ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

キャラメル箱の中の標本

2021-06-02 | 雑記
ついさっき書いたのにまた書くとかいう暇人ぶり。自慢にならぬ!

それはさておき。先ほどの記事で「今まで書いてきたことが本当なのかわからない」と述べた。

先月にTwitterを始める前から、新型コロナの話を色々見て回ってきたが、まあ、多く見てきたのは「新型コロナは嘘だ」とかそっちの方面ではあった。

じゃあどういう立場なのか?というと、どっちも本当かもね、とはぐらかすことにする。

お互いがお互いをデマ呼ばわりしているような見苦しいのもあれば、証拠立てて話しているのにまったく取り合わないというようなのもある。ま、このことに限った話ではないが、怪しげな証拠で騒いでいるなと思えるのは、所謂陰謀論の立場の方かなとは思う。

何故こういう風に語るのかというと、既存の科学や常識が一片の疑いもないようなものの場合、「新型コロナは危険」というのは間違いがなくなる。もちろん、その逆では「新型コロナは嘘」となる。しばらく前に紹介した風刺漫画の如くである。

スピ系と呼ばれる方面では、現代世界は「二極化」が進んでおり、光と闇がどうこうと騒いでいる。今は光が闇を駆逐しているのだ!とやっている。
その動きが本当かは判断しかねるが、言ってしまえばテレビドラマの水戸黄門だとか暴れん坊将軍の悪役が斬られるシーンに差し掛かっているというわけだ。

ぱっと思いついた例えではあったが、丁度良い。

オカルトの言だが、「闇は光の量の違いでしかない」という。

光と闇という区分なんぞ、そもそもなかったというわけである。闇の正体は光だったと。

ドラマで斬られる役の俳優と斬る側の主人公の役者は、撮影や舞台以外でまでそうなるか?そうはならない。
人気が出すぎて、悪役が板についた俳優の子供がそれでいじめられた、などという話はあるが。

つまり、ただの配役に過ぎないのだが、真に迫っていたりすると、視聴者が真に受けてしまったりするわけだ。

コロナが嘘だというのも、危険だというのも、どちらもいわばテレビドラマの脚本通りなのだろうと。

実際に死んでいる人がいるのにけしからん!とお叱りを受けるところだが、内実はともかく、死んでいる人は実際にいる。

それも含めて、我々は脚本通りに動いているだけなのかもしれないなと考えるわけである。言葉遣いは違うが、こういう話は受け売りみたいなものである。


さて。話は代わるが、所謂陰謀論で、「天皇は酷い奴だ!」という言説がある。

二次大戦終了時に、時の昭和天皇がGHQのマッカーサー元帥と対談した際に、その時に語った内容がアメリカの機密文書の期限切れで公開され、それが出版された、のかは忘れたが、その時に話していたという内容がある。

曰く「日本人は頭が空っぽだ」と。よく陰謀論者の間で広まっていた。

酷い!と思われるが、実際はこうである。

曰く「日本人は主体性に欠けるところがあり、上からの命令に従いがちで、民主主義的風土が育ちにくい云々」

と、こういう感じの冷静な分析を、日米との比較を交えつつマッカーサー元帥に伝えていた。細かいところは忘れたが、アメリカに見習いたいところだという風に続けて語っていたように覚えている。

思い切り歪曲すれば、「頭が空っぽ」と言えなくもない。~に欠けると言われれば、その分の頭の中身が足りていないと言えなくもないからである。

それを所謂陰謀論者というのが上記の如く誇張して広めていた、というのがあった。
まあ、人のことは言えないが、この件については、見たすぐ後に知って訂正をした覚えがある。

あとは昭和天皇は当時英国から陸軍大佐だかの称号貰ってるからグルだ!というのがあった。ガーター勲章もだったか。
ガーター勲章については、明治天皇も大正天皇も拝領している。この大佐だかの称号は、儀礼的なもので、昭和天皇だけの特別ではない。第二次世界大戦開始時には、ガーター勲章もだったか、英国王室に一時返還している。

だからといって、グルでない証拠にはならない!というのが陰謀論だが、仮にグルだったからといって悪いかどうかはまた別である。納得できない部分があるだろうが。


「あ、そう」というのが昭和天皇の口癖だが、こうだけ書くと素っ気なく聞こえる。

気になっていたので後年、その口癖が写っている映像を見てみると、「あぁ、そう」という具合だった。
その映像は、戦争で親を亡くした子供がしゃべっているのに相槌を打って「あぁ、そう。あぁ、そう」とやっていたものである。

この世に完全な善も悪もない!とは言わんが、過ぎたるは猶及ばざるが如しというし、大賢は大愚の如しともいう。

拙は昭和天皇のエピソードで一つ好きな話がある。実家の和歌山が生んだ大学者、南方熊楠との話である。

ある時、南方熊楠が天皇陛下に研究標本を差し上げて、講義するというのがあった。後で調べたら、ご進講とご新献という。
昭和天皇は和歌山は田辺の沖に浮かぶ、神島(かしま)に行幸された。
なんと、その時南方は標本を大きなキャラメルの箱に入れたのを献上したそうな。

その後は南方の講義となるのだが、昭和天皇は予定の時間を過ぎても聞いていたそうな。

昭和天皇は生物学者でもあり、それでこの話になったというが、南方が感激するのは当然として、実は憧れの学者に会えたと昭和天皇も感激していたのかもしれないな、などと思う。

と、話が長くなってしまった。

なんにせよ権力者と言われるような立場の人物は何かと言われる。
実際にそういう点があるのかもしれないし、本当に悪人と呼ばれるようなことをしていたのかもしれない。

だが、憧れの学者に会ってプレゼント貰って予定の時間を越えても講義を聞いてたとかいうのなら、大悪党と断罪するのもバカバカしくなる。

少なくとも、正義感に憑りつかれて発言を歪曲する人よりは、遥かに人間らしい。

天皇が善人か悪人かであるかという単純な話でもない。
所謂陰謀論では(全部かはわからないが)天皇は悪党というのが常識ではある。
一般的には新型コロナは危険で、ワクチン接種が必要だというのも常識である。
常識というのはつまり、ある一定範囲内においての多数が善と認めるものということになる。
人が生きるのは善で死ぬのは悪。大雑把な言い方だが、これもまた常識といえる。
コロナ危険という方も反コロナという方も、その点では共通している。これも全部かはわからないが。

さて。その個人や集団が生きるのは善か悪か?生き延びた場合は問答無用で善たり得るか?
そのような思索は常識ではなしえないので、「歴史が決める」としか言えないと述べておく。

ふと、ニーチェの著作に『善悪の彼岸』というのがあったなと思い出したところで終わる。

では、よき終末を。


話すは放す

2021-06-02 | 雑記
たまに読んでいた引き寄せの法則のブログを、しばらくぶりに読んでみた。

中川翔子がデビュー時は売れず、他のアイドルの真似をして、ケーキを作ったこともないのにケーキ作りが趣味です、などとプロフィールに書いていた、などとあったものである。

それで半ばやけになって、元からのオタク趣味を全快にしていったら、あれよあれよと売れていったという話が書かれていた。やけになったわけではないが、自分らしく行こうと。

そうか。自分らしくか。というわけで、Twitterの方にブログのリンクを貼っておいた。余りフォローしてもされてもないが。
ツイッターのアドレスは@Himagineatpである。
一時期自己紹介の所に書いてあった、「Imagine」の替え歌が元ネタ。

そこで自分らしくってなんだ?と数日前から夜も眠れなくなるほど悩んでいたところ、やはりわからない。

昔やっていたゲームの実況プレイ動画か?と思ったが、そうとも言い切れない気がする。

自分らしくというのがわからない、という人は多い。上記のブログの人物のセッションとやらでもよくあると、昔読んだように思う。


自慢にしか聞こえないが、人と話すと「物知りで話が上手い」と言われることがよくあった。
具体的な指摘だと、「例え話だとかで分かり易く話す」と。ブログと大違いである。

そんな拙だが、かつて、ゲームの実況プレイ動画を始めた時、緊張するからと少々酒を呑んでから取り掛かる、という状態であった。思えば、ブログの初投稿もそうだったように思う。
要するに、人見知りで怖がりなところがある。

酒は人の本性を現すとはいう。人の本性とはいうが、そういうものはいくつかある側面の一つなので、必ずしも乱暴だけになるわけでもないのだろう。
と、そういう話はどうでもよくて、飲むと大体喋っていることが多い。

今はよくわからんが、かつては流行り言葉でいう「陰キャ」であったといえる。

話そうと思ってもどう話したらいいか分からない、相手にどう思われるか、といった不安がその人をその人らしく話させることが出来ない原因だったりするが、そういう具合だったのだと思われる。

というわけで、拙は人とおしゃべりしたかっただけだったのだろうと。対面による話が一番として、ゲームの実況プレイ動画でしゃべってそれにコメントが来る。それにまた対応してと。リアルタイムではないが、おしゃべりだったと。


正直言って、この世の中が北斗の拳みたいな荒廃した世界になろうがなるまいが、関係ないのかもしれない。

ここで今まで書いてきたような話が完全に疑いのないようなことなのかも、実際は分からない。

実際にそんな世界になるかどうかはその時まで分からない。それまでは仮説に推論で、つまりは情報である。

知行合一というのだったか、知識は行動に基づいてこそ本物になるというのが仏教にあるようだ。
頭に仕入れた知識というのは、それだけでは情報(知と呼ぶ)でしかなく、使いこなし(識と呼ぶ)て、初めて「知識」だという話も昔聞いたものである。この話は筋トレなどで例えている話を先日読んだものである。

話が横道にそれた。


拙は、情報はおしゃべりの手段でしかなかった(というと語弊があるが)のに、目的にしていたのだろうと。


世の中がよくなるに越したことはない。寧ろ望んでいる。

しかし、情報に翻弄されて、挙句の果てに目的になっているとしたら、楽しくなんかないだろう。楽しくおしゃべりも出来まい。それでは、よくなるものもよくなるまい。

未だ来たざるものが来れりとしても、それはそれで問題ない。それが良きにつけ悪しきにつけ。

この世全てを作り上げている「情報」は、どこまでいっても手段でしかないのだから。

というわけで、これからもよくわからない話を続けていくつもりである。


では、よき終末を。


帰ってきた丑の刻参り

2021-05-30 | 雑記
共産党宣言、じゃなくて緊急事態宣言がまた延長に、という発表が先日あった。

そして先ほど見かけたのが、「最後の延長」と。

じゃあ次は「帰ってきた延長」とか「延長よ永遠なれ」とか言い出すかもしれぬ。というのは冗談だが、とある映画シリーズだとかにそんなタイトルのがあった覚えがあったりする。バ〇トマンだとか。ウル〇ラマンも「帰ってきた」はあったが、こっちの方が馴染み深いか。

本当にそんなことを言って延長してきたら、この世は映画を見ているような状態というのが定着してしまうな、というのもまた冗談ではある。が、その話をまたやろうというわけではない。


Twitter発の小説とか漫画がちょくちょく書籍化されて話題に上るというのがある。いや、反対か。

最近では、件の緊急事態宣言に関わる感染症についての4コマ漫画が話題になり、そして出版された。

『コロナは概念』というタイトルで、風刺漫画である。以前からWeb上で見ていたもので、中々に考えさせてくれる上に笑える。ものによっては笑えるが、ため息が出そうな話もある。冗談で描いているようなことが現実になってるなという具合である。別に暗い話でもないし、気が向いたらどうぞ。

さて。何故「コロナは概念」としているのか?新型コロナウイルスの存在が確認されていないからだと。

その根拠になる話はある。都や厚生労働省に開示請求したら、「存在を示す論文を保持していない」と書かれていただとか、その書類の写真だとかが出回っている。

後は、以前にもここで取り上げた、徳島大学の名誉教授の大橋眞氏の、「コッホの四原則」のどれにもかかっていないという指摘もある。

ただ、コッホの四原則は古典レベルの話ではある。二百年近く前だったか?

こちらも専門家でもなんでもないので、詳しいことは書けないが、近ごろはウイルスの全長が分かればそれで特定できるとのことで、その長さの違いで人由来かそうでないかを調べるということを行っており、コッホの四原則はそれほど重視されていないという。

となると、一応存在するということになる。では、何故厚生労働省だとかに存在を示す論文がないのか?と思われるだろうが、上記からすれば、特定は出来ているが論文は書いていないから文書を保持出来ていない、ということになるのだろう。

ではやはり、危険なのだな、と思うかどうかはまた別ではある。ただ、一つだけ例を書いておく。実は人の話の丸パクリだ!
沖縄の最近までの死亡者数を日にちで割ると、一日辺り0.3人ほどの割合で、やはり高齢者が多いという。
ちなみに沖縄の感染者やら死亡者数は日本でワースト2位だとか言っていた気がする。ちょくちょく、緊急事態をやっていた覚えがおありかと思われるが、中身はそんな状態だといえる。


感染症というのは、パスツールが発表した病菌原因説が根拠として現代にいたるのだが、これが実は他の学者の説を使っただけでなく、パスツール自身は検証もしていないという話もあるそうな。
パスツール自身は晩年、反対意見の同僚と死の間際まで続けた討論の最後に自説を撤回した、というのは以前にも書いた。つまりは仮説のまま、定説のように扱われていたという可能性がある。

「コロナは概念」どころか、「感染症は概念」とすら言えなくもない。病は氣から。

凡そ病気と呼ばれるものが全て感染しないとは思えないが、常識とされていることは、ただの思い込みや盲信ではないかと考えてみる必要があるだろう。

人体実験になるので誰も試すことは恐らく出来ないが、ガン細胞を患者から取り出して他人に移植すると、恐らくガンになるとして、それでもガンは感染症、とはならない。

狂犬病の犬に噛まれたりで、その体液が体に侵入し、狂犬病に罹患する。これは感染症となる。

ふと思ったが、ガンの患者に噛まれたら、ガンになったりしないだろうか?まあ、これはただの空想である。
もしそうなったら、ガンも感染症となるのだろうか。

しかし、鬱病が伝染するというような例がある。飽くまで感染症という意味ではないが、鬱病の人と親身に接している人が、鬱病になってしまったという話は何かで聞いたものである。

これも以前書いたが、野口晴哉は、風邪を経過させる(身体の正常な反応なので治すとは言わない)時には、リラックスして静かにするため、子供が近づかないように、うつりはしないが「うつるから寝てる部屋へは入らないように」と言っておく、と述べていた。

感染症の原因とされているウイルスは、実は病的症状を起こした細胞からの排出物ではないか、という説も実際にある。エクソソームという名称だそうな。

つまり、ウイルスがあるから病気になったのではなく、病気になったからウイルスが出てきたと。

そうだとすると、ウイルス兵器は意味があるのか?と思えてくる。


ここからは拙の本領発揮である!というのは冗談だが、以前にも同じことは書いた。

『金枝篇』という人類学の古典がある。その中で紹介されているものに、「共感呪術」という概念がある。ちなみに検索をかけてみたら、大枠が「共感呪術」でそのうちに「感染呪術」と「類感呪術」があったが、「共感呪術」で書いていく。

とある部族の呪術で、呪いたい相手の影に木の枝だとかを刺す。足に刺したら動けなくなるだとか、胸に刺したら心臓発作で死んだりすると信じられている。

日本で例えるなら、「丑の刻参り」だろう。藁人形に相手の体の一部を仕込んで、神社の御神木の幹に五寸釘で打ち止めると、相手を呪い殺せるという奴である。

影や相手の体の一部(毛髪など)は、言ってしまえばその相手そのものではない。だが、効力があるとされてきた。

ウイルスがエクソソームだとするならば、ウイルス兵器はまるで共感呪術ではないか?と書いた訳である。

対象を苦しめるために熱心にウイルスを弄繰り回すわけで、丑の刻参りのようだと。

なお、詳細は不明だが、未だかつてウイルスや細菌が病気の原因だと特定された事例がない、という話もある。流言飛語の可能性もあるが、とりあえず。


とある迷信がその地域で何故信じられてきたかというと、その地域では事実だという共通認識を持っているからだというのがある。こういうものも共感呪術と呼ぶのかどうかは分からないが、通じるものがある。

ウイルス兵器が共感呪術だとすれば、現代社会は・・・。これ以上はご想像にお任せする。

「コロナは概念」から「感染症は概念」と上記でもじってみた。なら、「呪術は概念」となるか。

上述したものからもお分かりかと思うが、「呪術は概念」というのは一般的に理解されているところである。言い換えれば、呪術は迷信と。
しかし、実際のところは「概念は呪術」である。

「病は氣から」の別解といえなくもない。狂った概念は氣を侵し、それにつれて心身を病むに至るからである。

では、よき終末を。


今日も拙拙と

2021-05-23 | 雑記
先日、Twitterのアカウントを開設したと書いた。特にここのリンクを貼ったりはしていない。

勢いで開いたもので、何をしたものかと途方に暮れているので、ここと同じくらいの妙な話をちょっと書いたぐらいである。

というわけで、今朝、Twitterに書いた話でも書いておく。


半ば冗談でこのブログ内の自称を「拙(せつ)」とやってきた。とあるゲームの忍者キャラの自称らしいが、本当かまでは確かめていなかった。
武士なら「拙者」というのは時代劇などのイメージで広まっている。僧侶なら「拙僧(せっそう)」というのもあるし、現代でも自著のことを示す際に「拙著(せっちょ)」と言ったり、自身に纏わることを人に伝える時にへりくだって使う言葉である。

さて先日。漫画の『美味しんぼ』を見ていたら、アメリカ人の落語家というキャラが「拙」と自称していた。

故なき言葉ではなかったのだなと安心したものである。別に不安だったわけでもないが。

しかし妙ではある。『忍者ハットリくん』の自称は拙者。そして前述のゲームの忍者キャラは拙。
以前にも書いたが、実は古文書に「拙者」と書かれていても「せっしゃ」と読まなかったのではないか?と推測したものである。

かつて、江戸時代の終わりまでは、文章を書くときは漢文調というのが日本の決まりだった。

もっと時代を遡れば、朝廷の公式文書は漢文だったりする。江戸の時代も漢籍は必須科目であったから、武士同士がやり取りする手紙も漢文調と相成る。

勿論、中国語で読んでいたわけではなく、現代の学校でも習ったことのある人は思い浮かぶであろう、「訓読」をするわけである。レ点だとかを着けて行きつ戻りつする読み方である。

拙者という言葉が漢籍にあるのかどうかまでは知らないが、この訓読で実は~者と書いてあるのを「~ハ」と訓読する例がいくつかある。まあ、見た覚えがあるという程度で、具体例は挙げられないが。

学者だとか賢者といった言葉は、この「者」がついてようやく人を指す言葉かのように思われる。
実際にそういう風に定着しているわけで、別にこれを否定しようという話ではない。
とはいえ、「大賢は大愚に似たり」という言葉があるが、「者」はないのにどちらも人を指している。

日本語の漢字言葉の癖というのか、同じ意味を重ねるというのがある。漢語的だとありがたく聞こえるからだという風に、文学者の高島俊男氏がかつて書いていた気がする。

例えば、「皮膚」というのは、どちらの字も実際は「かわ」を指す。

かわ科、では極まりが悪いので、皮膚となっていると。同じ意味の漢字を並べているというのは枚挙に暇がなく、趣旨とは違うのでここまでとする。

拙何某と漢文調で書かれていたとしたら、別に意味が通じないわけではない。そもそも中国語でもない。

分かりにくいだろうから、英語に置き換えると変だというのがわかる。 I am 何某となるところが、I 何某となって片言になるのである。

翻って、上述した「~者」を訓読の際に「~ハ」としていた例があるというのを思い出していただく。

丁度、英語でいう is や am に当たるのである。

拙者何某を訓読するならば、「拙ハ何某」となる。申、だとかくっ付けたりしてあれば、「拙ハ何某ト申ス」となるわけだ。


さて。そうなると「拙僧」だとかどうなるのか?そういう疑問が沸く。

わざわざ「私は何某という僧侶です」などと名乗らなければならない状況というのは、日常的とは言えない。

僧侶然とした格好で相手も僧侶だと判っている状態で「わたしは僧侶です」と名乗るのは奇妙である。

ただし、武士に向かって手紙を書く際には、「拙僧」と書いたであろう。知己でもない相手に送るなら、身分を伝える必要があるだろうから。

「拙僧」があるなら、「拙士」とか「拙侍」という風な言い方があってもおかしくないが、そういう言葉があるかはわからない。

ただし、江戸時代は武士の時代である。大小二本を腰に差していれば、誰が見ても武士だと判るわけで、武士が武士に手紙を書くときに「拙侍」のような言葉を使うというのも考えにくい。

かようなわけで、「拙者」というのは別に侍だけの言葉ではなかったのではなかろうかと。

拙僧何某なら、「拙ハ何某トイウ僧」となる。ハが勝手に入って来たのは訓読にはよくある奴ということで。
もしくは拙僧者何某か。

とはいえ、拙者も拙僧も、一々こう読んでいたら七面倒くさい。定型文化し、そして口語化していったものと思われる。

「拙者」における拙と者、「拙僧」における拙と僧は、文脈毎にだが、同じことを指しているわけで、上記した「皮膚」の例と同じ具合といえる。


本当は武士は「セッシャ」と言わなかったのではなかろうか?という辺りから考えていたのだが、「拙者」を多用する武士は「セッシャ」、「拙僧」を多用する僧侶は「セッソウ」と訓読ではなく音読したものを口語で使うようになったのだろうと。

長々と書いたが、拙者は「わたしは~といいます」で、拙僧は「わたしは~という僧です」の略した読み方だったのだというわけである。


なんだろうこれは。何かのレポートか?ともかく、以上である。


では、よき終末を。


諦めぬいてDistiny

2021-05-17 | 雑記
死ぬほど暇になって、そろそろ死んでしまうかもしれないと疑ってみたりしている今日この頃、十年越しにTwitterなるもののアカウントを取得してみた。

死ぬほど暇なのは昔からといえなくもないが、追撃を食らったのである。とはいえ、望んだ通りかもしれない。

それはさておき。

拙はよく、酒を食らいながらオンラインゲームをしていたものである。

先々月ほど前に、久しぶりに勢いでログインして喋っていたら、「ログがにぎやかになっている」などと言われる始末。

普段は閑散としたチャットログなのかと否が応でも感じるところだが、氣にしてはいけない。

そんな拙はちょくちょく、文字チャットなのに歌っていることがある。替え歌することが多いが、親父ギャグと言われるようなノリだと思ってくれれば結構。


というわけで、さっきTwitterに書いた替え歌をここで改めて披露する。


街を包む PCRtest
誇大な distance 動き出せば
それは紛れもなくヤツさ

コロナ Leaving me blue
コロナ Missing you true
コロナ Only few memories after you

背中にまといつく翳りは
コノヨという名の ものがたり
許されるはずもない Peace & Love

はい!

はい!は歌詞にはない。終わりの合いの手という奴なので無視してもらう。Twitterにもない。

寝ようとしたけど眠れないからネタを考えていたら不意に思いついて動いてしまった。反省しようはない。


この元の歌は何よ?と聞いてくる人はいるかは分からないが、まあ有名どころである。ヒュー!

気が向いたらTwitterのアカウントを貼っておこうかと思うが、何せ酔った勢いで開設したもので、どうするかはまったくもって未定である。

かなり前からブログはオワコンとか言われている。そのうちSNSもオワコンで、これからはテレパシーだ!とか言われかねないが、拙は年寄りからしたら若いが子供からしたら年寄りという、どうしようもない立ち位置である。
とはいえ、そもそもそういう具合で生きてきたので、それでいいのかもしれない。

というわけで一つ小咄を。

一休さんとして親しまれているアニメがある。小坊主が主人公のアニメであるが、一休という名の僧侶が実際にいたという。

そんな一休さんは、修行を頑張って見たけどこんな中途半端な自分じゃ悟りを開くなんて無理だ!一休みします!と住職に伝えた。

すると住職は「でかした!それこそが悟りぢゃ!お主はこれから一休と名乗るがよい」と言われたという。


この前の記事に「SNS断ち」という話を書いたものだが、別にそれだけではない。その個別例をあげつらうのは浮世離れしてるように思われるしそんな氣もする拙には大変だし挙げ切ると世、じゃなくて夜が明ける。

上述の一休宗純(一休さんの元ネタの実在僧侶)の話を聞いて、「ああ、そういうことか」と思って頂ければ幸甚である。


思えば、釈迦も苦行をやり続けてもう無理だと諦めたら悟りを開いたという風に仏典にある。

諦めないで諦めるという矛盾した言葉が思い浮かびそうだが、この諦めるという言葉は、元は違う。

現代では放り出すというような意味で使われているが、「明らかにする」という意味だったそうな。

上記の二つから照らし合わせて書くならば、「これ以上の苦行は無意味だ」と「明らかにした」となるのである。

その結果部分だけみて、諦めるは放り出すという意味に使われているのだろうと思われる。

だからあなたも諦めぬいて!とかいうと怒られるなこれ。

とはいえ、諦める前に諦めるのは、人の性だがちょくちょくある。

だからあなたも諦めぬいて!先っちょだけだから!とか下ネタをつい書いてしまったのは、飲み過ぎたせいである。

思えば、一休宗純は飲み過ぎで渇水病、今でいう糖尿病にかかっていたと言われている。

そうとはいうものの、人には既に諦めざることがある。

嫌でも死ぬ。悟りを開いたという釈迦も死んでいる。


人の身は有限である。釈迦は施された食べ物で死に、一休は酒の飲み過ぎで病んで恐らくそれで死んだ。

これが毒だあれが薬だと選り好みするのは、悟りから離れた姿ではあるまいか?
実際に釈迦の時代からの托鉢(托鉢自体は別宗派からあったようだが、詳細は忘れた)は、条件はあるものの、肉を托鉢されても断らずに食べていた。


薬を飲もうが毒を食らおうが、人の身はいずれから滅ぶ。

人の身が全てだと思いなすのならば、それは一つの悟りと言える。そこからすれば死は無意味であるが、その先を見ようとも考えようともしないのは悟りたり得るだろうか?

その先があるのかないのか「諦める」ために、拙は酒を食らっているのである。

この言い方は語弊があるのでもう一つ言っておくが、釈迦が弟子に向かって言っていたことはこうである。

「死後の世界があるかどうかを考えるのではなく、今をしっかり生きなさい」と。


人類が意識というものを持ってから、このような問いかけは幾多も行われてきたのであろう。

しかし、これらを現代社会で例えると、「オンラインゲームの状態」と例えるのが実にしっくりくるというのは、分かり易くていいのか卑俗になったと悲しむべきかは何とも言えない。

仏教の思想が量子力学と親和性があるとかいう話もあった気がするが、紀元前のインドと現代では表現できる語彙の量が違うので、思ったほど恐ろしいことをしてばかりでもなかったのかもしれない。

昔の滝行の如き修行は、今だとジェットコースターのようなものだったのかもしれないなと。

などと妄言を述べ・・・。

そういえば仏教の戒律に妄言を吐くなというのがあったな。

だとすると、拙は成仏には程遠いというわけである。


では、よき終末を。


3密加持

2021-05-16 | 雑記
ちょうど一週間前のこと。

家のすぐ近くの池のある公園に行った。天気が良かったので少し日光浴がてら本でも読もうと思ったのである。

池の淵まで降りられるようになっていて、そこには御影石が正方形に切り出されたものが置かれており、天面は磨き上げられている。

公園は小さいので池の脇に生えている大樹に遮られた部分以外はすぐ視界に入るほどの小ささゆえ、公園に入った瞬間から、池を上から一望できる欄干に二人ほど人がいて、一人はカメラを構えているのが見えた。

何かと思い、その視線の先を辿ると、去年から住み着いていると思しき鴨を追っている。

そして鴨の周りには黄色がかった小さいのが十ほどだか纏わりついていたのである。


とまあ、要するに近所の池の鴨がヒナを産んだという話である。


しかし、次の日。整備業者が公園の周囲の草刈りだとかをして休憩しているのを尻目に池を覗き込むと、親鴨しかいなかった。

以来、子鴨たちの行方はしれない。

先日、京都の寺の池でも鴨が子供を産んだので鴨川に引っ越しさせたとかいうニュースがあった。

段ボールで誘導しました、という話とその写真が掲載されていたものだが、鴨の雛を見たその次の日、上述の雛が居なくなっていた日だが、池に段ボールが水没していたことを思い出したものである。

とはいえ、親だけいるのもおかしいので、雛たちは(いろいろな意味で)隔離されているのだろう。
それは隔離とは言わないのでは?といった辺りのことは各人のご想像にお任せする。


さて。いささか話題が古いが、以前、とある医師が新型なんとかの話でこういうことを述べていたという。これは先月の話だったかと思う。

曰く「1密、2密でも感染する恐れがあるので、一人の時でもマスクをするのが望ましい」云々と。

今はしらないが、例えばアメリカのある州では、家でも常にマスク着用を義務付けるという話が出ていたもので、特に目新しい話ではない。

それはともかくとして、この1密だとか2密だとか何を言っているのだ?と揶揄されていたのを見かけたものである。

実際におかしい。何がおかしいのか?


3密を避けよ、と去年からやかましく言われてきたわけだが、3密3密と繰り返されたが故に、言っている方も聞いている方も混乱している。

そもそも内容空疎なキャッチコピーなわけで、中身などどうでもよく、「お題目」という奴ではある。

一応内容を振り返ると、密集、密閉、密接の3種を避けよと。

人ごみと締め切った部屋と人と近距離で喋る状況となる。

余談だが、3密は分かりにくいから集、近、閉と並べてシューキンペイにしよう!というネタがあった。発生元の国のトップに準えてである。然る物理学者がそんなネタを書いていた。

これらを纏めて3密と言っていたわけだが、元々、それぞれの状況が感染を広める可能性があるから避けよという話ではなかったか?ということである。

密が三つそろって役になる。花札の猪鹿蝶やらスロットで当たり目が出るかの如くという話だったのかと。

1密2密などと日本語がおかしいぞと笑っていたのだが、そもそも3密自体がおかしい。おかしいけどおかしくはないのだが、まるで密が常に3個セットになっているかのように認識していることがおかしかったのである。今なら3個セットでお得!

その医者も一々3密に準えて喋るからバカバカしくなるのだが、密が常に3種そろっているかの如く思ってしまうのもまた、乗せられて来た故なのである。

これが上記の集近閉なら、件の医師も「集だけでも近閉だけでも感染の恐れがあるので云々」と。言わんとするところは変わらない。元々ハッピーセットならぬ3個セットだという先入観で話しているし聞いてきたからである。もっと伝わりやすくなったかはわからないが、日本語読みとはいえ某国の元首の名前を連呼するのも如何なものかと思われる。寝ても覚めても集近閉!

密にかけて以前、三密加持について書いたものである。内容を改めて書くことはしないが、仏教及び密教において、三種の密をしっかり制御しなさいという意味である。無論、どれか一つでもないがしろにしてはいけない。
相撲では心技体というのがある。これらが揃ってこそ真の関取なのだという風な話があるが、それと似ている。

三という数は洋の東西を問わず、重要視される。キリスト教然り。仏教然り。

3密のように3種の大事なものを上記の両方とも掲げていて、そのどれもをないがしろにしてはならないと言っている。

と、世の中そういう風に教育されてきたので、3密などと言われると、セットになっているのだと思いがちなのである。


とはいえ。三密加持ならぬ3密回避もまったく無意味とは言わない。

いわゆる科学的な話ではなくなるが、そもそも人の体調が悪くなるというのはどういうものか?である。

楽しそうに過ごしている人の近くにいると、なんだか楽しくなる、というのを聞いたり体験したりしたことがあるだろう。
そして、また逆も然り。機嫌の悪い人に近づくと、部屋の空氣が重いだとか言ったり言われたりする。

人というのは、菌だとかウイルスという目に見える(現代科学において物理的に見えるという意味での)ものだけではなく、目に見えていないものに左右される。


古来より、大都市で疫病が流行ることがあった。理由として挙げられるのは、人口密集による公衆衛生の悪化と言われている。後は飢饉や貧困が追い打ちをかける。

身も蓋もない言い方をすれば、汚らしくゴミゴミしている所はみな、嫌な氣分で過ごすことになりかねない。

そこまではまだ良かったとしても、飢饉や戦乱などによる治安の悪化が重なれば、嫌な氣分で過ごす人はさらに増える。嫌な氣分の度合いも上がろう。

そこで何か流行り病が出たとなれば、僕も私も!となっていく可能性は高い。流行り病だと言われたから流行った、となる。
江戸時代に江戸の町で流行った脚気は、「江戸の流行り病」と言われた。田舎に戻ると治ってしまうというのも、それを裏付ける話となっていたものである。明治時代においても日本の陸軍は「細菌による伝染病」と言っていた。実際は偏った食事による栄養不足が原因と分かったのは大正時代に入ってからである。

鬱病の人と親しく付き合い続けると、鬱病がうつったかのようになるという話がある。特に家族だとか親しい間柄で起こるという。鬱病はウイルス性の感染症ではないのにである。

世にある感染症と呼ばれるものを全て否定出来る根拠は持ち合わせていないが、当時の西洋医学も深く勉強したという野口晴哉は、身近な感染症の代表格であるはずの風邪について「風邪はうつらない」と『整体入門』だったか『風邪の効用』で言っていたものである。


病は氣からという。ウイルスや細菌は顕微鏡で見えるが、氣に至っては存在証明が不可能である。例のアレもされたのかどうかはよくわからないが。

目に見えない恐怖!などというが、そもそも目に見えない何かに動かされているのが人間である。

顕微鏡では菌やウイルスは見えるのだから、見えるものは信じられて怖くないはず。

それならば、目に見えず信じられない氣を怖がって3密を回避するのがもっともだと言える。それは信じてないか?と突っ込まれそうだが、氣にしないでもらう。


病んだ氣には迂闊に近寄らない。これが3密回避の本質であり、マスク着用の有無を確認する以上に機敏に察知できる(はず)の日本人が得意とする氣についての感覚があればこそである!
と、高らかにぶち上げてみたが、冗談染みてはいるが冗談だけでもない。

だがそんなものわからないと、そう言われるだろうから、取りあえずお伝えしておく。

よくあるリフレッシュ法として言われているものの内に、「SNS断ち」というのがある。

別に金輪際するな!というものではないが、時折、テレビや新聞なども含めた外部情報媒体に触れることを一時的に止めるという奴である。普段から滅多に触ってないとかいうレベルの人は氣にしなくてもよいが、毎日テレビを見ているなら、それも止める。
例えば土日の休みに行うだとか、月一で旅行に出かけるとかいう人なら、その時に行うといった具合に。


そうすると、手持無沙汰になってしまって、何か焦ってくる。スマホをいじろうとしたり、PCの電源を入れようとしたりするだろう。

そういうのを無視して、例えばゴロゴロするとか散歩に行くだとか、こうしてみようと思ったことをするのである。

そうしてしばらく過ごした後、顔本だとか青い鳥の奴とかを開いてみる。

すると、楽しくやっていたと思っていたのに、実は何か追われていたかのような感覚だったことに氣付いたりするという。面白いと思っているわけでもないのに何となくしてしまう、というのも同じである。

そういう、何かに氣付くというのが文字通りでおかしいが、氣付きである。氣が付くのである。

というわけで、そんな感覚がないわけではなく、普段は離れてしまっているのが現代社会なのだと言える。氣付くの反対で、氣離れとでも呼ぼうか。まあ、氣を逸らしてるというのだろうが。

氣だとかなんだを常に意識しなくてもいいが、階段をのぼる時にたまには一段飛ばしをしてみようか、ぐらいの感覚でよろしかろうと。


金は天下の回り物という。氣は宇宙の回り物とでも言えそうだが、その回り物は自身にもある。ある、という言い方は語弊のあるところだが、それはともかくとして、己自身に氣が付かないのならば、世の中にも氣が付けなくなるのは道理なのだと。


目に見えるとされていることは本当は見えなくて、目に見えないとされていることが実は見えていることなのかもしれない。


では、よき終末を。


転がる先の杖

2021-03-29 | 雑記
先日、対立する意見の両方を読んでいた。

いわゆる陰謀論という事柄ではある。しばらく前にも、ヤフーニュースだかで「陰謀論」と見出しに出てきたりで、話題になっている。

どのような話を耳にしたのかというと、いわゆる陰謀論というのが広まったのは、その陰謀論で指摘されている支配層が広めたからだという話であった。

陰謀とは陰で謀ると書く。目立たないように見つからないようにするから陰謀であって、広まったら陰謀とは言えない。
外交機密というものがあるが、脅されたりで外国、つまりはお互い仮想敵国なわけだが、その相手方に渡しかねない状態になった時にどうするかというと、公開してしまうというのがある。外交員だとかの命も守るためにである。
機密として手に入れるから効果が高いのであって、周知の事実としてしまっては意味が無くなるのである。本当に漏れてしまうと国がひっくり返るようなものは、末端には渡さないものである。

陰謀を陰謀論として広めるとどうなるか?知った人々の具合によって、二分されることが想定される。

陰謀論と書いたが、「兵法」を想像して貰えば早いかもしれない。

隣り合ったAとBという国があり、お互いの領土を奪おうと常々狙っているとしよう。

AがBに対してこういう話をばら撒く。諜報員を使ってB国内で吹聴させるのである。
「A国は飢饉で国がガタガタだ」といった具合の「機密情報」を流させる。他にも「政変があって統率がとれなくなっている」だとか、そういう具合である。無論、それ自体は嘘である。
そしてB国はそれに乗ってA国を攻めに国境を越えてみたら、満を持して待機していたA国に主力を撃滅され、B国は国防もままならずに併呑される、といった具合である。


よく陰謀論界隈で取りざたされる言葉に「工作員」というのがある。諜報員は工作員の一種となる。

大体の使い方は、いわゆる陰謀論を論破してくる相手に向かって「工作員」と罵ることが多いように見受けられる。

「工作員」と呼ばれた方はどういうことを言っていたかというと、上記の通りに論破することと、陰謀論に嵌ることで国内感情が分断されることになるという指摘をしていることが多いようである。

さて、工作するにはどこが一番か?上記の例を改めて見てもらうと分かり易いだろう。

A国人がB国人の振りをして嘘を流す、というのが効果的だったというのがお分かりかと思われる。
もしくはB国人を買収するという方法もあるが、過程は関係ない。
ついでに、「工作員」と罵られた人たちも同じことを指摘していたが、受け入れられなかったようである。

グループのリーダーを追い落とす際にも似たような手法が使える。

まずはその意見に同調し、どんどん盛り上げておく。そして最後の最後で登り切るであろう梯子を落としてしまうという訳だ。

こういう話は陰謀論界隈限定ではないが、陰謀論と呼ばれる話の中には、根拠薄弱な物や、証拠写真として提出されているものが合成であったりと、ネタには事欠かない。

スピ系だとか宇宙だとかになると、示された根拠を調べることすら普通では無理となる。

とはいえ、今まで定説だとされていたことが、ある実験や新史料の発見で覆されるということはある。


面白いことに、先ほどから書いてきた対立の話は、同じ結論を述べている。

それは「新しい時代になっている」であった。

新しい時代では嘘が通じなくなるので、嘘を付くと罰せられるぞ!とお互い言い合っているのである。

どちらが正しいかと?「正しい」という言葉の定義によるといえばよるが、どちらも正しいことには違いない。

先ほどのA国とB国に振り分けるなら、合成写真やら薄弱な根拠まで振りかざす陰謀論者をAとして、それにまともな論拠(でない可能性もあるが)で論破して諭しているのがBとする。大多数の人はBの内にいる。Aと直接関わることは少ない。

AはAで正しいと思っている。根拠がデマであったりすることがあるのは、「正しい」と思っているが故である。

BはBで正しい。現代社会で提示されている根拠を示して論破しているからである。これまでの現状に繋がる現代社会を「正しい」と思っているが故である。


個々人がどこまで認識し考えているかは計りようがないが、逸脱が多く見えるのはAとは言える。
Bについては、元Aだった人も多く、アレルギー反応の如くになっている人もいるだろう。かくいう拙もそういう具合で、AとBを行ったり来たりに近い。

このように分断されているというわけだが、これを軍事や政治方面に当てはめると、Bの状態に分類できる内で、これまでの現状にすがっている状態の人が大半だと、国防上、無防備な面が多くなる。例の風邪の注射の件なんかが顕著だろう。

反対にAのような現状打破を前面に打ち出すと、諸外国から袋叩きに遭う可能性が高くなる。例の注射の話で例えるなら、契約の内容はともかくとして、一方的に取引を破棄するのは問題となり得る。


日本は二本立てで動いているから日本(にほん)、というのを聞いたものである。

もしかしたら、この状態が「正しい」のかもしれないと思えてくる。


何故か?この世を支配している存在があるとして(陰謀論でいう略称D・Sではなく)、意見が対立しているほうが、状況に合わせて転がしやすくなるからである。転がすこと自体は既定路線なのだと。我々は生きているつもりで、転がっているだけなのかもしれない。

その転がった先がどういうものかは、正しく神のみぞ知る、といったところかと思われる。
転がっている最中は文字通り目まぐるしいだろうが、あれやこれやと目を配ると酔ってしまう。
車酔いを防ぐ方法として、一点を見続けること、というのがある。
土台、全景を目に焼き付けることなど不可能である。なれば一点に集中すべし、となる。
一点に集中していると、そのうち集まって全景になり得るかもしれない、などと考えるのも一興である。

情報だらけので車酔いの如くの時代なればこそ、「自身が何を求めているか」の一点を見据える。
そうすれば、デマの吹聴やらそれに乗せられることも、現状にすがるだけもなくなるのかもしれないが、人のことは言えないのでこの辺りで終わりとする。


では、よき終末を。


グノーシスはアザラシに神を見いだすか

2021-03-26 | 雑記
よく見ている動物の動画を紹介しているツイートがある。

大体、ペットの動画が多く、犬や猫が大半だが、他の動物のも紹介されているときもあった。

先日、寝る前に「そういえば、アザラシの動画見たことないな」などと思いながら寝て起きた次の日に、そのツイートを見ると、アザラシの動画が上がっていたという。

引き寄せか!?などと喧伝する気はないが、なんだか面白いなと思ったものである。

とはいえ、振り返ってみると、引き寄せの法則やらを見て回った時に聞いた話に近い流れだったなとは思う。

寝ながらなんとなく考える
    ↓
そのうち考えた事も忘れて眠りに落ちる
    ↓
起きたらびっくり

と、こういう具合である。


引き寄せの法則とやらで言われるこの流れをもう少し踏み込んで書くと、望みを叶えようとする時は、確かに強く願い続けて叶える、という方法もあるようだが、一度願ったら願ったことを忘れてしまう、というのがある。

それは何故かというと、願うということは対象が欠乏しているからというわけで、分かり易い言い方をすれば、「お金が欲しい」と望むとき、それはお金が足りないが故となる。
「お金が足りない」からお金が欲しいと願うことになり、結果、お金がないという願いが叶い続けるのだと説明されている。とはいえ、寝転がってて金が入ってくるというわけではないが。

上述のアザラシの動画の話の流れに当てはめると、こうなる。

アザラシの動画が見たい
   ↓
今は見ている状態ではない
   ↓
見たいと思い続ける
   ↓
見ている状態ではない、が継続
   ↓
いつまで経っても見られない、もしくは時間がひどくかかる

という風になるそうだ。

別に他のところで探せばいいだろうが!とお𠮟りを受けるところだが、一言書き忘れた。
その見ていたツイートでアザラシの動画が上がっているのを見たことがなかったな、が正確なところである。


しかし、海外の然るスピリチュアルの教祖みたいな人が急に辞めてキリスト教に入信し、今までやってきて広めてきたことはいけないことだ!とか言い出したという話があり、公式ブログの膨大な量のうち十二ほど箇条書きに翻訳したのを読んだものだが、「引き寄せはするな!」というのがあった。

翻訳して解説を付けていた人が冒頭で断っていたが、キリスト教に入信したが故の立場からの発言なので、全部真に受ける必要はないとしていた。そのリンクを貼って紹介していた人が「翻訳した人は何か困ったように書いている」と感想を述べていたものである。

きっとアザラシは悪魔なのだな。悪魔は魅力的である。
ついでに、上記のスピリチュアルの教祖は、「ハリーポッターは見るな!」と書いていた。

伝統的にキリスト教は魔術を弾圧してきたもので、大雑把に言えばキリスト教は「神」が人間の上にあって、人間は下僕であるとするが、魔術などのオカルトの教義はその逆とも言えることを提唱する。

グノーシスと言って、異端という意味合いの名称というか分類があり、キリスト教の萌芽時代にも宗派によっては「人は神になれる」ということを提唱していて、主流派から異端扱いを受けて隠れていったり消えていったという流れがあるという。

上記の元スピリチュアルの教祖のキリスト教的見解から行くと、東洋思想はまさにグノーシスになってしまうだろうが、現代社会で主流のキリスト教の宗派内でそういう歴史は習うことはないだろうとは思う。

そのキリスト教が実は弾圧していた魔術の技術を取り入れているなどと言われたら、どういう反応をするだろうか。別にお伝えしようとは思わないが、そのスピリチュアルの教祖の行動には別の意味があろうという見解もある。

何かにつけ、独創的でかつ革新的だったりする主張や行動様式を提唱する人物は教祖的な存在として祭り上げられることが多い。
歴史的に偉大な人物で容易に思い浮かぶのは、釈迦かと思われるが、流れは同じである。

以前にも書いたが、悟った釈迦はもう黙っていよう、人には伝わらないからと考えたが、帝釈天に頼まれて(当人も聞きたいからと)伝導を始めたと『スッタ・ニパータ』にある。

話が逸れた。つまりは、人に道を説いて自力で歩んでもらおうというものだったのに、教えてくれた人についていけばいいのだな!と勘違いするというのが古来からの人の習性であるといえる。
ヒヨコの刷り込みと同じ状態になってしまう。意図せず起きるし、意図して起こせばカルトになる。

それなので件のスピ教祖は「子供たち」に自力で道を歩んでもらおうと、独り立ちしてもらおうと考えたが故の今までの経歴の全否定なのではなかろうかとのことである。当人がそう考えているかは分からない。

それを聞いて思い出した話があった。

整体の創始者、野口晴哉が何かで書いていた。例の如くうろ覚えで引用ではない。

整体を教えているのは、自身で自身の健康を保つための訓練であるのに、道場に通う人達は「ここで整体指導を受けてるから大丈夫」だなどと言っている。誰もそこから上に出てこようとはしない。
とぼやいていた。

これもどこかで読んだが、晩年の野口の記述に「整体で人を治す意味なんてあるのか?」という具合なこともあったようである。

スピでいう「その人の選択だから」とでもいえばいいだろうか。実は死ぬ定めの人を無理矢理延命していただけではないのか?と、そのような懐疑を抱いていたようである。

教祖には教祖の悩みがあるのだ、などと言ってしまうのは簡単である。

最初から人心掌握して栄華を誇るためなら悩むことはなかろう。別の悩みが出るかもしれないが。

野口の場合は、当初は治療家、後にのその技術を教えていき、晩年の方は児童教育を考えていた。

本当に人を健康にしていくには、子供のころからそういうことを考えられるようにしなければならないと考えたのだろう。

その志は一貫して、人を、世の中を健康にしたい、といった具合だったのかもしれない。

『整体入門』の活元運動の話の最後のところに、そのようなことを述べていたものである。


実はまた話が逸れていたので戻す。


さて。あなたが教祖でそのような局面に遭遇した場合、どうするか?
これを考えてみるのは実にいい機会である。
演劇の役作りの手法として昔聞いたものだが、その役柄になり切るのではなく、あなたがその役の立場だったらどう振舞うか?を考えるというものだそうな。
欧米でその手法が出る前までは、真にその役になり切るというもので、これが実に演劇をつまらなくしていたという。ただただ、生々しい話を架空であるはずの舞台で見せられるという退屈なものに成り下がっていたという。
この手法を提案したのは、ベルトルト・ブレヒトだったとも聞いたが、詳細は忘れた。


人は役者で人生は舞台だ、という考え方がある。

あなたは「あなた」の教祖だとして、「あなた」に対してどう振舞うか?こう考えてみるのも一興であろう。


では、よき終末を。


鍋をひっくり返す話

2021-03-22 | 雑記
唐突だが、ブログを削除してしまおうと考えた。

というわけで、今までありがとうございました。



というのは悪すぎる冗談だが、たまに作っていた鍋の話でもしようかと考えた。
唐突とも思えるが、開始当初はお酒の話のブログには違いなかった。タイトル通りではある。


鍋の話の前に、しばらく前にあった話を書いておく。

去る三月四日。何の因果か「鶴岡八幡宮に行くぞ」となり、本当に参拝してきた。

とても単純なきっかけで、とあるお店に飾ってあった版画に、鶴岡八幡宮と下に小さく書かれたのがあった。

昔から見ていたが、とある日、急に気になって「どこにあるんでしたっけ?」とお店の人に尋ねた。

それからまたしばらくして、友人と出掛けた時に「ついでに鶴岡八幡宮まで行くぞ!」と冗談で言ったら実際にルートを調べ始めたものの、現在地から二時間ぐらいとのこと、そして夜だったので断念したのだが、上記のその日に本当に行くことになった。


実はそこの話はどうでもよく、さらに江ノ島まで足を延ばして、江ノ島を歩き回ってきた。

江ノ島まで食事をし損ねていたので一息ついた後、観光スポットの神社はどこだと適当に歩き始めたら、どうも反対に進んでいた。目の前にあった公園の地図を確認すると、その地図を設置していた公園の先の住宅街に「避難経路」という記述があり、どうやら参拝コースに繋がっているようだ。

初めてきた場所の癖に堂々と住宅街の間を歩き、「避難経路」と書かれた矢印を頼りに階段を昇っていくと、二十段くらいはあったか、真っすぐな階段の中腹に、茶トラの猫がこちらに背を向けて座っている。犬のお座りと同じな座り方である。

「おい。猫がいるぞ」と友人に声をかけつつ近づいて行ったが、その猫はまったく逃げようとも振りむこうともしない。

目の前に立ってようやくこっちを向いてきたので、指を鼻先に差し出すと、二三匂いを嗅いだかと思ったら、今度はその場にスフィンクスのように腹ばいになった。

指の匂いを嗅がせる前に撫でたかは忘れたが、撫でても顔の目の前に足が降ろされても微動だにせず、観光地の猫とは実に人に慣れているか、もしくは侮られているのか、などと件の友人と話つつ、昇って行ったものである。

一通り回って、昇った方とは違う、土産屋などが立ち並ぶ方から降りていくと、やはり観光地。人が多い。そりゃそうだ、と言いたいところだが、そうなってくれなければ困る。
大通りの脇へ入る道を覗き込むとカフェがあったり、また色々と見に行きたくはなるが、ちと遠い。

それはさておき。本来の参拝コースだった道を下っていくと、途中、観光客が声を上げた。
とある店の脇に猫がいるという。見ると、住宅街を昇って行った途中にいたのとそっくりな茶トラの猫であった。

女性の観光客達が「可愛い!」と声を上げていたので、撫でるのは辞めた。同じ猫だったのかはわからないが、歓迎だけでなく見送りまでされたのかもしれない、などと思ったものである。

江ノ島で見た猫の話がだらだらと続いたが、本題の鍋の話にする。

とはいえ、この鍋の作り方も大昔に書いたかもしれない。


これはずっと昔にテレビの料理番組で見たものである。神田川俊郎が作っていた。

拙は関西出身だが、大阪ではないので実際に見たことはなかったが、上方では「ハリハリ鍋」というものがあるという。

本来はクジラの肉を使うもので、野菜は水菜、別名京菜を使う、関西の鍋である。水菜限定かはわからないが、テレビで見たのは水菜を使っていた。詳しく知りたい方はご検索のほどを。

クジラの代わりに鶏のもも肉を使う。というわけで読んでも作れなさそうな具合の作り方を記す。


材料 

鶏もも肉一枚。ぶつ切りではなく、そのまま焼いてステーキに出来るようなあの状態の奴。

他の具として、先ほど書いた水菜、ゴボウ、後はキノコ類だとエノキがよかろうか。後は長ネギの白い部分。青い部分も使うが、具ではない。テレビで見た鍋には長ネギを入れていたかは覚えてないが、折角なので入れてあげよう。

水菜は煮た時に食べやすい大きさに切り、ゴボウはささがき。長ネギは五分切りでも斜めでも。エノキは適度な大きさにほぐす。

出汁を作る際に必要な物

昆布、煮干し、生姜のスライス数枚、長ネギの青い部分。
水、醤油、日本酒、味醂、砂糖。拙は何故か味醂を買おうとしないので、酒と砂糖を多めにして代用している。

そしてこれらを入れて煮る鍋!土鍋が一番だが、蓋が出来る鍋を。


作りかた

鍋に水を張り、鶏もも肉を沈める。そこに上記の出汁を作る際に必要な物、で示したものを全部混ぜる。分量はわからない。まともに計ったのは真似して作った時の数回ぐらいで覚えてはいない。

醤油味の鍋なので、醤油でほんのり色づく程度、ではなかったとは思うが、薄口醬油だったかもしれない。薄口醬油を別に用意して作ったことがないので、拙が作ったものはまるでかけソバのように暗い色となる。

その辺りは創意工夫で乗り越えてもらう。

煮干しはお茶のパックなんかで包んでおくと取り出すのが楽だと、テレビで見た時にやっていたが、その辺りもご自由に。

そして最近別の話で行き当たった、生姜のスライスと長ネギの青い部分を入れるという部分。

実はこれ、中華料理の厨房で使われていたりする。葱姜水(ツォンジャンスイ)といって、水に漬けて一時間ほど置いたものを、肉や魚の下処理に使ったりする。一時間、は以前見た中華料理の動画で言ってた話だったと思うが、この鍋だけでなく、色々使えるものなので、覚えておくと料理の幅が広がるかもしれない。肉が柔らかくなるという話も、作り方を調べると書かれている。

昆布や煮干しが一緒に入るなら、先に水戻しするかのように漬けておくべきか?と思うかもしれない。
火にかけて沸いたらあくを取り、蓋をして火を止めそのまま数時間冷ますので、そこまでしなくてもいい。
ただ、昆布については沸騰直前で取り出すのが好ましいと思われるので、鶏肉を沈めるずっと前に水に漬けておいて、蓋を外す前に取り除く、が正当とは思われるが、家庭料理なのでそこまで気にしなくてもよいかもしれない。


3時間ほど放置して冷えたら、ネギや生姜、昆布に煮干しといった具にしないものを取り除き、鶏もも肉も取り出して一口大ぐらいに刻んで、ささがきのゴボウと共に鍋に戻して火にかける。

ゴボウにゆっくり火を通した方がいいかもしれないので、弱めがいいかもしれないが、ささがきにしておくと火の通りも早い。そしてゴボウから味もでる。

沸いてきたら他の具を入れる。水菜は火を通し過ぎないように、食べる直前にいれて、さっと食べるのがよろしいかと。

薬味を書いてなかったが、山椒とか大根おろしなどをどうぞ。七味唐辛子にも少々山椒が入っているので、辛いのが苦手でなければ。

締めは雑炊でもいいし、うどんでもいいと思われる。


こうして、酒が進み過ぎて二日酔いとなるのであった・・・。



などと書いたが、これを書いている前夜は水炊きを作っていたというのが妙なところ。

本当はもも肉だけでなく、手羽先か手羽元も使うのだが、家の目の前のスーパーは手羽元がいつも売り切れなのか、値札だけしかないことが多く、もも肉だけで作っていることが多い。

そのせいもあって、上記の鍋を思い出したのだろう。しかし、そのスーパーには水菜が売っていないという悲劇が拙を苛むのであった。


暖かくなってきたが、鍋によく使うアブラナ科の野菜は解毒効果が高いと評判だそうな。

冬場に体にたまった毒素を排出するのにもいいかもしれない。横文字でデトックスとか言われるが、汗をかくのもいいデトックスである。

汗をかきすぎて風邪を引いてしまった、という苦情は受け付けられないが、そういう人は野口晴哉の『風邪の効用』を一読することをお勧めする。

人間万事塞翁が馬という。書いた作り方が細かくないが、鍋がひっくり返ったとか割れてダメになったとかいうのでもなければ、どうとでもなる。場合によっては鍋自体がおじゃんになったが故のもっと別の結果が引き起こされることもあり得る。

先日、とあるところで読んだ面白い話があったので、掻い摘んで書いておく。


どこか遠方の神社に参拝に行ったら、その直後に交通事故に遭ったという。願い事はご縁をということだったらしいのだが、その後がとんでもない。
結構な怪我で入院したそうだが、そのままお世話になった看護師とご結婚なさったのだとか。


というわけで、暖かさがはっきりしだしてきたこの頃は、鍋を食べて大汗かいて風邪を引くのもよろしかろう。

コロナ?美味いね、あれは。黄色くてシュワシュワしてて。


では、よき終末を。


もえる季節

2021-03-03 | 雑記
この時期になるとよく尋ねられることがある。コロナウイルスが猛威を振るっているのにマスクしてないのはどういうことだ!ではない。

花粉症は平気なんですか?と。

ほぼ問題ない。外を歩き続けていると水っぽい洟が少し出たりすることはあるが、単純に普段のマフィアっぽい服装が薄着なので冷えただけである。家で布団に入ってぬくぬくしていると何ともない。
時折いがらっぽくなることもあるが、それもすぐなくなる。
涙目が酷く続くということもない。が、先月だったか、起きたら少々息苦しい日があった。まさかコロナを通り越してゾンビに・・・ということもなかった。(ゾンビ云々は以前の記事などを)

それで、そう尋ねられた時に実は昔、と話を切り出して色々伝えたりしていたものであった。

その昔というのは今から十年以上前である。

毎年、一月の終わりから二月にかけて風邪を引いたかと思ったら鼻水が止まらない。ティッシュの一箱はすぐなくなるという勢いであった。

当初は風邪だと思い込んでいたが、後年、花粉症じゃないかと言われても気にしていなかった。

それから数年後。ここの古い記録には残っているが相手先はすでに消滅済みの話に繋がる。

所謂陰謀論という奴だが、健康にまつわる話は文字通り死活問題である。

病気にさせられて病院で薬を処方させるというのはあり得ない話ではないと。

そもそも拙は風邪を引いても風邪薬は飲まないとほぼ決めていた。ドラッグストアで買える風邪薬の「葛根湯」はたまに飲んだりしていたが、基本的に薬は使わなかった。経緯は思い出せないが、すぐ薬に頼るのは自身の免疫を下げるだけだと。

後に野口整体の話に触れて、間違いではなかったなと確信したものである。余談が過ぎた。

話を戻して、その所謂陰謀論の所で書かれていたところに、タバコの話があった。
タバコが実際言われているほど体に悪いものではないというのは聞いたこともある人がいるだろうが、花粉症の症状を緩和するという話もあった。他には脳のとある細胞に働きかけて記憶力を上げるという報告もあるという。

それで試してみようと思ったものの、実際どうだろうかと悩んでいたら、そこの別のところに、アグニ・ホートラというものの話があり、詳細は省くが、アグニ・ホートラの話も加味して問題ないだろうと踏み切った。

そしてキセルを買って来て、日本製のキセル用のタバコを吸い始めたところ、次の年からだったか、花粉症らしい症状が緩和したか止まったかは思い出せないが、現在進行形で何ともないとなっている。

それで、花粉症にはタバコが効くと、時候の挨拶的になっているこの時期にはこれこれこうでこういうのがあるみたいですよ、と話をしたりしてきたものである。

とはいえ。愚弟も喫煙者だが、花粉症で寝る時にマスクしているとかいう状況。

他の知り合いも喫煙者だが花粉症。挙句の果てには「花粉症は治らない!その時のは花粉症ではなかったのだ!」と力強く否定されたものである。

花粉症でなかったとして、何かの病的症状だったのが劇的に緩和かなくなったことには違いない。


最近ようやく不思議に思ったので、一体何が拙の病状を止めたのかを考えようというわけである。


いきなり胡散臭い方面からのネタだと、「波動が高いと花粉症にならない」とかいう話を見たものである。

ベジタリアンでもないし、酒はガバガバ飲むし、世の中の大多数は以下略と思っているような奴の波動とやらが高いとは思えないし、計りようもない。

今もベジタリアンだとかヴィーガンで花粉症でないというのなら、それが原因と推察できるが、前述の通り違う。
実際に菜食主義者でも調子が悪い人もいる。花粉症の人もいるとか小耳に挟んだ気がする。

健康的な生活をしているとは言えない。夜勤の仕事で昼間は寝ていることが多い。そして今は仕事が減っているので家でゴロゴロしている日も多い。

タバコについては、拙についてはそうだとしか思えないタイミングだったが、他人については非喫煙者が試して変わったとは身近では聞いていないのでわからない。

さて。巷では花粉症と呼ばれるこの病状。原因は本当に花粉のせいか?という話がある。

忙しい人は空を見上げる機会がなかろうし、見かけたとしても気にしないだろうが、あさっての方向に飛んでいく飛行機が細い雲を流しながら飛んでいるというのを見たことがあるかもしれない。

拙はちょくちょく街中を歩いて空を見ているものだが、色々な方向から飛んでいるのを見る。

話は飛ぶが、アメリカでそういう飛行機が飛んで行った後に地面に落ちたものを拾って検査すると、様々な重金属が検出されたという。本当かはわからないが、現代では考えられないナノロボットのような何かが体に埋まっていただとかもある。ここは別の話と混じっているかもしれないが。

そこでアメリカ市民は国に抗議したところ、連邦政府だか軍だかは忘れたが、「この期間に飛行機を飛ばして散布したことは本当です」と認めたという。飽くまで一定期間とすっとぼけているのがお国とやらのいつものことではある。

つまりは、環境は色々と汚染されており、水にも空気にもアルミなどの重金属はふんだんにあり、電磁波がそれらと共謀して日々体を蝕んでいる、というのが実際の所で、花粉は目くらましとなる。

となると、現代社会では生きていけませんな。皆花粉症になるしかない。花粉症だけではないが。


しかし、花粉症らしい症状がなくなった。これがわからない。


先ほど、マイナスイオン云々という話を読んだが、体に害を及ぼすものはプラスの荷電で、マイナスイオンは文字通りマイナスの荷電で、ぶつけるとウイルスなどは電磁差といってたか、姿を保てなくなり、文字通り殺菌されてしまうというしっかりとした科学的根拠があるという。
電磁波や重金属もプラスの荷電で、人体を酸化に傾けて惨禍を引き起こすというわけである。
その反対は塩基性。つまりアルカリである。還元作用が重要となる。

体に必要なミネラルというのは、特に野菜や果物に多く含まれているものはアルカリの物が多い。

そこで思い出した話がある。

昔の日本は、「灰汁」というものを使っていた。煮込み料理や鍋ですくうものとは違う。

藁を燃やして灰にし、それに水や熱湯をかけてからその上澄みを使うのである。

これは強力なアルカリ溶液となり、掃除や洗濯など日常の様々な箇所で使われていたという。

とある猿の動物園では、生ごみを焼却した灰を置いてたら、猿が寄って来て食べていたという。

炭焼きをしていると、最初は白っぽい煙だが、炭が出来上がってくると紫の煙になり、これにはミネラルが豊富だという話もあった。


タバコ以外で実践していることを書いていなかった。

先ほども少し触れたが、アグニ・ホートラである。検索して見つかるような正式なものではなく、論理だけ拝借したものであるが。

細かい話は省くが、動物性のものと植物性の物を一緒に自然の炎で焼くと、人体や環境に良い影響を与えると言われている。これはインドに古代から伝わるアーユルヴェーダに則っている話であり、インドやネパールなどでは昔から行われている。
炭素の同位体でフラーレン分子と呼ばれる、サッカーボール状の炭素分子が高速回転するとかなんとか。ちなみに、このフラーレン分子に纏わる研究はノーベル賞を取っている。

拙が行っているのは実に単純で、蜜蝋入りの蠟燭を明かりにしているだけである。仏具店などで「あさみどり」という名前で売られている、少々お高い蝋燭である。
仏具店に蝋燭とマッチを買いに行くマフィア・・・。我ながら奇妙である。


というわけで、灰汁や炭焼きの件もあるので、タバコの煙にも還元作用、マイナスイオンの効果があると考えられる。

尚且つ、アグニ・ホートラもどきを続けてきたが故の健康体なのだろうといえよう。


火の始末については各人でお気を付けを。家が燃えたとか煙たいだのとか言われても困る。


それでも、何をするかの前に、己自身を顧みるのが先決であることは言うまでもない。



では、よき終末を。