み‐すご・す【見過ごす】
1 見ていながら気づかないでしまう。見落とす。
2 見ていながら、特に問題にしないでそのままにしておく。見逃す。
み‐のが・す【見逃す/見×遁す】
1 見ていながら気づかないでそのままにする。見落とす。
2 見ていながら、とがめない。大目に見る。
3 見ていながら、また知りながら対処することなくすます。
「見過ごす」場合、「自分の責任範囲」を意識してないと困る。
「ここまでが自分の責任で、あそこからは相手の責任」と。
要するに、「特に問題にしないでそのままにする」という意識の元には、
「あの問題解決はあの人が適任だ。」というところまで日々の観察やら洞察が出来てないとマズイわけだ。
そのことに関わっていて、「私が抱えられる問題じゃないから。(切り落とし)」だけで見過ごしてしまうと「えらいこっちゃの大変な事態」になる可能性があるから、そのことに関わってしまったら、こういう「見過ごし」だけはしないように意識しないとマズイ。
「関わったら」というのは、集団や組織に所属していたらもうそれはすでに「関わっているんだ。」と意識した方がいい。
もっと引目線だったら、「地球に存在している」以上、「全てのもの(自然も人間も環境も宗教も)に関わってる」んだけど。
「見逃す」場合、「お得意識」があると非常に困る。
「それを見逃してやることで(自分がとか、誰かがとか)お得になるから。」って考えだ。
「見逃す」というのは「結果に対する判断」だから、「見過ごす」以上に責任をキッチリ背負っていただかないとマズイ。
そういう責任ある役割の人が「見逃す」を判断しないと、「公平さ」はどんどんどんどんむちゃくちゃになっていく。
「これが公平なの。」といいながら、「ものすごい単なるえこ贔屓」になってるのを、知らずに(認めたくないのでしょうね。)いるような人は多いよねぇ。
「見逃す判断」を自分で背負い込むのは、権限を手に入れたい虚栄心なのか、指示を仰ぐことを面倒臭がる面倒くさがりなのか、他人を認めたくない人なのか、「自分が絶対正しい」と思い込んでる思い上がりなのか。
オバチャマは「見逃す」判断をしない。「見過ごす」はずーーーっとしている。
「見逃す」と判断出来るほど責任を背負えるような人間になってない。
40年と少し経ちましたが、自分判断で「見逃すよ。」と言ってきたことがない。
学級委員なんかもやりました、小学校と高校で。(やらされました。)
でも、いくら学級の長でも、「見逃すよ。」なんていう判断をしてきたことがない。
学級委員が何かの問題を「見逃すよ。」とやれば、「あそこだけ贔屓だ」の「それじゃぁ公平じゃない」だの言われて混乱するのがオチ。
それは学級の最高責任者である「先生」が判断すること。
会社だったら「社長」だし、政治だったら「総理大臣」だし、国だったら「天皇」だ。
だけど、「部長や課長」くらいにそういう権限を与えちゃったというか、それを「見逃してきた社長」っていうのは、競争社会になってから沢山いないか?
だから「社長だけではなくその下にも責任判断をもっと意識してもらう為。」などといいながら、筋が何も通ってないバランバランな状態なところが多くないか?
あぁ、「見逃す」なんてそんな役回り、オバチャマはまだまだ到達できる域に達してない。
あぁ、おこがましいったらありゃしない。(笑)
だから「見過ごす」という為に常日頃観察はしてる。
子どもの頃からしてる。
「あぁあの問題はあそこに背負わすのが一番だし、必然的な流れとしてあそこが背負うことが一番だから見過ごしちゃおう。オバチャマじゃぁ責任背負えないし。」という観察と洞察。
親戚のオジサンとかオバサンとか、親しい知人なんかに言わせりゃ、
「昔からよくみてるなぁ。でもいいんだよ、そんな気にしなくても。」と言うんだが、仕方がないのだよ、どうしても「ねじれ」がキライだから。かゆくなってくるっていうか。(ドハハハハ・・・)
「混乱」はことの変化の中で必然的にそうなるものだけど、「ねじれ」だけは「観察怠慢」で「人間の欲」の暴走だからやめて欲しい。
しかし、自分の責任と意識している部分が、「全体の楽」とか「自分も相手も含めた得」の意識がまるでなくて、「自分の楽」とか「自分の得」だけだと、必ず「社会不適応」になるから気をつけないとねー。
但し今ってこの「社会不適応」が完全にねじれてるけどねー。
全体意識が出来てる人のほうが「社会不適応」に追い込まれてる。
気がついてますぅ?みなさん。
相当ヘンだよねぇ。
1 見ていながら気づかないでしまう。見落とす。
2 見ていながら、特に問題にしないでそのままにしておく。見逃す。
み‐のが・す【見逃す/見×遁す】
1 見ていながら気づかないでそのままにする。見落とす。
2 見ていながら、とがめない。大目に見る。
3 見ていながら、また知りながら対処することなくすます。
「見過ごす」場合、「自分の責任範囲」を意識してないと困る。
「ここまでが自分の責任で、あそこからは相手の責任」と。
要するに、「特に問題にしないでそのままにする」という意識の元には、
「あの問題解決はあの人が適任だ。」というところまで日々の観察やら洞察が出来てないとマズイわけだ。
そのことに関わっていて、「私が抱えられる問題じゃないから。(切り落とし)」だけで見過ごしてしまうと「えらいこっちゃの大変な事態」になる可能性があるから、そのことに関わってしまったら、こういう「見過ごし」だけはしないように意識しないとマズイ。
「関わったら」というのは、集団や組織に所属していたらもうそれはすでに「関わっているんだ。」と意識した方がいい。
もっと引目線だったら、「地球に存在している」以上、「全てのもの(自然も人間も環境も宗教も)に関わってる」んだけど。
「見逃す」場合、「お得意識」があると非常に困る。
「それを見逃してやることで(自分がとか、誰かがとか)お得になるから。」って考えだ。
「見逃す」というのは「結果に対する判断」だから、「見過ごす」以上に責任をキッチリ背負っていただかないとマズイ。
そういう責任ある役割の人が「見逃す」を判断しないと、「公平さ」はどんどんどんどんむちゃくちゃになっていく。
「これが公平なの。」といいながら、「ものすごい単なるえこ贔屓」になってるのを、知らずに(認めたくないのでしょうね。)いるような人は多いよねぇ。
「見逃す判断」を自分で背負い込むのは、権限を手に入れたい虚栄心なのか、指示を仰ぐことを面倒臭がる面倒くさがりなのか、他人を認めたくない人なのか、「自分が絶対正しい」と思い込んでる思い上がりなのか。
オバチャマは「見逃す」判断をしない。「見過ごす」はずーーーっとしている。
「見逃す」と判断出来るほど責任を背負えるような人間になってない。
40年と少し経ちましたが、自分判断で「見逃すよ。」と言ってきたことがない。
学級委員なんかもやりました、小学校と高校で。(やらされました。)
でも、いくら学級の長でも、「見逃すよ。」なんていう判断をしてきたことがない。
学級委員が何かの問題を「見逃すよ。」とやれば、「あそこだけ贔屓だ」の「それじゃぁ公平じゃない」だの言われて混乱するのがオチ。
それは学級の最高責任者である「先生」が判断すること。
会社だったら「社長」だし、政治だったら「総理大臣」だし、国だったら「天皇」だ。
だけど、「部長や課長」くらいにそういう権限を与えちゃったというか、それを「見逃してきた社長」っていうのは、競争社会になってから沢山いないか?
だから「社長だけではなくその下にも責任判断をもっと意識してもらう為。」などといいながら、筋が何も通ってないバランバランな状態なところが多くないか?
あぁ、「見逃す」なんてそんな役回り、オバチャマはまだまだ到達できる域に達してない。
あぁ、おこがましいったらありゃしない。(笑)
だから「見過ごす」という為に常日頃観察はしてる。
子どもの頃からしてる。
「あぁあの問題はあそこに背負わすのが一番だし、必然的な流れとしてあそこが背負うことが一番だから見過ごしちゃおう。オバチャマじゃぁ責任背負えないし。」という観察と洞察。
親戚のオジサンとかオバサンとか、親しい知人なんかに言わせりゃ、
「昔からよくみてるなぁ。でもいいんだよ、そんな気にしなくても。」と言うんだが、仕方がないのだよ、どうしても「ねじれ」がキライだから。かゆくなってくるっていうか。(ドハハハハ・・・)
「混乱」はことの変化の中で必然的にそうなるものだけど、「ねじれ」だけは「観察怠慢」で「人間の欲」の暴走だからやめて欲しい。
しかし、自分の責任と意識している部分が、「全体の楽」とか「自分も相手も含めた得」の意識がまるでなくて、「自分の楽」とか「自分の得」だけだと、必ず「社会不適応」になるから気をつけないとねー。
但し今ってこの「社会不適応」が完全にねじれてるけどねー。
全体意識が出来てる人のほうが「社会不適応」に追い込まれてる。
気がついてますぅ?みなさん。
相当ヘンだよねぇ。