「豊臣軍にケンカ売った、でくのぼうがいた」
「のぼう様が戦(いくさ)するってえならよう、我ら百姓が助けてやんなきゃどうしようもあんめえよ。なあ皆」
これは、実在した戦国武将成田長親が、坂東武者の子孫の領民なども加えた3千の軍勢で、石田三成率いる豊臣2万余の軍と戦った物語である。
豊臣秀吉が織田信長亡きあと、天下を平定するため最後まで抵抗している関東の名門・北条勢を成敗する決心をした。豊臣勢は本城の小田原城攻撃や北条勢に味方する各支城を落としはじめる。
秀吉はその中のひとつで、湖に浮かぶといわれる「忍城(おしじょう)」、別名「浮き城」を攻略させるために子飼いの石田三成を総大将として2万余の兵をあずけた。三成の盟友大谷吉継、後に豊臣家の五奉行となった長束正家などが三成を補佐して、「忍城(おしじょう)」を2万余の大軍で囲った。
城主成田氏長が5百の兵を率いて、籠城する小田原の北条勢に加わるため城をあとにした。城の方は城代の叔父・泰季に託した・・・実は、氏長は秀吉に密かに内通し北条勢を裏切ることで、「忍城(おしじょう)」は安堵されるはずであった。ところが、城代の成田泰季が急病で没っしたことから、「でくのぼう」と呼ばれていた嫡男・長親が城代を継ぐこととなった。
「忍城(おしじょう)」の城主・氏長が豊臣に組みすることとしたため、秀吉側から長束正家が「忍城(おしじょう)」にやって来て、秀吉の命を伝えるが・・・何と、何を思ったか城代となった長親は、秀吉からの命を蹴って戦うと言いだす。
2万余の大軍に囲まれながら、5百の兵で宣戦布告を行なった「のぼう様」の成田長親に勝算はあるのか・・・一触即発の物語が画面一杯にはじまった。
和田竜氏の脚本「忍ぶの城」が発表されてから、今回の映画化まで多くの苦難があり、7年もかかったとのこの映画「のぼうの城」。時代劇でありながら巨大スペクタクルドラマでもある。ちなみに映画化までの間、脚本を元に和田竜氏が小説に書き改めて発刊された「のぼうの城」がベストセラーとなったことで、映画化への大きな後押しとなった異色の手法とのこと。
北海道・苫小牧に東京ドーム20個分の広大な「忍城(おしじょう)」のオープンセットを組んで撮影されたとのこの映画、さらに山梨・滋賀・京都、物語の舞台である埼玉などのロケを行った迫力のある場面、特撮も存分に組み入れられているが最高の出来栄えになっている。
さらに主人公成田長親を演じている野村萬斎さん、ものすごく素敵な誰からも愛されている「のぼう様」が出来上がっているから・・・画面の中にグイグイと引きこまれる。
その「のぼう様」が、いかに領民に愛されているのか、この方の為ならすべてを投げ打って力を出し切るとの家来や領民。映画が進む中で徐々にその人柄が分かり、最後は敵方の石田三成さえもが、敵の大将はどのような人物であるのか、自ら見てみたいと言わしめた成田長親。
映画の中の野村萬斎さん以外には考えられないほどの最高の適役である。昨日の映画館、何年ぶりであろうか、チケット売り場も行列ができており、開場待ちのロビーには多くの人たちがいる。当方らのような、リタイヤ組も多いが若いカップルも多く、平日の昼時であるにもかかわらず・・・映画館の盛況ぶりには驚いた。
最近は話題の映画も多く上映されるからであろう・・・。
ところで、この映画「のぼうの城」には、問題の場面もあるということで、昨秋の公開が中止されたが、今回無事に公開されたことに感謝したい。見ていてとても楽しくなる映画であり、素晴らしいリーダーを目の当たりにすることができるから。
最後に野村萬斎さん演じる長親が、夜間に船上で踊る「田楽踊り」のシーン、存分に楽しめるところであり・・・この映画のキーポイントとなる場面でもある。そして、本城・小田原が落城しすべての支城も落城する中、この「忍城(おしじょう)」のみが抵抗し続け奇跡の勝利を上げたのである。
ほんと、映画館に出向いてとても良かった。(咲・夫)
(出典: 2011『のぼうの城』フィルムパートナーズ)
[追 記]~成田長親~
天正18年(1590年)、豊臣秀吉と後北条氏の戦い(小田原征伐)が始まると成田氏長は北条氏に味方して小田原籠城に参加した。成田氏の本拠忍城は氏長の叔父・泰季が城代となって守ったが泰季が開戦直前に没したためその子長親が代わって城代となり、防衛の指揮を執った。
忍城を攻める上方勢は石田三成を総大将とし大谷吉継、長束正家などの秀吉子飼いの諸将が名を連ね23,000騎もの大軍であったと伝えられている。三成は巨大な堤防(石田堤)を作って忍城を水攻めするなど総力を挙げて攻城するものの、北条方の本城である小田原城が降伏するまで長親は3,000騎の手勢で城を守り切った。
その後は当主氏長とともに会津の蒲生氏郷のもとに一時身を寄せたのち、下野国烏山へと移り住むが氏長と不和になり出奔し、出家して自永斎と称した。
晩年は尾張国に住む。慶長17年12月4日(1613年1月24日)、68歳で死去した。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
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「のぼう様が戦(いくさ)するってえならよう、我ら百姓が助けてやんなきゃどうしようもあんめえよ。なあ皆」
これは、実在した戦国武将成田長親が、坂東武者の子孫の領民なども加えた3千の軍勢で、石田三成率いる豊臣2万余の軍と戦った物語である。
豊臣秀吉が織田信長亡きあと、天下を平定するため最後まで抵抗している関東の名門・北条勢を成敗する決心をした。豊臣勢は本城の小田原城攻撃や北条勢に味方する各支城を落としはじめる。
秀吉はその中のひとつで、湖に浮かぶといわれる「忍城(おしじょう)」、別名「浮き城」を攻略させるために子飼いの石田三成を総大将として2万余の兵をあずけた。三成の盟友大谷吉継、後に豊臣家の五奉行となった長束正家などが三成を補佐して、「忍城(おしじょう)」を2万余の大軍で囲った。
城主成田氏長が5百の兵を率いて、籠城する小田原の北条勢に加わるため城をあとにした。城の方は城代の叔父・泰季に託した・・・実は、氏長は秀吉に密かに内通し北条勢を裏切ることで、「忍城(おしじょう)」は安堵されるはずであった。ところが、城代の成田泰季が急病で没っしたことから、「でくのぼう」と呼ばれていた嫡男・長親が城代を継ぐこととなった。
「忍城(おしじょう)」の城主・氏長が豊臣に組みすることとしたため、秀吉側から長束正家が「忍城(おしじょう)」にやって来て、秀吉の命を伝えるが・・・何と、何を思ったか城代となった長親は、秀吉からの命を蹴って戦うと言いだす。
2万余の大軍に囲まれながら、5百の兵で宣戦布告を行なった「のぼう様」の成田長親に勝算はあるのか・・・一触即発の物語が画面一杯にはじまった。
和田竜氏の脚本「忍ぶの城」が発表されてから、今回の映画化まで多くの苦難があり、7年もかかったとのこの映画「のぼうの城」。時代劇でありながら巨大スペクタクルドラマでもある。ちなみに映画化までの間、脚本を元に和田竜氏が小説に書き改めて発刊された「のぼうの城」がベストセラーとなったことで、映画化への大きな後押しとなった異色の手法とのこと。
北海道・苫小牧に東京ドーム20個分の広大な「忍城(おしじょう)」のオープンセットを組んで撮影されたとのこの映画、さらに山梨・滋賀・京都、物語の舞台である埼玉などのロケを行った迫力のある場面、特撮も存分に組み入れられているが最高の出来栄えになっている。
さらに主人公成田長親を演じている野村萬斎さん、ものすごく素敵な誰からも愛されている「のぼう様」が出来上がっているから・・・画面の中にグイグイと引きこまれる。
その「のぼう様」が、いかに領民に愛されているのか、この方の為ならすべてを投げ打って力を出し切るとの家来や領民。映画が進む中で徐々にその人柄が分かり、最後は敵方の石田三成さえもが、敵の大将はどのような人物であるのか、自ら見てみたいと言わしめた成田長親。
映画の中の野村萬斎さん以外には考えられないほどの最高の適役である。昨日の映画館、何年ぶりであろうか、チケット売り場も行列ができており、開場待ちのロビーには多くの人たちがいる。当方らのような、リタイヤ組も多いが若いカップルも多く、平日の昼時であるにもかかわらず・・・映画館の盛況ぶりには驚いた。
最近は話題の映画も多く上映されるからであろう・・・。
ところで、この映画「のぼうの城」には、問題の場面もあるということで、昨秋の公開が中止されたが、今回無事に公開されたことに感謝したい。見ていてとても楽しくなる映画であり、素晴らしいリーダーを目の当たりにすることができるから。
最後に野村萬斎さん演じる長親が、夜間に船上で踊る「田楽踊り」のシーン、存分に楽しめるところであり・・・この映画のキーポイントとなる場面でもある。そして、本城・小田原が落城しすべての支城も落城する中、この「忍城(おしじょう)」のみが抵抗し続け奇跡の勝利を上げたのである。
ほんと、映画館に出向いてとても良かった。(咲・夫)
(出典: 2011『のぼうの城』フィルムパートナーズ)
[追 記]~成田長親~
天正18年(1590年)、豊臣秀吉と後北条氏の戦い(小田原征伐)が始まると成田氏長は北条氏に味方して小田原籠城に参加した。成田氏の本拠忍城は氏長の叔父・泰季が城代となって守ったが泰季が開戦直前に没したためその子長親が代わって城代となり、防衛の指揮を執った。
忍城を攻める上方勢は石田三成を総大将とし大谷吉継、長束正家などの秀吉子飼いの諸将が名を連ね23,000騎もの大軍であったと伝えられている。三成は巨大な堤防(石田堤)を作って忍城を水攻めするなど総力を挙げて攻城するものの、北条方の本城である小田原城が降伏するまで長親は3,000騎の手勢で城を守り切った。
その後は当主氏長とともに会津の蒲生氏郷のもとに一時身を寄せたのち、下野国烏山へと移り住むが氏長と不和になり出奔し、出家して自永斎と称した。
晩年は尾張国に住む。慶長17年12月4日(1613年1月24日)、68歳で死去した。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
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