咲とその夫

 定年退職後、「咲」と共に第二の人生を謳歌しながら、趣味のグラウンド・ゴルフに没頭。
 週末にちょこっと競馬も。
 

秋の夜長に・・・読書三昧

2013-09-23 22:25:00 | 日記
 暑い日中の日差しも遠のいたこの頃、虫の音が聞こえる秋の夜長を迎える日々。暇を見つければ、いつものように読書三昧の毎日で、相も変わらず池波正太郎小説にドップリ。

 もっとも、松本清張、梓林太郎、浅田次郎、火坂雅志、藤沢周平、和田竜、二階堂玲太、南條範夫など各氏の著作も読むには読んだけれど、ただ、単に面白いとか、筋立てが良かったと思う程度で、当方にはそれ以上得るものがなかった。

 30代後半で初めて読んだ「真田太平記」、今までに出会ったことのない衝撃を受けた。そして、生きるということを強く学ぶとともに、大いなる感銘を受けたことで、池波小説に優るものはないと思うようになった。まさに、池波狂になった一人かも知れない。

 恥ずかしながら、池波正太郎氏という小説家をはじめて知る切っかけともなった

 著作のほとんどの底辺に流れているのが、「人に分かっていることは一つしかない、必ず死ぬるということである」、これは衝撃的な文体であった。だからこそ、1日、1日を懸命に生きているのであると・・・。

 「人間は死ぬところに向かって生まれた日から進んでいる、それしか分かっていない。あとのことは全部わからない。・・・そのことをよくよくのみ込まないといけない」(男の系譜)

 ただ、それだけではない。さらに

 「人間というやつ、遊びながらはたらく生きものさ。善事をおこないつつ、知らぬうちに悪事をやってのける。悪事をはたらきつつ、知らず識らず善事をたのしむ。これが人間だわさ」(鬼平犯科帳 “谷中いろは茶屋”)

 「男というものは、それぞれの身分と暮しに応じ、物を食べ、眠り、かぐわしくもやわらかな女体を抱き・・・こうしたことが、とどこおりなく享受できうれば、それでよい。いかにあがいてみても人は・・・つまるところ男の一生は、それ以上のものではない」(さむらい劇場)

 これらこそが、池波小説の神髄となる大きな主題であり、それがいろいろな場面で描かれている。

 さらに背景描写も素晴らしく、登場人物の一人、ひとりの細かな描写があるから、小説の深まりもさらに大きく広がっている。

 「冷たい風に、竹藪(たけやぶ)がそよいでいる。西にひろがる田圃の彼方の空の、重くたれこめた雲の裂け目から、夕焼けが滲(にじ)んで見えた。・・・」(剣客商売“女武芸者”) 

 「冬の名残りが暁闇(ぎょうあん)の冷えにあり、それが夜明けと共にぬくもり、あたりが明るくなるにつれて、しだいに春めいた陽ざしに変わってくる」(剣客商売“不二桜・蘭の間”) 

 「落ちかかる陽が赤くそめている浪人の顔は、むしろくったくのない穏やかな表情をうかべている。色が白く、ぽてっと小肥りな・・・眉が濃くて、栗鼠(りす)のような小さくてまるい双眸(そうぼう)が人懐こい光をたたえている」(あばれ狼)

 「若いときから高慢な女で、背丈が低く、妙にぼってりとした体つきのお米は、眉・眼・鼻・口が四方へ飛び散っているような顔の造作で、鼻の穴が天井を向いているのも、唇が上へ切れあがっているのもむかしのままだ」(剣客商売“密通浪人”)

 など、読んでいて思わず吹き出してしまうことも多々ある。また、食べ物がいろいろな場面に出ているが、とても美味しそうである。

 「黒塗りの小桶の、熱湯の中の蕎麦掻(そばが)きを箸で千切(ちぎ)り、汁につけて口に運びつつ、大治郎はゆっくりと酒をたのしんだ」(剣客商売“逃げる人”)

 最後に池波正太郎氏のもっと言いたいことが、次のように描かれている。

 「いえ、いかに文明開化の世がやって来ようというときでも、人のこころなぞというものは愛憎のおもいから一歩もぬけ出すことができるものじゃございません。
 愛憎のおもいというものがわいてこぬ人は、もう人間じゃない。そう考えますね。よろこびも憎しみも、そして悲しみも、みんな上の空というやつ。こういう人間は、どうも私どもにはぴったりとまいりません・・・」(その男)

 一連の小説群、どの一遍を読んでも“琴線に触れる”ことができるから、何度も、何度も読み返すこの頃である。(夫)


(故・池波正太郎氏)


(真田太平記・・・全12巻)

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