもよい。

そのためには、身体全体を通して集中力を養う必要がある。先ほど書いた、両方の意味での頭でっかちではなしえない。

そうなれば、「他山の石」は真価を発揮するといえよう。

なんやかんやと書いたが、ともかく。文字通りの他山の石としても、そういうつもりでなくても、アズライトは勧められる、とだけ申し添えておく。


では、よき終末を。


風呂敷的なお報せ

2018-06-15 | 雑記
前回の記事の最後の方に書くとかいう、見せる気がないだろうとしかないようなお報せをしておいたが、改めてお報せしようかと思う。

来る七月一日、午前十時からお昼過ぎまで、風呂敷で作る鞄の講習会が開催される。ランチもあるので、午後二時くらいまではかかる予定。

場所は西八王子駅すぐ近くの「サクンタラ」というネパール料理屋で、参加ご希望の方はお店のフェイスブックからどうぞ。もしくはお店の人へご連絡を。

参加費用は2,500円。ランチも込である。後は風呂敷持参で。なければ何枚か用意はあるし、知り合いが家から探してくれるとはいえ、自分の鞄として作るつもりの方は、どこかで購入するなりしてご用意の程を。

しかし、この鞄はそんなに難しいものではないので、講習会の時間が一時間半ほどあっても、それを全部使い切れるかはちと不安である。

そんなことをいうと、企画者のネパール料理屋の日本人スタッフの方は、「寧ろ話ばかりしすぎて進まないほうが心配だ」と別の心配をしていた。


当日その話をするかは判らないし、いきなり言われてもお客さんは当惑するだろうから、参加を迷っている方がおられるなら一つ助言でも。

魔法使いというのは、自分の道具は自分で作るという。鞄が魔法使いの道具かはさておき、そのモットーに倣ってみるのもよいかと思われる。

というわけで、自分で使うものを何かで作ってみるというのは何かの機縁になるやもしれぬので、一つお試しいただきたい。


風呂敷といえど、別に和装と合わさなくてはならない道理はなく、こちらは洋装で使っているが、不審がられるどころか、見知らぬ人から「おしゃれな鞄だ」などと言われて、たまに困っているぐらいである。

着物ですら、実はそこまで和洋にこだわる必要がなかったりする。漫画『サザエさん』の磯野波平の着物姿で、下に着ている服は和装用のものではないし、明治大正あたりでは、スタンドカラーシャツを襦袢の代わりに着ていたり、それだけ着て袴を組み合わせるというのがあるが、特に違和感はなかろうと思う。
大学生の女性の卒業式でも、袴姿にブーツを履くというのがあろうが、ブーツが定着する前の時代は、雪駄とか下駄だったわけで、前後するが、襦袢自体が外来語であり、定着するまでは着ていなかったことになる。

フランシス・ベーコンだかの肖像やら、あの時代の西洋人の服装に、首の回りに花が咲いたかのような襟をした服装があるのをご存知だろう。

江戸の少し前ぐらいに、ああいう南蛮の襟付きのを着るというのが流行ったことがあると、何かで読んだものである。ああいうものを指しているのかはよく判らないが、ともかく、突き出した襟の襦袢を着たりする、なんていうことをやっていたりしたのだとか。

これも昔に書いたかもしれないが、和装和装とよく言われるが、和装と言ったらこうだといわれている着物というのは、そもそも呉服という。

三国志の南の方の国で、魏と蜀との三つ巴で覇権を争っていたあの呉から来ているので、だから呉服。

日本日本という割には、どこにも日本などないのである。余り気にしてはいけない。

と、別に説教をしたいわけではないので、簡単に言うと、別に怖がるようなものはないので、気楽にご参加いただければと思う。

Facebookはこちら

サクンタラのHPはこちら

HPの方のEVENTの項目に、でかでかと紹介されている。後、微妙に誤字脱字が目立つので、後日突っ込もうかと考えている。

応募要項はHPのEVENTの項目にもある。Facebookの方と内容は同じになっている。


では、よき終末を。



仙人、風呂敷を広ぐ

2018-06-11 | 雑記
いつも何のことだが、人が判りかねるような内容を書いてばかりでは、こちらが人間であることを疑われかねないなと。

疑うのは勝手だが、それで悪魔だとか何かの手先だとかと、石持て追われるのは本意ではない。

拙はただ、人間の限界を知り、超えたいだけなのである・・・。


というのは措くとして、日常的な話を書く。



先日、近所、といっても歩いて二十分ほど行った所に、カフェがある。

当初は欧風カレーとネルドリップのコーヒーを出していたが、カレーは仕込みに手間がかかるので、カレー以外にも色々出すお店になっている。

色々拘った素材を使っていたりするのだが、別に高級店ではない。同じ内容で都心で食べたら少ない量で倍する、というような具合にはなるだろうが。

そのお店は、然る舞台演出家とその奥方のお二人が切り盛りしているお店で、開店当初からちょくちょく出向いている。

飯を食ってコーヒーを飲んでしばし雑談していると、その舞台演出家のご主人がこういう。

「君はカリスマとまではいかないが、何か人をひきつける魅力があるようだ」と。

奥方は「カリスマじゃないのか」と笑われておった。


そこで昔や、最近でも言われた事などを思い出す。


かつて、某ハンティングアクションゲームをプレイしていたときのことだが、何かで仲良くなって一緒に行動していた人が、ログインしてきたある日のこと。

しばし雑談していると、眠くなってきたのでログアウトすると言い出した。ついさっき来たばかりだが、深夜ぐらいの時間だし、仕事で疲れていたりだとかもあるのだろうと。

そう思ったら、こう言った。「あなたと話していると、落ち着いてしまって、眠くなっちゃった」と。

別に催眠術なんぞかけた覚えはないのだが、そういって寝てしまわれた。


今度は最近の方だが、よく雑談して、たまには買い物もしている、蛙の雑貨店がある。

この話は先日も書いたが、そこのお店の店員のお姉さん(年齢的に)は、本人は気功を習ったりしているわけではないが、血筋の影響やらで、ご子息が気を練っては肩に乗せてもらって癒してもらうだとかしてもらっていたという。
何かの切っ掛けでその話になったので、お互いの手をかざしてみると、お姉さんはびっくりして「息子の時と同じ具合だ」と言っておられたものである。

その人はこう言っていた。「いつも楽しそうに来るので、お店の雰囲気も明るくなる」という風に。

話が前後するが、こういわれたというのを、上記のカフェの奥方としゃべっていたら、奥方も同意し、ご主人の方があのように言われた、こういう流れだったと思う。


やはり、カリスマというほどではないのなら、拙は参謀のような立ち位置で振舞うのが最良なのだろうなぁと思うのだが・・・。

誕生日とか、選択肢を選んでいって調べるオーラの色診断、なんていうものがあるが、その結果も、似たようなことを言われた覚えがあった。

ある意味望み通りとは言えるが、人生は上手く行かないように上手く出来ていると思うような出来事が起こっている。

そのことは後述する。


先日から話題になっている、子供虐待死のニュースがある。内容はここで改めて書くまでもない。

そういったニュースは、非情に聞こえるのは承知で言うが、ありふれている。痛ましいと思わない、という意味ではない。

アリス・ミラーを紐解くまでも無く、子供に躾とは名ばかりの虐待をするというのは、機械的に行動する個人の力だけでは如何ともしがたいものであろう。本人は当然と思っているのだから。

行政の怠慢がどうこうというのもあるだろうが、怠慢があるとして、それがどうして引き起こされたのかを、ただの人間に本当に理解し、解明できるのだろうかと思う。


というわけで、その事件のニュースを見聞きして思い出した、奇妙な話を綴ることにする。


内容はというと、とあるゲームのシナリオなのだが、感慨深いものがある。


『真・女神転生Ⅲノクターン(ノクターンまでがタイトル)』というのがある(以下ノクターン)。これの追加シナリオ版で、さらに『マニアクス』(以下マニアクス)というのもあって、ノクターンで語られなかった部分や、追加のダンジョンやボスや調整を施した限定版である。

上の話に繋がる部分を説明するためには、冒頭のシナリオから書かなくてはならなくなってきたので、もうしばらく我慢いただきたい。


主人公が、病気で入院している先生の見舞いに行くと、変な男に会って、その男は主人公の先生は別に病気ではなく、一仕事してもらうからここにいる、ということを言われる。

ゲーム内の言葉で、「東京受胎」という次元が捻じ曲がるようなことが起こり、その病院にいた人以外は皆、様々に変貌してしまう。

東京を舞台にしているのだが、地面を内側に曲げた球形の状態になっており、その球体の真ん中には太陽ではないが、太陽のように光り輝く物体が浮かぶ。

周りは異形の存在だらけになり、主人公も死にかけるのだが、異形の力を授かり、一命を取り留める。己もまた異形の一つと成り果てて。


と、こういう始まりである。病院にいなかった人々は、大体は想念体という形で、幽霊みたいになって道端に浮かんでいたりする。


シナリオの途中で、「マネカタ」という、人の形はしているが、色々とぎこちない言動をする人々?が登場する。

「マネカタ」は琉球の伝承だとかに存在する言葉から来ていると思われる。

その「マネカタ」のリーダーは、顔も凛々しく、普通の人と変わらない言動で、他の「マネカタ」たちを率いて町を作ったりする。名前は忘れた。

そして、「マネカタ」を虐殺してその顔の皮を剥ぎ取る「マネカタ」がいる。こっちも名前を忘れた。


シナリオ終盤で、両者ともご退場したと思うが、マニアクスの追加ダンジョンで、この二人の関係がほのめかされていた。


「東京受胎」で、病院にいなかった人は姿を変えたといったが、追加ダンジョンに現れる想念体がそれぞれ上記の固有名のある「マネカタ」と思しきことを語っている。

片方は若い殺人鬼。得々とかつての殺しの話をする。しかし、「生まれ変わるなら、人と触れ合ってよく生きたいな」という風なことを最後には語る。

その想念体の形は、「マネカタ」のリーダーを彷彿とさせる形だった。

もう一つは、その殺人鬼に肉親を殺害された男性で、普通の人だったのだが、「あいつを殺してやりたい」という風なことを語っていた。

その形は、「マネカタ」の顔の皮を剥ぎ取る「マネカタ」を思い起こさせる形をしていた。


さて、例の事件の話に戻る。

アリス・ミラーの論から語るなら、例の親は、その親かそれに当たる存在に同じ目にあわされていたとなるだろう。

そして、子供には自身の子供時代の姿を投影して、という流れである。これはまだ目に見える形だから、理解できるかと思われる。

だが、本当はもっと込み入った因縁が、例の事件だけではないが、そういうことを引き起こしているのではなかろうかと。


おかしなことは毎日起きている。「マネカタ」が「マネカタ」の顔を剥ぐ、というのはおかしな話であろう。

しかし、それは故あってのことだったと書いた。


実生活とやらからすれば、虐待死させたのは覆しようもない事実である。

法律で裁くことは当然だが、しかし、人が人を本当に裁けるものなのだろうか、と思わざるを得ないのである。


山田さんという人がいるとしよう。本当にその人は山田さんとして生きて死んだ、と言い切れるのだろうか?

あなたは?わたしは?本当にそうなのだろうか?目に見える形からだけでは決して言い切れないものなのだが、目に見えるものが答えだとする世の中では、キチガイの戯言になる。


然るオカルトレベルの説だが、人類は地球のために存在する状態がずっと続いていて、それ故に、人類は人類としての進化は阻害されているという。

その状態を抜けようとすると、地球のための歯車であることへ引き戻される。目立つ人がいると足を引っ張るかのようであるが、これが人類の状態なのだという。

上記と直接関係ない部分だが、そこでも釈迦と同じ事をいっている。釈迦の言はこうであった。

「己の見解を真理と見なしている」から、お互いの論を攻撃しあっているのだと。


また、別のところからの話だが、人類の最大公約数は宗教になるという。そして宗教というのは、生活パターンであるという。

民族が違っても、お互い共通して保持できる約束事があるという安心感を持たせるためのシステムが宗教なのだとか。

だから、宗教が民族をまたがって大きく存在しているのである。それを働かせるための権威として、神が既定されている。

宗教を超えたことを言い出すと、深く考えない人々ほどひどく叩き始めるのは、その約束事に機械的に安住しているが故であろう。

上記のオカルトレベルの説と書いたところと同じようである。

思うに、現代の宗教が地球だと以前書いたことは間違いではなかったようだ。

世界統一の宗教を、こちらから言えばかつての宗教を復活させたがるのは、別にどこかの誰かの陰謀ではなく、我々が機械的に生きているが故の帰結だったのである。


さて、宗教は生活パターンのことだと述べた方が言っている。

我々は宗教を超える始まりなのだ、と。

同じ生活をしていても、抜け出でる存在は現れるものである。

生活パターンを投げ捨てろとは言わないが、だからといって、生活パターンに則れば判る物でもないのである。

「法によらなくても悟れるとは言わないが、だからといって、法によれば悟れるというものでもない」という風に、釈迦も言われていた。


今ある人の世、人の姿というのはある意味自然の流れであり、奇跡ともいえる。

しかし、「奇跡とは自然に反することではなく、我々が自然だと思っていることに反しているに過ぎない」のである。


奇跡だとか自然だとか、そういうものすら乗り越えるのが、人間としての本当の進化なのかもしれない。


では、まだ終らない。







ここから冒頭通り、日常的なお知らせである。後述する、で区切った続きである。


来る七月一日都内某所にて、風呂敷だけで作る鞄の講習会が開催される予定である。

その孔子、じゃなくて講師はなんと、拙である。

色々と風呂敷を広げて来たものだが、今度は畳み方を教える羽目になるとは、因果なものである。

拙は参謀であってリーダーではないのである・・・。

ここであまり詳しく語りたくはないので(身バレというのを恐れてみる)、「西八王子 ネパール料理屋」で検索したら出るお店のホームページやらフェイスブックでお知らせがされていると思われる。

近くに住んでいて、やってみたいという方は、お店のほうにお申し込みの程を。


では、よき終末を。


孤独のゲーム

2018-06-04 | 雑記
近頃、ちょくちょく何やら食べすぎたのか、暫く前は腕の関節が、そして最近は脚の関節とそれより下の部分が痒くなって、書き、ではなくかきすぎて血が出たりしたものであった。

原因は・・・と思ったら既に書いていた。別に空腹が激しくて倒れそうとかいうわけでもないのに、少々食べ過ぎていたようである。

で、さきほど夜勤明けで帰ってきて夕方から数時間寝て、晩飯は食べずにいるのだが、痒い感じはない。予想通りだったといえる。

ここのところ、さらに空腹感とそれに起因していると思しき疲労の具合が遠のいている。とはいえ、腹が鳴って、何か食おうと思えば天丼の大盛りを平然と食べていたりもするので、別に消化器官に不具合があるわけでもない。おやつやらで多少胃に物が入った上で食べると、少し眠くなったりするが、眠くてかなわない、という具合も大昔と比べれば少ない。無理して眠気をどうにかしようというつもりもなく。

こういう話は去年の今頃も書いていたものである。つまりは、相変わらずといえよう。


さて、仕事場で食事の時間になると、ある人が決まってからかってくる。

「君は空気からエネルギー取れるから、食べなくても平気だよね?」などと。

拙は当初、「そんなわけないでしょう」と普通の返しをしていたのだが、面倒になってきたので、「まだそこまで到ってません」と答えることにしている。

そうするとさらに「片岡鶴太郎みたいに、呼吸だけで大丈夫なんでしょう?」などと追撃してくる。

寡聞にして知らなかったのだが、タレントの片岡鶴太郎はそういう具合になっているらしい。

しかし、その御仁には直接、拙が妙なことになっている話をした覚えはないので、誰からか聞いたのだろうが、どう伝わったのかは謎であった。


健康だとか不食にまつわるサイトを以前見つけたのだが、明治だか大正あたりの日本で、二十歳あたりから何も食べないで過ごすようになった女性の話を書いていた。

それから二十年ほど生きてから亡くなったそうだが、その死んだ時の姿はまるで少女のようだったとある。

やはり不食では長生きできまい!と言い立てる人も出てこようが、知ったことではない。

動物のナマケモノは、飯を食っていても餓死することがあるほどの極まったナマケモノである。

食おうが食うまいが、今ある姿を辞める約束なのが生き物の常である。生きているつもりで死人の想念に突き動かされ続けているよりは、己の天寿を全うする方がよい。

如何なるものを食べて暮らすべきか、が現代日本の昇天、ではなく焦点であることは論を俟たないが、それが進むとナマケモノと変わらないことになるやもしれぬとだけ、一言申し添えておく。


死人の想念、などとおどろおどろしい文言を用いたが、故がないわけではない。

というわけで、驚くほどの話でもないつまらないニュースをお伝えしようと思う。


過日、「ラクダ達のHPが消滅した」とお知らせしたものである。

ラクダ?砂漠の足に使われている?そっちではなく、比喩のからかいである。

まるで教条的キリスト教徒みたいな物言いをするので、「富める者が天国にいくのは、ラクダが針の穴を通るより難しい」という聖書の言葉から、ヒトコブラクダとフタコブラクダと渾名をつけた、とある人物達のことである。

持って回った言い方は詰まらないので、率直に言うと、別に彼らは今まで通り生きていたというだけの話である。

ただし、まったく別のドメインのHPを開設して、表に立っているのはフタコブラクダのほうだったという流れだったが。


何にせよ、かつて関係のあった人物が共食いでもしたとかいう陰惨な結末を迎える(元姉弟子とそんな冗談を言い合っていた)、とかいうこともなく、安心したというか、「幸せそうで何よりだナァ」と思ったものである。

理由は簡単である。陰惨な結末を迎えていたというなら、それはかつて関係があった拙の影響-他人に「これが証拠です」と見せられるものではないが-もあることになり、そうなったら拙もそういう陰惨なものを引き寄せる存在になってしまっているわけで、よろしくはないなと、そう考えたからである。

それなら、拙もそのなんとかダイエット教徒にでもなろうかと、そういう話には無論、ならない。


結論から言うと、人と地上の環境を整えるということには異論はない。ただし、彼らの方法が唯一無二だとは思わない。

だから、従う意味などない。とはいえ、日常の文明生活で苦しんでいるだけの状態をどうにも出来ないだとか、その状況を覆す方法が見当たらないというのなら、ああいう方法はまったくもって悪手ではないといえる。
自然環境と呼ばれるものは、人を助けるのに大いに役立つ。とはいえ、それが答えではない。

何度もこの手の話をする度に書いては誰も突っ込んでこないのでこの断りを記すのを辞めようかとも考えているが、地上の所謂自然だとかを破壊すべし!という理屈で物を言っているわけではないことをお断りしておく。


さて、ここからは人によっては特殊な話になりうるので、理解されにくいかもしれないのだが、彼らの方法が唯一無二ではない理由を述べることにする。

ラクダ達のかつてのHPはデータを消去されており、以前のドメインだけがただよっていて、そのドメインの検索によって、かつての記事が散見される状況である。

その中で見受けられた話で、もしかしたら、以前に直に読んだのかもしれないのだが、こうある。

「ローヴィーガンをやっていてよかった。手足が勝手に温まってくる」と。


さて。野口整体のある道場のHPで読んだのだが、そこの師範が生徒さんにこう聞いたそうだ。

「頭寒足熱というのは足を温めて頭を冷やしておくという意味だと思っているか?」と。

生徒さんは「当初はなんとなくそう思ってました」というわけで、この「頭寒足熱」なる状況はちゃんと理解されていなかったのだなぁと書いていたものである。

心身の状態を整えると、野口整体流に言えば、身体が整っていれば、勝手にそうなるのであって、布団やら湿布を貼って養生する話ではないのである。

ということは・・・野口整体はローヴィーガンか!?というと、そんなことはしない。何かを使って養生する話ではないのである。

活元運動という、一種の瞑想法が野口整体には当初から伝えられているのだが、創始者の野口晴哉も「人の本来の体力が発揮されれば、健康になって、さして食わずとも、余分に休まなくてもよくなり、お互いに活元運動をやって(発動している人が他の人に伝え、音叉の如く相手も発動していく方法だから)健康になっていけば、お互いを疑い合うようなこともなくなり、悪いこともさしてしなくてよくなるような世の中になっていく」という具合に『整体入門』で述べていた。


翻って、拙の話をする。去年も書いたし、この間の冬はかなり寒く、それゆえにさらに実感できたので、改めて述べる。

寒い中、コートの前を開けて歩いていると、吹き込んできた風が胴を冷やし、「寒いのだなぁ」などと暢気に思いながらそのまま歩いていると、今度は手足が何やら暖かくなっていく。

手には手袋はなく、ポケットに手を突っ込んでいたりするのだが、突っ込んでいる手が汗をかかんばかりに、熱くなった。

足も足で、カイロなんぞいれてもないし、よくある保温性の高い新素材で出来た衣類を着用しているわけでもない。

ちなみにコートはダウンどころか、ワタもあまり入っていないようなウールのコートである。

コートの下はドレスシャツとジャケット。シャツの下は下着用の薄いTシャツだけである。そんな服装で、大雪の中を歩いて帰ったりしていたのである。
流石にその時は、ジャケットが濡れるのでコートの前は閉じた。

勢い余って、ケーキを買いに駅まで戻ろうかと考えたが、寒いからではなく、岐路の橋で滑りそうになったから辞めたとかいう、妙な具合であった。

まさか・・・ローヴィーガン!?無論、そんなことはしていない。


これというのも、そこまで熱心にやった覚えは余りないが、人に備わる本来の体力を発揮させるということをやってきただけのことである。

上記の如く、頭寒足熱にするではなく、頭寒足熱になる、という自然の状態を引き出したといえる。

何か食べていないと、こういうところで暮らしていないと、というのは、文言を変えてみれば、なんという事はない。

現代人は現代文明が無ければ、等と言うし、よく聞いてきたものであるが、ここで、先ほどの片方のラクダの鳴き声を思い出してもらおう。

「ローヴィーガンやってよかった云々」というのを。

己自身ではない何かを頼みにして物を言っているだけなのを、どうして理解しないのか。このような足萎えが言うのである。

地球を綺麗になどと。おためごかしはやめるべきである。
それは、かつては文明にどうにかしてもらっていたのを、地球などと言い換えたに過ぎぬ、堕落した文明人の堕落した言葉と何一つ変わらないのである。
地球だったらいくらでも頼って寄生しても構わない。そう言っているのである。これで綺麗になるわけがない。


拙の話からだけでは不十分なので、先日、改めて内容を知って驚いた、ヴィクトル・フランクルの話をする。


昔読んだはずなのに、ちっとも覚えていないという情けなさなのだが、それゆえに、改めて驚いたわけである。

前置きはやめて、そのフランクルだが、かつて、ユダヤ人収容所に放り込まれ、そして一人生還するという経験をした。

そのことを綴ったものが『夜と霧』というタイトルで出版されている。この辺りはご存知の方も多かろう。

屈強な囚人たちは次々と餓死していき、元気に振舞って周りを励ましていた人達もダメになっていく。

食事も、ほとんど具のないスープが出てくる。これでは数ヶ月も持つまいと、心理学者であるフランクルは思う。

そんな中、ある切っ掛けで、彼はこう考えたそうだ。

「人は孤独であり、それゆえにどうしようもなく自由なのだ」と。

劣悪な牢獄で彼はどのようなことを見出したのか。大まかに二つ書かれていたのを、また例の如くうろ覚えで記す。


まず、どんな状況でも、この世には美しいものがあることを見出す。

牢屋に差し込む朝日や夕日を美しいと感じる、ということをしていたそうだ。

もう一つは、こういうことをやろうと決めて取り組む。

フランクルは、収容所から連れ出されて作業所だかに行くときには、必ず右足から出ると決めてやっていた。

ベッドで横になればその木目を数える、という風に、看守にも見破られない独自のゲームを繰り広げていたのである。

そしてどうなったか。

周りは全員死に絶えたが、彼は生き残り、そして新鮮な果物なんぞないのに、歯槽膿漏は治ってしまったのである。


拙も人のことは言えないのだが、麗しい森があるからとか、現代文明があるからとか、それは己自身でない物に頼りきりというより、惑わされているだけではないのかと。


森も街も、天災でもあれば、瞬く間に灰塵に帰すものである。

そうなった時、人は生きられない、と、我々はそう教え込まれ、すぐさまそう考えるようにしてきた。

だが、我々は本質的には自由なのである。森にいようが街中にいようが、その両方でもないところでも関係なくである。

そう考えられないのは、振っておいて忘れていたのを見直して思い出した、「死人の想念」であろう。蛇足的だが、お一つどうぞ。


森でのみ自由があると述べる彼らは、どうしようもない。敢えて言わない他方も含めてではある。

人のことをいちいち非難するのもバカバカしいのだが、彼らの生存を確認して感じたことは、上記の如しである。


それからここは冗談めかして付け加えておく。

ダイエットして健康になるのが目的だったはずだろうが、昔からわざと太ってまた痩せてというのを繰り返してはHPに上げている。

痩せて太れる体は実に健康であろう。


人はどうしようもないほど自由だが、孤独を知らぬ自由はどうしようもなく不自由なのである。


では、よき終末を。


龍可愛がり

2018-05-25 | 雑記
「皆さん、龍を見たことがありますか?わたしはあります」と、ブータン国王が来日の折、福島の被災者の子供達の前で述べたそうな。

YouTubeにその映像があるそうな。そして、続きはというと、「全ての人の心には龍が宿っています。龍は経験を食べて大きくなります。震災の経験で大きく成長していますよ。日本の皆さんが大きく成長されることを、外国の私たちは信頼し、信用しています」とのことだそうな。

ブータン国王恐るべし。いや、怖いわけではないが。

龍がどうたらこうたら、というとある方面が色めきだつ。かつての拙もどっこいどっこいではあるが。

レプティリアンがどうこうという、あれである。


話は代わるが、前回の話は「地球が神様」と主張してやまない人々にだけ向けていると思われそうだが、そういうものでもない。

ことあるごとに「地球ガー」とやかましいのが現代社会である。二酸化炭素で温暖カー!と、何やら気合い込めて騒いでいるのが昨今である。

アイクが著作で述べていたが、若いころに「あと四十年で石油は枯渇する」と聞いたそうだが、現代になっても「あと四十年で枯渇」とやっている。

そして、オバマが大統領をやっていた時に、シェールガスとかいう、従来の石油の掘削法ではないもので取り出した石油が出てきて、結局まだ大丈夫とやっている。

温暖化が本当にどうしようもないところにあるというのなら、色々あるがとりあえず、移動は歩けるところか公共の交通機関に強制するぐらいにしていくぐらいにしたら?といいたくもなる。排出権取引なんぞやっているのは周知のところであろう。

何が言いたいのかというと、そういう目くらまし染みた話にすぐ乗っかるように我々は教育されているので、重々気をつけましょうというだけのことである。

どこ向いても「地球ガー」と言っているから、拙は「ガイア教」なんぞと名付けた。
そして、「子供も大人もお姉さんも」という昔あったキャッチコピーのようになっているので、アイクの主張のイルミナティがネットワークであるという説に準えて「暁の」とかっこよくというか中二病なんぞと言われそうな具合の名前にしたというわけである。それは読んだらその通りに書いているわけだが、復習である。

と書けば、「お前は地球さんが大事じゃ(怖く)ないのか?」という言説が湧き出す。上の主張だけでどうして「地球を破壊せよ」と言っていることになるのかは判らないが、そういう可能性は大であるので、「そんなことはいっとらん」とも書いてはある。

断りを入れようが入れまいが、何も突込みがないので、毎度毎度、自分で突込みをせざるを得ない。

話を戻す。


冒頭のブータン国王のスピーチを紹介していた人が、龍にまつわる話をしている。

さて、またまじないというかオカルトというか、そういう具合の話になるのだが、龍を呼び出して自身に一時的に宿す、というのがある。

宿してどうするのかというと、自身のネガティブな感情やらエネルギーやら、どっちも同じといえるが、それを食べてもらって、それから送り返すという。

食べて元気になった龍に何やら一仕事してもらう、というのも書いてあった気がするが、そこは詳しくは忘れた。

教えた人に「会社みたいな複合体的なものには効き辛い」と注意してあったにも関わらず、その聞いた人は親の会社に試したら、なんと翌日に倒産してしまったのだとか。

良くしようと試したら、あっさり倒産するとかいう(予兆もないのに)ぐらい、何にせよ効き目があるとのことである。

龍さんはちゃんと制御してしかるべきところで使わないと、やりすぎるとのことだそうな。


それはともかく、その話でもあったが、龍は人のネガティブな物が好きらしい。それを好んで食べてくれるという。

そうすることで、上記のように一時的に宿して足枷になっているネガティブを消して、本来の活力を取り戻すとでもいうか、そういうことをする。

古代の、文明も何もなかった時に人類が見出した秘儀なのだと、その人は言っていた。


さて、レプティリアンとか呼ばれている、トカゲの仲間の話はというと、アイクの話が広まっているのでご存知の方も多かろう。

彼らも人間の負の感情が好物なのだと。それで、地球を養豚場の如きにしている!というのがアイクの主張である。


大昔は人類の数が少なかった。そして年々増えて、七十億を超えたとかなんとか。

飼育されている牛や豚や鶏の数も凄まじい。が、食べるので増えすぎて家の中にまで侵入された、という話は聞かない。熊に侵入された、ならあるが。


これはアイクとは正反対の話になるので、そういうことを期待された方には申し訳ないとは思わないが続ける。


人間のネガティブ大好きドラゴンさんが地球にやってきて、ネガティブをパクパク食べてくれていたと。

それでもって古代の人類は色々頑張ってこれて、現代に繋がった。

とはいえ、ネガティブを知らず知らずに食べてくれてただけで、大抵の人間は自身がネガティブを出し続けていることを理解しない。

ネガティブが出てくるから食べてるドラゴンさんに、「お前がいるからネガティブが出てくるのだ!」と逆切れの如き主張をしているのが現代ではなかろうかと、拙はふと思った。


何ゆえそう思ったのかというと、実に単純である。


地球が人類の放つネガティブなもので埋め尽くされ、それが消えることなく増え続けるのなら、とっくの昔に地球から人類は、もしくは地球自体が滅んでいたのではなかろうかと。



ついでに、別の流れから考えたもう一つの理由が、拙の弟のことである。


何やら仕事をサボり始めたそうだ。鬱病がどうこうとは以前も書いたが、それで辛くなって休んでいるという具合らしい。


鬱病だけではない。弟は昔から何やらあるとすぐ病む。


弟は小学生のころ、野球をやっていたのだが、何やらしんどいと言い出した。それで病院に連れて行ってもらって検査すると、尿に何やら出たとかで、結局辞めた。

拙が同級生のファミコンを持っている家の友人の家に遊びに行くとき、「お前も行くか?」と言った後「でもダメだ」なんぞとからかったら、後で家に乗り込んできて、帽子で拙の頭を何度も殴って、それから帰っていくという奇行の如きをしてきたものである。

とあるゲームソフトを、弟の誕生日の時に購入したのだが、元々納得していなかったのか、別の理由をこじつけたのかは判らんが、一通りやった後、「そんな話は知らん!」と売り飛ばしてしまった。

というのも、子供のころ、拙の家は貧乏で、ゲームソフトはそれぞれの誕生日に一本買うとか、お年玉を集めて買うとか、そういう具合だったので、割を食っていたのかもしれんが、何にせよ、そういう癇癪持ちであったといえる。


野口晴哉が『整体入門』か『風邪の効用』で書いていたが、風邪を引いたと親御さんが子供を連れて道場にやってくる。

それで野口晴哉はグィっとやって治す。ああ、治った治ったと帰っていくのだが、それからまた何日かして、また引いたと連れてこられる。

そうそう何度も引くのは、体が硬いまま無茶する大人ならありえるが、柔軟な子供がなるのはおかしく、これは親の気を引こうとする依存の心理状態から来ている風邪なのだと。

親と子の生活環境とそれに起因する心理状態が影響しているので、表面上の風邪をいくら治してもすぐ引き直すのだという。


そうそう。思い出した。

車酔いの処置法というのが書いてあったのだが、野口晴哉はいきなりこう言っていた。「まともな人は酔わない」と。

何がまともであるかないのかというと、これも上記の如しで、言ってしまえば甘えん坊がかかる。

拙の弟も、親の運転する車で遠くの親戚の家だとかに行ったりすると、しばらくすれば気分が悪いなんぞと言い出すものであった。


そういうわけで、もうこれから弟に電話をこちらからかけることはしないことに決めた。
電話してきても、詰まらん話をするようなら、すぐに切ろうと思う。甘ったれに手を貸す道理はない。


話が逸れた。


己の不遇を宇宙人だとか陰謀働いている何かのせいにして、己を顧みないのは、拙の弟と何ら変わりがない。

己の糞は己で踏ん張る以外にないのである。


冒頭のブータン国王の言を思い出そう。

あなたの心にも龍がいて、経験を食べて成長しているのだと。

とするならば、地球にも地球の龍がいて、地球の経験を食べているのかもしれない。

健やかに成長しているかもしれないその龍に向かって、「お前が悪い!」と罵るというのは、つまり、あなたの成長を阻害しているのである。

そんな甘ったれの馬鹿に誰が手を貸すというのか?
どこかの宇宙人が助けに来る?
そんな馬鹿をどうして助けてくれるというのか?
甘い話にホイホイ乗る馬鹿とどこが違う?


先ほど拙がこうかもしれないと言った通りとするなら、とっくに滅んでいるはずの地球や人類が今もあるのは、龍のお陰かもしれない。

こうして現代があって、拙やあなたが生きているのは、ネガティブを食べる存在がいるからといえる。


そう思えば、龍だとかレプティリアンというのは実に可愛らしいものなのかもしれないと、たまには猫可愛がりならぬ、龍可愛がりでもして差し上げてはいかがだろうか。

とはいえ、どう可愛がればいいかはよく判らないだろうから、よくやった!とでも伝えるべし。



では、よき終末を。


暁のガイア教団

2018-05-22 | 雑記
拙が小学生のころとなると、二昔より前となる。

そのころは、ドラクエの会社とFFの会社は別々の会社で、テレビゲームと言えば任天堂のゲーム機だった。他にもあるにはあったが、シェアや知名度に差がある上に、拙の田舎は山野のようなところだったので、知りようもなかったともいえる。

それはともかく、当時「ドラクエの会社」としか思ってなかった会社から、あるテーマに基づいたゲームのシリーズがいくつか出ていた。

シリーズとして企画されていたわけではないのだろうが、テーマが被っていたので、「天地創造三部作」などと評されたりしていた。

一つ目が『アクトレイザー』というアクションゲーム。この話は前にも書いたが、部下の天使がプレイヤーに対して任意の名前で呼びかけてくる。

その主人公は神様という訳で、~さま、と呼びかけてくるのだが、大学時代に当時の友人が「き」と一文字入力するというのを教えてくれたもので、馬鹿受けしてしまったものである。

天使が神様に向かって「きさま」と呼びかけてくる様は、笑うなという方が無理であった。

ゲームの内容は、アクションゲームのパートと、箱庭をいじるパートがある。人類の発展を促して信仰を集めて、能力を上げ、それぞれの地域にはびこる邪悪な存在を打ち破っていくという二種類のパートを交互に繰り返すというものであった。

これ単体でタイトルに「2」をつけた続編も出たが、こちらはただのアクションゲームになってしまい、受けが悪かったらしい。

次は『ガイア幻想紀』というもので、こちらは神様が主人公ではなく、とある少年が主人公で、その武器は笛だった。

記憶を辿ると、シナリオ中に、不思議な石像の前にやってくる。すると何やら語りかけられて、その能力を使えるようになる。

一番目は甲冑にマントを羽織った金髪の剣士だった。後は忘れたが、主人公の笛やらそういう能力を駆使して、攻略していく。

流石に内容はさっぱり覚えていないのだが、ヒロインと漂流するというシーンがあって、お腹を空かせたその子のために魚をとるのだが、跳ねて泳いでいく魚を笛で叩くとその魚がイカダに打上げられていく、というシーンは覚えている。

主人公の生まれに何かあったのか、流れでそうなったのかは覚えていないのだが、これもまた「天地創造三部作」と呼ばれるだけあって、そういう内容だったのだろうと思われる。

何ゆえ余り覚えてないのか少し気になって調べてみたら、「欝ゲー」と評される内容だったようだ。が、軽くレビューしていたブログを見ると、最後はすっきりと終るといっていた。

というより、拙はクリアしたのかどうかすら判らなくなった。

ネタバレレビューによると、「過去が全部なかったことになる」と最後の方にあったのだが、そういう意味での「天地創造」だったのだろうかと思われる。


さて、三つ目はというと、『天地創造』というそのままなタイトルのアクションRPGとなる。上記の『ガイア幻想紀』もステータスの上昇はあるのだが、いわゆる経験値制ではなく、記憶違いでなければ、こちらは経験値を稼いでレベルアップという、スタンダードなシステムだったと思われる。

さてもさてとて、こちらも内容はさっぱり覚えていない。ただ、エンディングを最後まで見た覚えはあるので、クリアしたことだけは覚えている。

上記の『ガイア~』は、ピラミッドやらインカの遺跡やらを冒険したり、何やら違う進化をしてきた種族やらが存在していたりと、陰謀論者が色めき立ちそうな内容である。

『天地創造』の方も、そういう冒険譚だったような気がするが、思い出せない。エンディングを最後まで見て、なんだかうっとりしたというか、嬉しいとも悲しいともいえない、不思議な気分だった覚えがある。苦労したからその達成感だった、のかもしれないが、そこはよしとしよう。


長々と書いたが、これ自体は思い出話(殆ど欠けている)なので、書こうと思った話とは関係がなかったりする。


二つ目のゲームのタイトルの「ガイア」というのは、ギリシャ神話の女神の名で、大地の意だったり、「ガイア理論」という言葉でもって、地球を指すという。

この辺りは今調べたらさくっと出た話であり、目新しい話でもない。

というわけで、今回の記事のタイトルをご確認。

漫画やらライトノベルやらの敵組織の名前か何かか、と思いそうだが、特に意味はない。

あとは、『女神転生』シリーズで、ガイア教というのがあるが、これもタイトルを思いついてから思い出したところなので、こちらも関係ない。


さて、話を一度変えてしまうが、ラクダ'sのHPが跡形も無く消え去った。

以前も中途半端に消えていたことを報告したが、キャッシュすら確認できない状態で、これは書いていなかったのだが、レンタルサーバーの期限が五月のいつぞやまでだったというのがあり、それが先日来たのだろう。ドメインは消えてないので、検索一覧で記事があるかのように見えるが、HP自体は消え去っている。

何があったかなどというのは判らぬ。何も無かったのかもしれないが、この世をさげずむことは己をさげずむことでしかないのを理解していなかった御仁であったことを何度も言って来たものである。

彼らに問題が起こって閉鎖と相成ったというのなら、自然の道理だったと言わざるを得ない。

彼らの思考はこうだと書いた。すなわち「地球が神様」なのだと。

それとかけて、「ガイア教団」なんぞとタイトルにすえようと思ったしだいである。


とはいえ、この「ガイア教団」なる存在は、陰に陽に地上に広まっている。上記の『女神転生』シリーズで出てくるのとは違う意味なので、勘違いしないこと。

細かい理論は個々で違うだろうが、共通することは、「神たる地球の毛づくろいに専念すれば、人類は幸福を享受できる」である。

そういうことを理解しない人類は無知蒙昧なのだという選民思想も一緒にくっついている。挙句の果てには「そんな馬鹿は滅んで当然」と言い出したりする。

こういう思想が同時多発的に全世界で、といっても全世界を遍く見てきたわけではないので言い切れないが、「地球は神様」という具合では大同小異に広まってきている。

もしくは人類開闢からずっとあるが、流行の周期がやってきたのだろうと思われる。


これはきっと、拙が冗談で思った「ガイア教団」なるものが実在していて、裏で手ぐすねを引いているに違いない!!

でなければ、かように同時多発的に広まるはずがない!

・・・というのは冗談だが、冗談とも思えない話は、あるといえばある。


スピ系陰謀論というのかスピ系と評せばいいのか判りづらい、デーヴィッド・アイクが言っている。

曰く、「イルミナティは組織名ではなく、ロスチャイルド・シオニストが使っているネットワークだ」と。

イルミナティという名前の組織は、実在したものもある。アダム・ヴァイスハウプトが創設したというのは、教科書には載らないが、史料に残っている。

ついでに、そのイルミナティが世の秩序をひっくり返して乗っ取ろうとしているというのは、敵対したキリスト教の司祭が流したプロパガンダだったというのも書いた。

現在でも、何かでそう名乗っている組織がいないともいえないのだが、イルミナティというのは何県何市の何番地にある組織です、というものではないのだと、アイクは言う。

では、ネットワークとは何か?インターネットか何かなのか?多分、そういう見える形のものではないと思われる。インターネットというものが目に見えるかというと、ややこしくなるが。

アイク自身が書いているが、全ては意識だという。意識と簡単に書くと妙に聞こえるが、こうやって書いているのもそちらが読んでいるのも、それぞれ意識となるのだが、それらも含めて、根本的には同じなのだという訳である。ついでに、物体も同じく意識である。全ては文字通り全てである。意識とかいうものの強弱だとか具合であったりなかったり、硬かったり柔らかかったりするとなる。見た目は違っていても、別の意識だというわけではなく、一つの同じ物が姿を変えているだけなのだと。

アインシュタインは相対性理論の中で、「物質とエネルギーは同質である」と説いているそうな。

エネルギーとは何ぞや、となると、いわゆるオカルトの話で、以前も書いたが、気だとかオドだとかプラーナだとか、洋の東西で表現は変わるが、そういったものになる。

仙道では、全ては気から成っていると説く。この話も以前に。

アイク自身が著作で触れた最先端の物理学が、オカルトと呼ばれるものと同じ事を言っているのである。そして、気だとかいったものは、人の意識で動かせる。

物質は人間が意識するとそのように動きうる、というのも、アイクの著作に触れられている話で、その見解にまつわる実験の話が、YouTubeで解説動画が出ている。リンクは貼らないが、日本語の音声のがある。



とはいえ、アイクは触れない。魔術だとかには。触れちゃならん理由があるのだろうとはよく言われている。


よく判らない話になってきた感が否めないが、もう少し続ける。


つまり。イルミナティがネットワークだというのは、別にそのロス何たらが作り上げた特殊な電波か何かで世界中に指令を送信して人心をたぶらかしている、なんていう話ではないのでは?と。

というのも、その「イルミナティ」みたいなものは、全人類が出来る、もしくは出来うるからである。

でなければ、「ガイア教団」があちこちで創設されるわけがない!もしくは自覚、無自覚の「ガイア教徒」がわんさか出てくるはずもない!


さて、また話を「ガイア教」に戻そうと思う。

地球様の毛づくろいをして、皆ハッピー!が彼らの競技、ではなくて教義だと書いた。

別にそれをするなと言っているわけではない。しかし、その前に気がつくべきであった。

そんな汚れた手で毛づくろいをしていては、お互い汚れるだけではないのかね?と。


それに、不思議だとは思わないか。

森で暮らす猿(動物園にいる方の仲間)がキーキーやっても地球はびくともしない。象が走り回っても多分、なんともない。

それなのに、人類がなにやらやっていたら、地軸がずれたり(原水爆の実験でずれて来たという話があった気がする)、天候が変わったり、ヨガナンダは壁の向こうにリンゴや腕を通して握手したり、電磁波が危険だー!とかいう割には、携帯電話やスマフォを使っている人が皆病気になるわけでもないし、煙草の煙や匂いでこれみよがしにヒステリーを起こす癖に、都会で平然と暮らしていたり、健康のために菜食してる割には胃がんで死んだりする。

後半、地球と関係ない話になっていたが、森の猿が頑張ってもMr.マリックやらブルース・リーにはなれそうもないことは判るかと思う。


以前、元ヒーラーだとかなんだとかいう人が述べていたという話で、3つの究極の原則というのを載せた。

そのうちの一つで、我とこの世は同じだが、この世は我と同じではなく、上なのは我だというのがある。


別に現代の人類がそのままで尊いので、そのままどうぞというつもりは微塵もない。

地球を神様と祭り上げるのは、卑屈に過ぎるのだと言いたいのである。

その無自覚な卑屈さが、他人を屈従させたいという思考に繋がっているのである。

そんな汚れた状態で、地球が綺麗になるわけがなかろう。


というわけで、そういう「ガイア教徒」は「イルミナティ」と相成る。
アイクが述べるイルミナティが邪悪なネットワークであるというのなら、その文脈でのイルミナティと言っても差し支えあるまい。

恐らく、大多数は似たり寄ったりなので、「暁のガイア教団」と名付けた。
暁は夜明け。闇夜たる蒙昧を啓く鶏鳴、ではなくて啓明である。外国語で言うとイルミナティ。
いわゆる陰謀論的に、ぴったりな組み合わせだと自負している。
とはいえ、既に何かでありそうな名前なので、被っていたら申し訳ない。

それが今回の題名の由来である。


上述した根本的な意識というものには、人の世で善と悪に分けられるものが一体となっている。

この世の物差しで邪悪とやらを糾弾するのは、己を糾弾していることになり、また汚れていることを自覚しないまま己の毛づくろいをするというのは、ただ汚れを広げるだけに等しい。

進んで邪悪なことをやりなさい、と言っているのではないことぐらい、言わなくても判るであろうが、敢えて書いておく。



この世は、この世の物差しだけで出来上がっているのではないのである。


では、よき終末を。


玄関閉めたら

2018-05-10 | 雑記
今回は夢の話をしようと考えた。

この話は、以前からしたためようとしていたのだが、書く機会を逸していた。己の不徳の致すところである。


というわけで、夢の内容を語る。


それは、ある日の夕方。夜勤明けで帰ってきて、仮眠していた。その後、出かける用事があったからなのだが、もしかしたら、その用事のせいかもしれない。

さて、仮眠をしていると、我がワンルームのドアノブをガチャガチャ回される音で目が覚めた。

それで起こされるのはいいとして、いきなりドアノブをガチャガチャされるというのは尋常ではない。

起こされた瞬間に想起したのは、こういうことだった。「ドアの鍵かけたっけ?」

反応がおかしいが、そう思っていた。

そして、玄関まで向かい、ドアの状況を暢気に確認すると、やはり鍵が開いている。そこでさらに妙なことを思った。

「どうして鍵が開いているのに、入ってこないんだ?」

そして覗き穴から外を確認すると、異様な光景が広がっている。

拙の部屋の向かいは通路の壁になっている。その壁に、確か、四人ほど背丈がバラバラの女性と思しき人々が並んでいる。

覗いた瞬間に、ドアノブを回していたと思しき人物は見当たらなかったのだが、さらに左から同じ顔と服装をした女性が三人ほどスキップしながら通り過ぎていく。
大学時代の同期の女性の顔に似てるような感じだが、それと同じ顔ともいえない。どこかで見たような気がするが、見たと断言も出来ない感じであった。

覗き穴から離れ、即座にドアの鍵をかけ、部屋の奥に戻った拙は、やはり妙なことを考え出した。

「押入れに隠れてもダメだな。上の納戸は物が詰まっている」などと。

そもそも、鍵をかけてないのに入ってこないというのに、鍵をかけた途端に侵入されるという発想がおかしいのだが、その後の行動はまるで映画か何かである。

ベランダに向かい手すりをよじのぼり、手すりから覗き込んで下を見ないと判らない状態にぶらさがった。

そしておかしいことに、そうしたと同時に部屋に入ってくる女性。覗き穴から見えた女性の中で一人メガネをかけた、その中では一番背の高かったと覚えのある人物が、ベランダまで出てきたのである。

夢の光景なので、自分自身からの視点ではなく、その光景を第三者から見る視点になった状態があったのだが、こちらを探しているようではあるのだが、ベランダからの景色を見ている風でもあった。

そして拙はそのまま隣に伝っていき、見えない位置まで行ってから今度は屋上目指して上っていく。クライミングの経験なんぞないし、第一現実に住んでいる部屋で隣のベランダの手すりの下を伝わっていけるとも思えないのだが、そうしていた。

屋上まで上り切ると、これまた実際に住んでいるアパートの光景とは思えないのだが、屋上は広場になっているらしく、ガラス戸の出入り口なんかも見えた。

上がりかけたところ、その広場に一人の男性が立って煙草を吸っている。歳は五十から六十といったところか。

その男性に見つかっては行けない、と訳もなく思ったところで、夢は覚めたのであった。



夢占いというのがある。真偽の程は定かではないのだが、先日気になって調べてみたところ、玄関の前に異性が居るのは、恋愛運上昇という話があるらしい。

恋愛運上昇というより、女難の相じゃないのかと、拙は思うしだいである。


これをどう解釈するかというと、そういうことは考えていない。上記の通り、女難の相かもしれんナという程度である。


では、よき終末を。


きみはきみが悪い

2018-05-08 | 雑記
前回の記事はいつにもまして、気味が悪かったと思われる。

何せ、言っている本人すら、「酔っているのだろう」と評したくなるところではある。

といっても、一人でそう考えたというより、あれを書くきっかけになった出来事(内容は直接的ではないが)があったからである。

詳細は省くが、数ヶ月前に、とある女性に一目惚れされた云々と書いたかもしれない。

結局その話は梨のつぶてという奴で、一目惚れの後にもう一度面会したっきりとなっている。

「一目惚れした人が知り合いに現れた」と伝えてきた人物がいるのだが、上記の面会の終了後、拙は連絡先を教えていなかったことを思い出し、面会の日にもいたその仲介役に、その女性に電話番号を伝えておいてくれと頼んだ。

人づてにするというのはなんともいえないが、何せ、仲介役の連絡先は知らないので、面会をセッティングした馴染みの店の店主に連絡をして、「頼んでおいてくれ」とやった。

それから二週間経って、知らない電話番号から電話が来た。掛け返したが、出ない。夜勤中に掛けられていたので、こちらは朝に掛け返したのだが、それは仕方ない。掛け返しておけば、何がしかの反応があるだろうと見越してである。

のだが、一向にない。そもそもこの電話番号は誰のものか、と思って、馴染みの店に帰りに寄って聞いてみたら、件の仲介役の電話番号だった。

すれ違いで、直接会って話する機会をこちらも逃してしまったりというのもあったのだが、拙が聞きたかったのは簡単なことである。

「電話番号を伝えたのかどうか」と。

こうやってとんぼ返りしてきたということは、無しになったというのは想像もつく。馴染みの店主もそう評していた。

のだが、それならメールアドレスは知らなくてもショートメールを打てるだろうし、その件で拙も度々店を訪れているのだから、店主に言伝でもしておけばよかろう。

「ダメだった」と。これだけで済む。ダメでなければ、その女性が続ける気があるなら電話してくる可能性がどれくらいあるかしらんが、少しはある。だから、引っ張る理由が判らない。


そしてまた日が経ち、かつて、麻原もどきのおっさんの元でラヂヲをやっていた時に作ったFacebookに、友達申請が舞い込んできた。


例の面会の日に、持っていることは持っている、とはしゃべったので、それを覚えていたか、数少ない友達リストに馴染みの店主もいるので、聞いたのかもしれないが、ともかく、例の仲介役からだった。

Facebookのメッセンジャーとやらは、他人から見られるのかどうかはよく判らないので、といっても、エシュロンが世界中のメールを調べまくってるとか言う話なので、心配する意味がないのだが、そやつに具体的な内容を伏せつつ問うてみたところ、ただ一言だけ返ってきた。

「ですね。そういう話でした」

拙も大人気ないので、「一言で済む話を何故ここまで引っ張った?」と怒ったものだが、一週間ほど経っても弁明も何もないので、友達申請をクーリングオフすることにしたものである。


ここからがまたオカルトな話になる。


そやつは、オーラが見えるのだとか言っておった。

ただ、拙と今はその店にいない店員のオーラをどちらも「黒っぽい色」だと述べていた。ここは記憶違いの可能性が高いが、馴染みの店主も黒と評していた気がする。

オーラとかいうもので検索してみると、そういうセミナーだとかがあって、そういうサイトで書かれていた話があった。これもかなりうろ覚え。

人によって同じものや人を見ても、見える色がまちまちになったりする。というのも、その人が見たい色を見出していたりするからというのである。

いわゆるオーラというのは、言ってしまえば水のようなもので、水に色のついた何かが混じればその色になる。評される色は全て溶け込んでいるわけで、人によって何が出るか出ないかはまちまちなだけである。

見出す方もまた、同じだといえる。よくあるオーラの色で性格だとか状態を評するところで見るのは、黒は調子が悪いときというものである。それだけではないが、そういう時が多いとは聞く。

そやつがいうには、職人気質な人の悪い意味の黒ではないとは言っておったが、実際は、そやつがくすんでおるだけではないのか?というのが拙の推測である。

そうではなく、そやつの言うとおりだとしたら、彼奴はインディーズのミュージシャンであり、だから黒ばかり見えるのだという話である。


こういった内容(すぐ上のは今回初めて書いた)を含んだ経緯を知り合いにメールでお知らせしたら、反応がなかった。そのメールを書いた後に前回の記事を書いたので、「こりゃきっと気味悪く思われたんだろうナァ」と考えた次第である。

そんなノリで書いたから、前回の記事も気味悪いものであろう、というところである。


とはいうものの、拙に言わせれば、この世がある、この世にいるという事自体がもはや「気味が悪い」のだと考えている。

かつての陰謀論者の端くれだった意味合いで言っているのでもなく、あとはスピ系陰謀論者がいうような、「魔術で世の中支配している奴らがどうこう」という意味もない。

魔術云々で、悪党のように言われている有名人がいる。善人とも評せないが、評するなら「途轍もない人物」といえる、アレイスター・クロウリーという魔術師である。

彼はこういう風に言っていたそうだ。

「人が思考し考えて行動するというのは、魔術なのだ」と。思考し考えて、というのは読んだところでそう書いていた。何せ記述するために書かれたものではないので、そうなっていたようだが、意味はおかしくなってはいないだろう。


前回の記事の冒頭で、「信じるものは云々」と始め、人が生きるというのは、信じる力が故、という風に書いた。

これはその時考えたわけではなく、かなり昔から思っていたことである。

人が生きるというのは、何かの宗教団体に所属することではない意味での宗教なのだと。信じる力が故というのに準えるならば、信仰が故なのだと。

かつて読んだ魔術のHPでも、気というのは信じてなければ判らないとあった。逆に言えば、無いと信じるのが一般の通念なので、無いことになっているとも言える。

人が考えて行動するというのはつまり、生きることである。結局、同じようなことに思い至ってしまったといえる。



拙はこういう話をもう何年も書き連ねてきたわけだが、実を言うと、己自身でも変に思っている。こういう話をどう感じるかという意味である。

こういう話を読んだり考えたり実践しながら、常々思っている。「気味が悪い」と。こうやって書いている言葉でなければ、「ばかくせぇ」とちょくちょく頭の中で響いてくるものである。


いわゆるオカルト染みた話を信じてもらおうとは思わない。まあ、信じてくれたら少しは嬉しいかもしれないが、拙のことは拙自身が判ればそれでよい。


気味が悪いのは君が悪いのだろうなどという冗談のような話が真実になりえるのが、さっきも書いた、この世にあること自体が「気味が悪い」の所以である。

「気味が悪い」と書いているが、別に文字通りの意味ではないことをお断りしておく。記事やメールを気味悪がられていただろうな、というところから引っ掛けた話である。


改めて問う。

気味が悪いと君は思うとして、それは何ゆえか?拙の話を頭から信じろという意味ではなく、何事に対してもである。

それは、君が君自身だと思いなしている偏頗な存在にしがみついているからではないか?

君が君自身だと思いなしているものからすれば、全ては気味が悪いだろう。そもそも、全てを判りはしないのだから。

気味が悪いのは君が悪い。だからこそ、この「気味が悪い」世は気味が悪いのである。


などと書くと、いやはや。気味が悪い。
この言いようは何様のつもりだ?と問われれば、お陰様で、と返すことにする。



「気味が悪い」ではなく気味が悪いと思いなせば、この世はそう動いてしまう。

どちらにしても、「気味が悪い」のだなと、思わざるを得ないのである。



では、よき終末を。


ヒーラー社員

2018-05-01 | 雑記
信じるものは救われる、とはいうが、救われるかどうかも含めて、実際、人間の行動の理由というか原動力というのは「信じられるかどうか」にあるという。

数年来、拙は物やら空間やら自身の体から、靄のようなものが出てくるのを見れるようになったと書いてきた。

これに色がついて見えれば、オーラといい、東洋では気と呼び習わす存在である。

見えると思わなければ見えず、感じないと思えば感じることはないという、一行目の話そのものではある。

昨今は、右手のひらを上に向けてなんとなく見ると、手のひらの中心が熱くなってくる。人差し指と中指と親指だけ伸ばして、何か指し示すような具合にしてみると、揃えた二本の指先が熱くなる始末。

今も、見た時は揺れてなかったロウソクの炎に向かってその指を向けてみたら、数秒後には揺れ始めた。

信じるか信じないかは好きにしてもらうとする。信じてくれとは書いてもいない。


とはいえ、一人では判りづらいので、先日、人に試してみた。


この手の話をするまでは、ただの北海道出身の人だと思っていたのだが、実はイタコの家系で、姉上に到っては何やら見えるような性質だったと語っており、ご子息なんかも、気功の如く気を練る動作をして、それを痛む肩に乗せてもらったら、何やら感じて痛みが取れるだのという人がいる。

ふむ。では、と、上記の如く手のひらの中心が熱くなったのを確認してから、お互いの手を近づけてみると、驚いた後、こういわれた。

「息子にそうしてもらったときと同じような感じがする」と。

その時は手のひらだけかと思っていたのだが、その方がいうには、指先だけ向けてみても、同じように伝わってくるとのことである。

こちらは特に自分が何か出ている以外は感じないとは伝えたが、実はその方からは、何やらじわじわしたような感じが伝わっていたことを記しておく。

子供のころ、近所のその手の人によく、「また何か背負い込んできて」などといわれていたそうで、もしかしたらこの感じは、そういうのを引き寄せ易い性質というやつなのかと思ったものである。


そして、さらにこういわれた。

「ヒーラーになるといい」と。

ずっと昔。とあるオンラインRPGで、一キャラ一ジョブのシステムの奴を始めた時、「ヒーラーは必要だよなぁ」などと思って頑張った覚えがあるが、苦しかったのでもうやりたくないものである。

いや、違う。

その方にも語ったが、自分でどこか痛いところが出てくると、手をそこに当ててしばらくすれば、痛みが引いたり楽になったりする。

だからこそ、そんなことを言われたのだが、別に特殊能力でもなんでもない。野口晴哉は、「誰でも出来ることです」と語っているのである。

引き合いに出す人物が極端かもしれないが、出来るのだからそうなのだろうとしか、こちらもいえぬ。というより、よく引き合いに出しているが。

野口整体では「愉気」というのだが、これを宗教臭いのに回帰したのが、名前は忘れたが日本にある教団だったり、海外製のレイキだったりするのだろう。レイキの方はよく知らないが、たまに見かける名前である。


仕方ないので、「こちとらヒーラー社員だ」などと冗談を言ったら、妙に受けて、余計困ったものである。


よく顔を合わせる人物から、ゲーム以外の意味で「ヒーラー」という単語が飛び出したのは、恐らく人生初だろうと思われる。


のだが、このヒーラーについて、ある人物が語っていたことがあったため、実はそういうのに興味がない。

スピリチュアル系の話題にもあるそうだが、「癒されていないヒーラー」なんぞというのがあるくらいで、実は問題を抱えているのだろう。

そういう言葉を使ってはいなかったが、かつてヒーラーだった人物が語っていたという話を、いつもの如くうろ覚えの引用先も示さないやり口で乗せておく。


その人物が若かったころ。丁度阪神大震災の折で、彼は被災地でヒーラーの仕事をしていた。

そういうのは正確に言うと、ボランティアですらない。そして、苦しんでる爺さんだかを癒して「よくなったね」などと声をかけたりしていたのだが、彼らは地震や火事で、寝るところもない。

しかし自分は東京に帰って普通に暮らしている。

これは自分が特別なことを出来るというのを確認するためにやっている、他者依存のヒーラーだと。そう感じて辞めたそうな。

例えていうなら、上から目線とでもいうところか。癒してやっている、という感覚なのだろう。

それで、愛だとか調和だとかいった言葉を使いたがるヒーラーには手厳しくなった、とのことである。


というわけで、拙がヒーラーになるのだったら、目標はもっと大きく掲げるべし、とそう考えた。

拙が癒したいのは目の前の人なんぞではなく、それらも含めた全宇宙だ!とでもしておく。


大きく出たナァと思うが、実は大きくもない。いや、普通の感覚では計りづらいという意味では大きくなる。


上記の元ヒーラーの方が言っていた話をさらに書いておく。


この世の全ての文化には、共通した、究極の三つの原則があるという。

一つは、この宇宙は意識のエネルギーで出来ている、これらは意志を持って生きているとすらいえるということ。

『魔術入門』を紐解くまでもなく、似たようなことはアイクなども言っているので、馴染みの方もおられるだろう。

二つは、人間には宇宙が内包されている。宇宙のすべてがあるのだと。宇宙のあらゆるところに影響を与えられるのだと。
人間の意識一つで宇宙を変えられる。アイクだと、どうも地球どまりの話ばかりだったと記憶している。

そして三つ。我は世界と同じ。だが、世界は我と同じではない。

それは、我の方が偉い、とのことである。


かつてヒーラーで爺さん癒してた時に感じていたことを、爺さんが下でその方が上とするならば、こっちの我とあっちの我に貴賎の区別などないのである。そもそも区別すらない。


ならば、我が癒すべきは我である。これで地球も宇宙も癒されるのである。


簡単な話ではないか。


というわけで、拙がヒーラーとやらになるのだったら、そういう夢みたいな話をするだけになる。被災地に飛んでいったりはしない。


卑俗な言い方をするならば、こうなる。

ヒーラー気取りで悦に入るぐらいなら、近所で酒飲んで馬鹿話してるほうが遥かにいい。

とはいえ、ヒーラー社員は懐が寂しいのである。あ、社員ですらなかったな。

次はヒーラー社長とかヒーラー大臣とかよく判らない感じになろうか。


では、よき終末を。


レトロスペクティブ後顧

2018-04-13 | 雑記
著名な方はよく、回顧録だとか自伝というのを残すものである。例えばチャーチルだったり、去年か一昨年にお隠れになった、デイヴィッド・ロックフェラーとか、後は具合が違うが、アイクの著作も半ば自伝の趣があったりする。

なんだ、外国人ばっかりかとお嘆きになる前に、もう一つ。

かつて公明党の委員長だかをやっていた矢野という人が、辞めた後にも出していた。タイトルも回顧録だったかもしれない。

創価学会に都合が悪かったのだろう、案の定いつもの正義とやらを振りかざして、怪顧録だのとダジャレで罵っておったものである。怪以外の字は忘れた。

そんな環境に育ったので、拙もダジャレばかり言うようになったのである。これが拙の既存の精神状態かと思ったら、カルトに洗脳されていたのである。これは名誉毀損だ!訴訟も辞さぬ!

と、いきなり危なっかしいような古いネタを放り投げてみたが、反応されても困るので、お気になさらぬように。

ついでに言っておくが、どちらも擁護する気は微塵もない。


ところで、陰謀論界隈で、例えば有名人の誰々が死んだが、実は偽者で本物は隠れているんだ!という話がよくある。デイヴィッド違いのデヴィッド・ボウイもそうだ、みたいな話も以前読んだものである。

死んだのは偽者で、本物は隠れているんだ!なんぞと延々書くと長ったらしいので、上に既に書いたが、これからは「お隠れになった」にしたほうがスッキリするだろうという提案である。

亡くなったの婉曲的表現という奴で、読んだままの隠れたならどこかで出くわすかもしれないし、本義通りに亡くなっていた場合も間違いはない。これで安心である。

イナイカモの配下のなんたらがお隠れになった、なんぞとその手のブログで書かれる様になったら、時代は変わったナァと、その時は拙も回顧録を出してみたくなるものである。



というのも、なんの勢いかはさっぱり判らないのだが、「Youも自伝書いちゃいなYo!」というネタ振りをされたからである。

創価の三世としての生い立ちと陰謀論からめた自伝に、わたし(提案者の人)が漫画描いて、アイクばりにデフォルメしたら、殺されますかね?と申しておられた。

有名になったら殺されるなぁ、と言っておこう。といっても、彼らの有名具合もまた、テレビやらマスコミの如くなので、無視しておくのが一番ではある。最近はテレビの影響が減ったのではなく、移行しただけである、という点には留意のほどを。テレビもマスコミュニケーションの一部であるし、マスコミュニケーションは邦訳で大衆伝達である。伝えることが目的であって、手段が理由ではない。新聞社は新聞書いて売るのが存在理由になっているが、上には関係ない。

それに、拙の話なんぞ何のドラマもない。借金苦で一家総自殺しかけたとか、よくある話すらないのである。面白いと思うかね?


後を振り返っていては前に進めぬのだが、実は前を向いているつもりで後ろしか見ていないというのは往々にしてあるので、敢えて後顧を憂いてみるのもよいのかもしれない。

実際に、瞑想の手法として、夜寝る時にそこに到るまでの一日に起きたことを遡って思い出していくというのがある。

そうすると、必ずどこかで記憶の空白があったりするという。そこが自分の弱点だというわけである。

別のところで聞いた話では、振り返っていってただそれを眺めていく。そうやっていくと、過去と別れられるのだという風に聞いた。

ただ、この瞑想法はかなり疲れるので、やる時はご注意を。


というわけで、いつも通り、しばらく前の回顧でもやろう。

今日のタイトルは、カタカナを訳すると回顧の、とかいう意味になる。回顧で後顧で結局前じゃないか?という冗談である。

それと、とある曲名の韻を踏んでいる。そこはまったく関係ないので、忘れたまえ。

やる気になったらここで自伝的な文を綴ってカテゴリとタイトルにしようかとは思わなくもない。が、期待は気体より掴み難いほどにしておくのが吉である。


さてさて。どうにもこうにも流れたとしか思えない、しばらく伏せていた話を公開しておく。


ある日。近所のお店でライブイベントがあり、気が向いたので見に行くことにした。

時折そこで手伝いというかバイトというかをしている人がいて、実はインディーズバンドの人なのだが、その人が出演するという。

本当に歌っているのかな?という意地悪な理由で見に行ったのである。

実際に歌っていたので、事なきを得た。いや、その表現はおかしい。


その凡そ一週間後にもイベントがあり、拙は出席予定で休みを取っておいたのだが・・・。風邪を引いて寝込んでいた。

前日に欠席の電話をし、当日も寝ていたら、何故かその店の店長から電話が来る。

「あ、用があるのは別のやつなんで」と、すぐに交代し、電話口に出たのは、上記のバンドの人であった。その日も手伝いに来ていたそうなのだが、風邪は大丈夫か?という挨拶の後に、こう切り出してきた。

「実は、この前のライブに来ていたうちのお客さん(バンドとしてのという意味らしい)の一人が、安生さんに一目惚れした」と。

それで、お客さん(この場合はこっち)のことを勝手にしゃべるのもいけないと思ったんで、彼女いるとかいないとか伝えても構わないか?という許諾を貰うための電話だった。

「いてもいいんじゃね?」とか「夢の中におるんじゃね?」とかとぼけておいて、実際にはおらぬことを伝えても構わないとし、電話は終った。

しかし、もっとボケるべきだった。「彼女いるの?」「いらん」とかいうやり取りを。これは後で思い出したが、恐らく通じまい。

覚えている人もいるかもしれないが、この後寝ていたら、背中と腰がひどく痛み出し、次の日の出勤中に電車の座席に座っていたら、動けなくなるんじゃないかと思うほどになったという話は、このことだったのである。


さてそれから何日かして。


せっかくだから、会ってみようとなり、そのお店でセッティングしてもらった。

普段、電話を意識して持ち歩くのは仕事の行き帰りぐらいで、近所(歩いて一時間前後ですら)に行く時は持たないので、その日も持たずに会いに行ったものである。

面会は終わり、帰ってから連絡先なんぞ教えてないことを思い出した。一目惚れしてきたのはあっちだし、その気があるならと、電話番号を伝えてもらうように、店長からバンドメンに伝えてもらうようにお願いしておいた。

バンドメンからその知り合いに、それから例の女性へという流れなので、伝言ゲームになりそうだが、致し方ない。


そして時は流れ・・・。二週間ほど経ったが何もない。


今から十日ほど前に、見知らぬ番号から着信があった。これかな?と思い、仕事の帰りにその店に立ち寄ると、店長がいう。

「バンドの人が安生さんに電話したそうだけど、出ないんだっていってた」と。その電話があったのは夜勤の最中で、電話はロッカーに仕舞っているので出られない。

何ゆえ彼から電話が来るのか?酒を頼んで飲み始めながら店長と雑談すると、経験があるのか、こういった。

「新しい恋を探しましょうや」と。


さてもさてとて、この間の日曜だったか。また昼に例の店に伺い、「バンドの人はいつくるかね?」と聞いてみたら、なんとその日の夜に来るという。

「よし。じゃあまた後で」としこたま飲んだ後、しばらくうろついてから家に帰り、そして寝ていたら、来るといっていた時間丁度に、店長から電話が来た。

「電話、かわるかね」というのだが、少し逡巡してから行くことにして電話を切ったが、予定より四十分ほど寝過ごしてしまった。

店が見えるところに来たところ、出て行く車が一台。店に入ると、「丁度すれ違ったみたいだ」と言われる。何か予定があったそうで、帰らなくてはならなかったそうだ。

そして、未だに連絡はないのである。自棄を起こして留守録に「YesかNoかだけでもメールしてくれ」と入れておいたが、返事はない。

色々忙しい方でもあるので、これ以上追求することはしないが、例の店に言伝出来ないほどのことなのか(その店長も加担している件なのだし)、それとも別の話があるのか。

別の話があるならあるで、彼が答えるべきは一つである。「電話番号を伝えたのかどうか」である。

伝えたなら、その女性がこちらに興味がなくなったとかで、それで電話が来ないのなら別に問題ない。

伝えられなかったというなら、上記の埒内でもあろうし、また別の問題があったせいとしても、そんな話は後でも聞ける。


こういうと言い過ぎになり得るし、またこの手の話かと思われるかもしれないが、もう少し続ける。

そのバンドの人は、何でも、オーラが見えるのだとか。それのせいで余計な気を揉んでいるのだとしたら、申し訳ないが、大きなお世話である。

いきなりこれこれこう気をつけないと、彼女と上手くいきませんよ、などと言い出したら、杯を叩きつけて店を後にしかねないだろう。そんなことは聞いていないからである。

それを語るにしても、上記の質問に答えてからである。だから、おかしい。

色々と手伝ってもらっておいていうのもなんだが、電話番号のこと以外は頼んでいないのだから、もし上記の推測通りに気を揉んでいるなら、それ以外に言葉はない。


というわけで、今も困っている。


さて。ここからは冗談である。


ここしばらく、バンドの人が何を拙に伝えようとしているのかと、店長と冗談を言い合っていたのだが、彼はオーラが見えるだけでなく、お払いの手順だかも知っているらしく、その店を以前、お払いしたのだとか。

それで、拙に除霊の手伝いをさせるのだろうとか、キョンシー退治に借り出すのだろうなどと言っておった。

どっちも経験がないので、もしそうなったら大変だ。準備をしておかねばなるまい。


だから、その準備として、拙は「気」を揉んでいるのである。


では、よき終末を。


ミツコブラクダが針の穴を通る話

2018-04-05 | 雑記
現代人は、と、今から四十年ほど前に亡くなった人物が語っていた。

続きはこうである。「栄養があると聞くと、なんでも口にするでしょ?」と。

その時代は、第二次世界大戦が終結してから数十年といったところで、当時はアメリカの食糧支援で、小麦粉の輸入(体の良い、在庫処分が本義である)がなされたり、日本人は栄養が足りてないのだと、栄養学という権威で持って、色々食わされていた時代である。今も特に変わりはない。

結果、巷でも聞くように、食生活の欧米化によって癌や糖尿病といった生活習慣病と呼ばれるものが急増。日本人の死因の上位に癌が入るようになった。

食い物が原因だといえるのかは判らないが、医療が発達したというのに、花粉症とかいうものが現れたり、鬱病などと診断された人々が年々増えている。

ついでにいえば、別に食い物が原因ではないのだが、その話はとりあえず、措くとする。


話は代わって、冒頭の人物とは別の人物の話になる。


ある日、ふと思い立って、そやつのHPに書きこめる箇所があるのならと、アクセスしてみたのである。

こういうことを書こうと思ったのである。

「人のお礼をいうタイミングが自分の想定でなかっただけで馬鹿扱いし、動物の如きだと罵った癖に、己が何かで言い過ぎたことを認めておきながら自身でまともな謝罪も出来ないのなら、お前こそが動物の如きだ」と。かように書き込んでやろうと思ったのである。

余談だが、かの御仁たち(ついでにいうと、そういう趣味志向の人の多く)は、「動物は素晴らしい」と事あるごとにいう。自然に沿って生きているから(野生、とつけたらなのだろうが)、という理屈なのだが、こういうのはダブルスタンダードというのではなかろうか。日本語で二枚舌。
文明生活のこちこちの作法に拘らない拙こそ野生であろうなと、自負したくもなろうというもの。

余談に余談を重ねるが、拙は礼をまったく述べていなかったわけではなく、届け物がちゃんと届いたかをかつて存在した隠し掲示板のチャット欄で訊ねられたので、業務連絡だと思い、届きましたよとだけ答えたら、動物の如きと罵られたのである。届け物を作成する時点でいやになるほど礼は言った覚えはある。

その届け物というのは、今となっては、否、元々知っている人はかなり少ないが、何かタレントモドキにしようと画策されて、ポスターなんぞ作られたという話である。

付け加えるなら、本当にありがたかったら、届いたときに嫌でも言っておったろうが、そうは思っていなかったというわけである。ありがた迷惑というより、迷惑千万というべきか。

余談はここまでにして、アクセスするとどうなったか。書きこみ欄がなかったか。その程度ならどうでもいい。

HPが機能していないのである。「Internal Server Error」と表示されており、HPが閲覧不能になっていた。

キャッシュを開くと、一月の何日かの採取で、記事の更新は去年の大晦日までのが表示されていたが、個別の記事も上記と同じ表示で、何も見えない状態になっている。

通販サイトもやっているようだが、そちらは機能しているようだった。

これは・・・一体・・・。と思い、かつての兄弟子にメールをしてみたら、その日はそやつが使っているレンタルサーバーで障害があったらしい、とのこと。ちなみに見たのは三月十八日。

気勢が削がれたナと思い、何日かしてからアクセスすると、何も変わっていない。

上記の英文のエラーについて調べたら、個々のパソコン(奇妙な表現になった)の不具合の可能性もある。見れないPCもあるというわけだが、仕事場のを含めて数台と、元兄弟子のも使って、どれも見えないわけである。

そして、現在も未だに見れないのである。

あのインスタモドキのしょうもない内容を毎日見せびらかしていた奴が、見せなくなった。

消した、ならわかる。しかし、消してもなくて、不具合状態を放置しているというのが解せない。

消すとショップも消えるから消せないのか?ならHPを立て直した方がよかろうはず。

あの内容を見て惹かれる人が何人かいるのは世の常だから、ショップへのアクセスを期待できるはず。

後、例のエラーを簡単に調べていたら、一つ面白い話があった。

サーバーを使っている人のパソコンでだけ見れて、他のパソコンでは見れなくなっていることもある、とのこと。

先日、その件を元兄弟子に伝えたら「もしそうなら、完全にオ○ニーじゃないですか」というので、拙はすかさずこう返した。

「元からそうですよ」と。

兄弟子も仏葬、ではなく物騒なことを知っているので、恐ろしげな想像を語っておられたものである。

なんでも、熊は人の食べてたものを食っていた(人里で残飯漁りしていた)奴の肉が一番美味いので、もしかしたら共食いしたんじゃないか、などと。

そこまで行かなくても、フタコブラクダがいなくなったりで、どうしようもなくなったんじゃないか、などとも。

フタコブラクダってなんだっけ?と一瞬考え、聞き返しそうになったが、これはかつて拙が編み出してしまった罵倒用語だったと思い出し、事なきを得た。

ついでにいうと、インスタもどきのHP運営者はヒトコブラクダということになる。

なんでラクダ?と聞かれると説明が長くなるので、ご想像にお任せする。


合わせてミツコブラクダたちの話は、実はどうでもよかったりする。


彼らが草食い牛の肉を食べて健康健康とか言い出すのも、別におかしな話ではないからである。

何ゆえか?それは冒頭の言通りである。

彼らが生食だとか果物食いだとかを正当化している根拠は何なのかはご存知だろうか?彼ら、だけでもないが。

感銘を受けたという、アメリカだかのスポーツドクターのグラハム博士の書籍の影響だが、あの本にも、冒頭の話と変わらない話を、かつて直に聞いていたものである。翻訳出版はならなかったが、ヒトコブラクダが翻訳したのを読ませてもらった。

要するに、「果物とレタスの如きの野菜と少量のナッツ類(必須とはいってなかったかもしれない)で、二千kcalとるべし」だったのである。

その辺りは、ラクダズも「栄養の量についてはあんまり関係ないかな」と当時言っておったものだが、果物だけで栄養学が示すところの栄養が十分取れるから、しっかりした栄養があるから、というのが根拠だったからである。

なんということはない。「現代人は、栄養があると聞くと、何でもすぐ口にするでしょ?」を地で行っているだけのことで、肉食いだしたなんというのは、単なる気取りなだけで、別に恐ろしく悩んだ末の宗旨替えでもない。色々書籍を漁って、肉食わずに過ごせた民族は見当たらなかった、なんぞというのもふざけた言い訳でしかないのである。

上記の言は、見えなくなる前のHPに書かれていたので、証拠をお見せすることは出来ないことをお断りしておく。とはいえ、今までもリンクを貼って、「これが根拠」という風にやらないので、意味はないが。

かつてのフタコブラクダがコメントで、当ブログに消してなければ残っているが、こういうタイトルがあった。

「ゴイム的価値観」つまり、馬鹿な一般人の間抜けな物の見方というわけだが、それは正に当人達のことであった、というわけである。

ついでに、この「ゴイム」という言葉は、世界を牛耳っているとかいうユダヤが隠し持っている教典に載っている言葉で、異教徒は家畜と同じに扱ってよいという理由から、ゴイムは家畜扱いの人、とかいう意味だ!!というのが広まっているが、これは実際は根も葉もないほら話。

タルムードという、ユダヤ教の教科書レベルのものがあるのだが、これにのっていた!と、フランスだかの物書きが翻訳して書いたそうだが、その翻訳元を持ってないだとかで、嘘っぱちだったことを散々指摘されているという代物。

正に「馬鹿と言った方が馬鹿」である。


その本義を知らず、その経緯も知らず、そして他人の口車に乗せられていることも知らぬ。

「ゴイム」はどちらか。言うまでもないことである。

もう一つ。ユダヤ教徒を悪人扱いしたいのは、キリスト教であるとのこと。

ラクダの例えが聖書にある。彼らをラクダとからかったのも、故のないことではない。


彼らの顛末を見て、あなたは腹を抱えて笑えるか?

あなたも「栄養があると聞くと、何でもすぐ口にする」のならば、なお更である。

だから、彼らの話自体はどうでもよいと、断りを入れておいた。

文句は節操なく笑う、あなた自身にいうべきである。これは拙の余計なお世話ではある。


ならば、栄養があろうがなかろうが、「食べたい」と感じたときにだけ食らう。

人の中の自然が、それらを栄養なんぞというものから、さらなる高みに引き上げていくであろう。

それを自然というべきであり、やれ環境がどうだとか栄養がどうだとかのうわべだけの意識だけでは計り知れない、生命というものなのである。

そのようなわけで、たまにはイスラム教徒のように、ラマダンの日でも設けるとよかろう。
もしくは、食べる量を減らす。

そちらにとっても、悪い話ではないと思いますが?


では、よき終末を。


見識という名の不健康

2018-03-30 | 雑記
先日は、「花粉症を治す方法」を提案してみたのだが、アクセスが下がっていた。

週の中ごろにかけては見に来る人も少ない可能性が高いだろうし、前からだが、特に説教臭くはなっている。後、危なっかしいネタもある。

ヴィクトル・フランクルは歯槽膿漏が治って、こちらは花粉症の影響がほぼなくなった。そして、元手はタダである。煙草については、吸っていない人には出費になるが、市販の薬よりは安い。喫煙は無理には勧めないので、断食でもするとよかろう。二日ほど食うなとかそういうレベルではなく、半日食わないとか、そういうノリでやればよい。

そちらにとっても、悪い話ではないと思いますが?

そちらにとっても云々は、某ロボアクションゲームに登場する、ミッション仲介役のなんだか気障な感じのキャラが内容説明を終えた後に最後にいう、いわば決め台詞というやつで、気にしないで貰う。


さて、記憶を掘り起こすと、これまた説教臭い話になるのだが、思い出したことがあった。

あったが、そんな話から始めると退屈だろうし、寧ろ余談をするほうが退屈になるであろうという狙いの元、昨日あった話を少し書こうと思う。


昨日、夕方から出勤で、仕事場に着いて着替えて事務所に入ると、女性スタッフの一人が尋ねて来た。

「安生さん。女の人とメールしましたか?」

なんのこっちゃ?と問い返すと、聞いてきたほうも「この聞き方はおかしいな」と、自身でも不思議がっている。

仕事場への問い合わせのメールに返信することはあるわけで、後は余りいないが母親以外でもメールする相手はいる。仕事場での話しなので、個人のことではないのは確かである。

「この人に覚えはないですか?」と、予約カードの一つを指し示す。指し示したと思ったら、男性スタッフから訂正が入った。

「いや、この人ですよ」と。すでにチェックインした、とある人のカードを示した。

手書きの予約カードで、こういうのは電話で受け付けた予約である。字の癖と署名で、拙が受けたものだというのはわかった。

さて。何があったのかと言うと・・・。

なんでも、そのお客さんがさきほどのチェックインの際に、拙のことを尋ねたのだとか。

まさか・・・。刺客!?ではなく、予約の際の電話対応でとても親切にしてもらったとのことで、それで一言お礼を伝えたかったという。

「そんな優しく対応したつもりはないんだがなぁ」と、某パンメーカーのキャンペーンのポイントシールを貼り付けていると、「そんなこと言いながら優しく貼ってるじゃないですか」などと、冒頭の女性スタッフがからかってきたものである。

「これは習慣ぢゃ」と返しておいた。某パンメーカーのキャンペーンは、拙が集めているわけではなく、その女性スタッフである。

優しくした覚えが特にないので、きっと一目惚れでもしたのだろう、と冗談をいったら、訂正を入れてきた男性スタッフが「電話でですか」と笑っていた。確かに、一目ではない。

一目惚れ、という言葉を拙が言った時に、ただの冗談に聞こえていないかもしれない人物が一人いたが、彼からは特に何もなかった。ここでは書いていないナイショ話を以前、伝えてあるからである。

そして、いきなりそういう持って回った話をしても、読者は置いてけぼりである。各々の想像力にお任せするが、こんな風に書けばなんとなく想像はつくであろう。

昨日は起きてからなんだかだるかった。寝すぎたせいだと思っていたら、もしかしたら・・・そのお客さんが原因だったのかもしれない、などと想像を逞しくしている。

一目惚れは冗談としても、よほど印象が強かったのだろう。カードの打刻を見ると、二十と数日ほど前の予約である。恐らく、拙の声は悪魔の囁きに違いない。電話越しに人を洗脳する!

さあ、皆のもの!目を閉じよ!耳を塞げ!心を強く保て!拙という存在は人心を撹乱する!!と、いいなぁ。


とはいえ、撹乱されたのはこちらであり、まるでファウスト博士の魂を奪いそびれたメフィスト・フェレスの気分である。これはゲーテ版の話ではあるが。


さて、そんなメフィストもどきが過去の記憶を掘り起こして何か言い出そうとしていたわけである。ここで引き返すのが得策である。


拙はかつて、Webラジオのようなものをやっていたわけだが、それの宣伝やらもかねて、Facebookもやっていた。今もアカウントは生きているが、見てはいない。

その中でいいね!をくれた人だかのページを見た時だったか。こんなことが書かれていた覚えがある。

「風邪についてのユニークな見解」云々と。こういう書き方ではないが、こういう表現だった。ユニーク、とあったのは覚えている。


拙の風邪についての見解は(釈迦が言っている見解とは別と思ってもらおう)、そもそも風邪は普段の生活で偏る身体の状態を戻すものだという、野口晴哉と野口整体の見識に基づいたものである。

話を読んだだけでそういったわけではなく、実際に自分で試して、野口晴哉の言っていた通りになっていたからである。

風邪気味の時に、身体が赤くなるくらいの温度で風呂に入ると、実際に両足の赤さが揃わない。

こういう場合は、赤くない方をもう少し温度を上げた湯に五分から十分弱つけて、それから足を拭いて寝る。

そうすると、寝汗がたっぷり出て、次の日起きたら風邪が抜けていたり、というわけである。

先日も夜勤で帰ってきて夕方風呂に入って寝たら、気付いてなかったが、多少風邪気味だったのだろう。床に染み出るくらいの寝汗をかいて、次の日目が覚めたら、普通だった。

ユニットバスに湯を溜めて入っているので、浴槽の中で立ち上がって上半身を拭いて、それから片足ずつ拭いて出るとやっているので、勝手に追加の足湯になっていたわけだ。

ついでに、上記のように入ってからすぐには寝ないこと。入浴で上がった体温が下がってから寝ること。そこは間違えないように。あと、この前風邪で寝込んだときに、風呂に入ってから買い物に出たら、風邪が長引いてしまった。そういう基本的なことは外さないように。


前も書いたが、野口晴哉は、両足からの体重をそれぞれ量る器材を作って、風邪の前後で人の体重を量ると、風邪になってくるとどちらか(人による)に体重が偏っていき、それがある程度になると風邪を引いて、風邪が治るとその偏った体重が分散される、というのを観察したそうだ。


何が言いたいかというと、「生きている人間の身体をしっかり観察して見極めたもの」だから、別に拙独自のユニークな話なんぞではないのである。


死んだ体だけ見ている西洋医学、もしくはそれに準じた物差しでしか考えていないから、拙の話を「ユニーク」だなどと評するのである。

見識があるつもりでただの不見識というわけである。


そういう不見識が一般的だから、断食して花粉症が治ったと聞いても眉唾だと最初から不見識で決めてかかるし、煙草についてもそうだ。


ただし、前回の話からになるが、普段の生活の付け足しとしての喫煙は勧められないことをお断りしておく。

ついでに、バカスカ食うための体にするために断食するのも勧めない。食うなというわけでもないが。


唯の心理学者が収容所で死に掛けてたら、歯槽膿漏が治ったのである。

唯の人間を自認しているあなたも、当然できるだろう。唯の人間なのだから。

森に入って生の物を食って「自然だ」などという必要なんぞないのである。

自然というのは、外にある環境のことではない。人間自身にあるものである。

それが出てきたら、勝手に健康になっていくのである。


自然は人間自身にある。しかし、不見識がそれを押さえ込んでいるだけなのである。

己の不見識を破るために、たまには風邪を引いても薬やら飲まずに寝るのがよかろう。

花粉症?ならばもう言った。断食でもしたらどうかと。唯の人間ならできることだ。

そちらにとっても、悪い話ではないと思いますが?



では、よき終末を。


空きっ腹のウヰスキー

2018-03-28 | 雑記
それは・・・十年前のことであった・・・。というわけではないが、それぐらい昔のことだった。

大体毎年のように、一月から二月にかけて風邪を引いて寝込んだあと、ずっと鼻水やらくしゃみが止まらない。目も痒かったかもしれないが、そこは忘れた。

風邪が長引いているのか。それにしても長いし妙だと思っていたものだが、どうやら花粉症というやつだったらしい。

他の時期の風邪を引いた時は、起き上がってからもティッシュをつまみ続けて山を築く、というのはなかったものである。

それがある年を境にして、ほとんどなくなった。鼻にティッシュで栓をしたくなるというのもないし、花粉があったりなかったりするこの時期に外をうろついて、目が痒くなって兎のようになることもなくなった。

まったく影響がないわけではないが、埃っぽいところで過ごすとなるような程度であり、花粉症等と病名をつけられるような状態ではなくなった。

ところで、余りあてにしなくていいが、花粉症の人は、ある種のガンに罹る率が下がるとかいう話があるそうな。


では、どうしてそうなったのかを少し書く。

まず始めたのは煙草。先日も久しぶりにチラッと書いたが、症状が軽くなったとかいう証言は実際に出ているし、煙草の薬効は医者も認めている。

昨今はニコチン製剤を認可しようなどという動きも出ているそうで、その薬効は抗うつ剤が裸足で逃げ出すくらいの勢いでうつに効くというほどだとか。

というのは昔したことのある話である。だから喫煙を勧めるのだ、とは実はもう思ってない。薬効があるから、では勧めない。

ついでにいうと、ニコチン製剤もどうでもいい。西洋医学の徒のいう事は眉唾と思うくらいが丁度いい。

物事の結果を原因と見なすのでは、いつまでたっても本質にはたどり着かない。効かないのに売れているサプリメントと同じである。ああいう詐欺まがい、いや、詐欺になるに決まっている。

この話は措くとして、他は何をしていたかに話を戻す。


後は、断食が体にいいからたまにやるといいというので、(寝てる時間も含めてだが)半日以上食べないというのを意識してやったりしていた。

これについても、指導の元やった人が、花粉症ではなくなったと証言していたりする。

そういうわけで、半日以上ろくな物を食べないというのが日常化している。ところで、先日は久しぶりに風邪を引いて四日ほど寝込んだのだとその状態を知っている知り合いに言うと、こう返された。

「普段余り食べないから、免疫落ちたんだよ」と。

免疫が落ちて感染症に抵抗力がないのなら、毎日風邪を引かねばならないし、そのうち結核だとか重篤な感染症になってこの世からおさらばすることになりかねないのだが、未だその気配はない。

煙草に殺菌効果があるから、というのは余り意味がない。そもそも、パスツールの学説は、死の間際まで続いた論争で、パスツール自身が敗北宣言を出しているのである。

ついでにいうと、体が健康なら罹らないという理屈でパスツールと争っていた方も間違いともいえる。煙草吸ってたら、ビタミンCやら破壊されて、免疫は落ちていることになる。

これらの話は後で改めて触れることになるかは判らないが、とりあえず、意識して行った覚えのあることは、喫煙を始めたこと、一日に食べる量を減らしたこと、である。


さあ、花粉症でお悩みの皆様方。お試しになりますか?煙草も嫌だが、断食はもっと嫌、という日本人は多いので勧めようがないし、拙は勧める気もない。
釈迦は、聞く耳持たない奴に法は説けないと本当に言っていたものである。


ところで、最近たまたま、精神科医のヴィクトル・フランクルの話を耳にした。

ナチス政権下のドイツにいた、ドイツ系ユダヤ人というのだろうか、アウシュビッツに放り込まれて生き残った人物である。

その時の話を『夜と霧』という本にして出版していて、日本語訳も出ているので、知っている方もいるだろう。

実は持っていたのだが、どこか行ったか、本棚の二列目にあるのか、別のエッセイ論文的なのしか、ここからは見えない。

彼は収容された当初、歯槽膿漏だったそうだが、収容所で過ごしているうちに治ってしまったそうだ。

実にナチスの収容所は人絹ならぬ人権に配慮した収容所だったのだろう、果物を毎日ふんだんに食わせてくれたので、歯槽膿漏も治ったに違いない。

何を馬鹿なことを、という方は正しい。ナチスがそんなことをしたとはフランクル自身も言ってない。

ということはつまり・・・あの場所に何か凄い力があって、新鮮な果物なんぞないのに、歯槽膿漏を治すような何か(ビタミンCがいるらしい)があったのだ!!

よくわからないけど、きっとそう!さあ、皆でナチスの収容所跡へパワースポット巡りだ!!

何ぞとふざけたことを書いていると怒られるので、これくらいにしておく。

これを引き合いに出せば、何が言いたいかは多少理解していただけたかと思われる。


先ほども書いたが、一般に馴染みのある話で、喫煙は体内のビタミンCを破壊するというのがある。口内炎の原因に挙がったりするのがビタミンCの欠乏だったりするので、喫煙者にも多かろうと想像がつく。

で、お前はどうなのだ?と聞いてくれ!頼むから聞いてくれ!というと、おかしな人の如くだが、喫煙を初めて口内炎が増えたかというと、まったくない。

元々多い性質ではなかったと思うが、ここ数年は口内炎というと、人がかかっている話しか聞いていない。軽くかかった覚えがあるが、すぐ治った。

ついでにいうと、かつてはどこかの自然賛美者、否、物質崇拝者の影響で、果物を主食にするというのを実践しかけたが、今はまったく食わない。

それでいて、口内炎なんぞほとんどなったことがない。空きっ腹でウヰスキー飲んでなんともない。いや、酔っ払うが。

なら、ウヰスキーに絶大な効果があるのだろう。スコッチを毎日少しずつ飲むべし!お酒は成人してからというより、聖人になってからの方がよろしかろうと思われる。


花粉症に話を戻す。


巷で言われているのが、「免疫が落ちてるから、免疫がつくものを食べましょう」である。そしてその上お薬たっぷりである。

恐らく大抵の人は拙を基準にしたとしたら、食事量は多い。一食一食が少なくても、日に何度か口にしているはず。一日三食が基準であると思っているだろうから。

そういう一般的な基準で生活している人が、薬飲んで免疫つくだとか効果のある何かを食べたりで治ったかというと、いないどころか周りの花粉症の人々は、年々ひどくなっている。なっていなかった人まで罹りだした。


以前に書いたが、野口晴哉の糖尿病についての言もそうであるし、骨粗しょう症の話もそうだ。

フランクルの話もそうだが、一般的にはこれを欠乏したからだと指摘する。造血作用の如く、身体が何かやりだして、不具合を解消したと。

野口整体が指摘している上記の話の場合だと、これは取り過ぎだからとなる。悪銭身につかず、というが、望外の臨時収入で浮き足立って、余計に金を使いすぎるのと同じである。


そこで、拙はフランクルの場合を欠乏などとは言わない。


これはそもそも、人間には足りていないものなどなかったのだ、ということを示しているのである。

だから、彼は果物なんてない環境で歯槽膿漏が治った。


拙のことを引き合いに出したくはないが、気が見えるなどと気の狂ったやつがこうなりましたと申したのなら、まあ判らないでもない。
どこか特殊(狂っているの別名という意味で)なのだから、で片付く話には出来よう。気が見えるなどと、声を大にして言いふらしたい話ではないし、そもそも大したことではないからである。
世の中には木しか見えない人もいるので、気にしないでもらいたいものである。

フランクルはただの精神科医、つまりは学問以外は特殊なことはない、どこにでもいる人である。ユングの如く、オカルトの家系出身だったとかはあるかもしれんが、知らぬ。

その彼がああなったのである。


敢えて言うなら、「欠乏」させるべし。
そのための喫煙であり、断食であり、余計な意識を削ぐ瞑想であり、そして「欠乏」の本質を見出せないのなら、それらはいくらやっても意味がないのである。

さらに、足りないと思って上記を行うのなら、まず確実にあなたを損なうことであろう。それらは付け足すためのものではないからである。

何故なら、先ほども言ったが、そもそも人間は足りていないものなどなかったからである。

とはいえ、先ほど悪銭身につかずを引き合いに出したが、その例に倣って言えば、現状の人間は欠乏している状態ではある。努々注意を怠ることなかれ。


そういうわけで、花粉症やらにお悩みならば、空きっ腹にウヰスキーを流し込むのも悪くはなかろう。


では、よき終末を。