一人の尊い命が消えて行った。福島第1原発事故発生により、現場で陣頭指揮をされていた吉田昌郎所長(当時)が、病のため他界されたとの報道。
原子力発電所のことを知り尽くされていた人、まさに勇猛果敢なこの人がいなかったら、現在の事態では収まっていなかったであろうとのこと。それに引き替え、東電本社の事務方のトップたち、あの時点から人命よりも廃炉をもっとも懸念し最後の手段である海水注入を躊躇していたのであろうか。
それにもまして、初動対応を遅らせるような行動に出た管直人元首相。
「理系出身だから原発のことはよくわかる」とか、なんとか言いながら福島第1原発上空にヘリを飛ばしてやって来て、東電スタッフも首相への対応優先で初動対応措置が遅れたことは否めないであろう。
その当時の素人官邸の面々が、最も大事な初動対応措置への指揮権発動と危機管理対策の遅れが我が国の不幸を招いている。そのことを棚上げにして、原発廃止論者になっている管直人元首相らの責任問題はどこへ行ったのか不思議でならない。
それに引き替え、現場を指揮された吉田前所長と現場のスタッフの皆さんの命懸けであった対応には頭が下がる思いである。また、あの原発事故の原因をもっともよくご存じであった吉田前所長の回顧録(本当に言いたかったこと)などが残されないまま、病に倒れられたことはご本人にとっても残念でならなかったことであろう。
本日の産経抄、改めてよく読むと・・・とても、意味の深い感銘を受ける内容である。(咲・夫)
[追 記]~産経抄~
福島第1原発事故の発生から5日目の早朝だった。現場で不眠不休の作業の陣頭指揮をとっていた当時の吉田昌郎(まさお)所長は突然、座っていた椅子から立ち上がり、床にあぐらをかいて頭(こうべ)を垂れた。
▼「私はあの時、自分と一緒に“死んでくれる”人間の顔を思い浮かべていたんです」。『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』(PHP)の著者、門田隆将(りゅうしょう)さんの取材に答えている。その吉田さんが9日、食道がんのために58歳の生涯を終えた。
▼門田さんはテレビ番組で、「戦死」と表現していた。確かに病に倒れて所長を辞するまでの日々は、所員や自衛隊員、消防隊員とともに「日本」を守るための闘いの連続だった。原子炉を冷やすための海水注入の問題では、現場を知らない東電本店や官邸が“敵”となった。
▼何より戦後68年、日本がさまざまな危機に見舞われたとはいえ、これほど過酷な決断を迫られたリーダーを他に知らない。戦争関連の著作も多い門田さんは吉田さんに、絶望的な戦場で部下を鼓舞する指揮官の、悲壮な姿を重ねたのかもしれない。
▼『死の淵を見た男』によれば、菅直人首相が東電本店に乗り込んできたのは、ちょうど吉田さんが自分と仲間たちの「死」を考え続けていたころだ。「撤退したら、東電は百パーセントつぶれる。逃げてみたって逃げ切れないぞ!」。テレビ会議で言い放つ首相に、吉田さんは背を向けてすっくと立ち上がり、「ズボンを下ろし、パンツを出してシャツを入れなおした」という。
▼東工大の先輩でもある首相への、無言の抗議だったのか。一方で、東電本店の部長時代、津波対策に消極的だったとの指摘もある。吉田さんが書きかけていたという、回想録を読みたかった。
(出典:産経新聞[産経抄] 抜粋)
にほんブログ村
にほんブログ村
原子力発電所のことを知り尽くされていた人、まさに勇猛果敢なこの人がいなかったら、現在の事態では収まっていなかったであろうとのこと。それに引き替え、東電本社の事務方のトップたち、あの時点から人命よりも廃炉をもっとも懸念し最後の手段である海水注入を躊躇していたのであろうか。
それにもまして、初動対応を遅らせるような行動に出た管直人元首相。
「理系出身だから原発のことはよくわかる」とか、なんとか言いながら福島第1原発上空にヘリを飛ばしてやって来て、東電スタッフも首相への対応優先で初動対応措置が遅れたことは否めないであろう。
その当時の素人官邸の面々が、最も大事な初動対応措置への指揮権発動と危機管理対策の遅れが我が国の不幸を招いている。そのことを棚上げにして、原発廃止論者になっている管直人元首相らの責任問題はどこへ行ったのか不思議でならない。
それに引き替え、現場を指揮された吉田前所長と現場のスタッフの皆さんの命懸けであった対応には頭が下がる思いである。また、あの原発事故の原因をもっともよくご存じであった吉田前所長の回顧録(本当に言いたかったこと)などが残されないまま、病に倒れられたことはご本人にとっても残念でならなかったことであろう。
本日の産経抄、改めてよく読むと・・・とても、意味の深い感銘を受ける内容である。(咲・夫)
[追 記]~産経抄~
福島第1原発事故の発生から5日目の早朝だった。現場で不眠不休の作業の陣頭指揮をとっていた当時の吉田昌郎(まさお)所長は突然、座っていた椅子から立ち上がり、床にあぐらをかいて頭(こうべ)を垂れた。
▼「私はあの時、自分と一緒に“死んでくれる”人間の顔を思い浮かべていたんです」。『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』(PHP)の著者、門田隆将(りゅうしょう)さんの取材に答えている。その吉田さんが9日、食道がんのために58歳の生涯を終えた。
▼門田さんはテレビ番組で、「戦死」と表現していた。確かに病に倒れて所長を辞するまでの日々は、所員や自衛隊員、消防隊員とともに「日本」を守るための闘いの連続だった。原子炉を冷やすための海水注入の問題では、現場を知らない東電本店や官邸が“敵”となった。
▼何より戦後68年、日本がさまざまな危機に見舞われたとはいえ、これほど過酷な決断を迫られたリーダーを他に知らない。戦争関連の著作も多い門田さんは吉田さんに、絶望的な戦場で部下を鼓舞する指揮官の、悲壮な姿を重ねたのかもしれない。
▼『死の淵を見た男』によれば、菅直人首相が東電本店に乗り込んできたのは、ちょうど吉田さんが自分と仲間たちの「死」を考え続けていたころだ。「撤退したら、東電は百パーセントつぶれる。逃げてみたって逃げ切れないぞ!」。テレビ会議で言い放つ首相に、吉田さんは背を向けてすっくと立ち上がり、「ズボンを下ろし、パンツを出してシャツを入れなおした」という。
▼東工大の先輩でもある首相への、無言の抗議だったのか。一方で、東電本店の部長時代、津波対策に消極的だったとの指摘もある。吉田さんが書きかけていたという、回想録を読みたかった。
(出典:産経新聞[産経抄] 抜粋)
にほんブログ村
にほんブログ村