この映画、ホントに好きなんですよ。
上映された頃は「あぁいい映画なんだろうな。」くらいの漠然としたもので観もしなかったんですが、
「観たらハマる。だけどもっと年取ったら観たい。見た目以上に深そうだから。」って思ったんですや。
「オタク映画だ。」というなかれ。
銀幕映画っていう形容は当てはまらないかもしれないけど、作品としてはスゴイと思う。
何だろう、自分としては、「コーエンの「オー・ブラザー!」くらい深い、サイコー!」と思ってて。
まぁ当時のスタッフが製作時の頃を回想した話を聞いてるだけでも、面白くって仕方が無い。
要するに、いい小説があった。
それを元に脚本を書いた。
監督を口説き落として、引き受けてもらって、その監督が絵をつけて行く。
そういった過程の中で監督が仲の良かった兄弟をガンで失っていた。
心の闇で苦悩していた。
元の脚本では知的すぎて監督がさらに暗い絵をつけてしまいそうだったから、
「これでは映画としてよろしくない。」と思って、別の脚本家に訂正してもらった。
それが思いのほか良い訂正になった。
元の脚本家も認めざるおえなかった。
元々の脚本家は自分の思いが強すぎて、監督の思いまで察する事が出来なかったのでしょう。
それは突然降って湧いた兄弟の死によって生まれた「監督の心の闇」ってこと。
それに必要以上に引きずられて元の自分が保てなくて、「これでは仕事が出来ないと思ったんだ」と想像する。
絵をつけて行く側の思いと脚本家の思いにギャップが生まれた時っていうのは、監督主導で行くしか無いのは間違ってない。
別の脚本家を見つけて訂正させるほど「監督は責任を背負ってる」ってことの裏返しですよね。
「これ以上出来ない。」って辞める訳にもいきませんから。
けど、リドリースコット監督が兄弟を失わなかったら、どういう展開になっていたことでしょう。
そういう背景も考えるとさらに興味が湧く映画なのです。
おまけにこれは映画製作の回想ですが、いろいろに当てはまると思うんですや。
それこそ自分、会社経営、政治、いろいろにね。
置き換えて考えると見えてくる景色もありますやね。
------ 以下、気になった語りを抜粋 ------
1975年、私に投資した人がいた。
彼らは私に同情し、“好きな脚本を書け”と言うのでそうしたがうまくいかなかった。
映画の製作も考えていたので、友人のジム・マクスウェルに相談した。
“SFがいいと思う”と言うと彼がフィリップ・K・ディックの小説を推薦した。
「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」はイマイチだった。
だが、刑事がロボットを追うストーリーに商業性を感じたんだ。
その3年後、友人のブライアン・ケリーが言った。
“商業性はあるから投資者は現れる”
“もうかるぞ”とね。
それが重要だった。
2年間ブライアンに追い回されたよ。
ディックの小説をもとに映画を作りたいと思ったらしい。
だが初めは魅力を感じなかった。
ディーリーに“映画化は難しい”と言われ、私は“冗談だろ、これこそ映画だ”と答えた。
ブライアンは私に短いストーリー構成を書けと言ってきた。
ブライアンはそれをディーリーに持ち込んだが、“最悪だ”と言われた。
ファンチャーの最初の脚本をディックは気に入らなかった。
ストーリーが簡潔すぎたんだ。
単なるロボットの捕獲劇だとね。
父はあの小説に関して保守的だった。
無理もないわ。
小説には大切なテーマがあった。
“人間の定義と理由”がね。
当初からリドリーを誘っていたが、彼は忙しかった。
“エイリアン”の編集中、ディーリーが訪ねてきた。
彼はEMIの幹部だったんだ。
脚本があると言われたが、“もうSFは十分だ”と答えた。
だが読んでみた。“デンジャラス・デイズ”をね。
そして断った。
その時期リドリーの兄が若くして亡くなるという悲しいニュースがあった。
リドリーは気を落とし、仕事でつらさを紛らわそうとした。
父は兄をガンで無くし、悲しみに暮れていた。
父は感情をコントロールできなくなり、それが心の闇を作る原因になったんだと思う。
彼は嫌がったが私は脚本を読むように説得した。
ロケ地を移動しているときだ。
私は言った。
“うまくいってないなら今の仕事を断ればいい”
“こっちのはパワフルで心温まる面白い作品だ”と。
製作会社にいたディーリーの友人は予算における概念がかけ離れていた。
我々の目安に比べ格段に低かったんだ。
まず250万ドルを使って気づいた。
我々の作る世界はその5倍以上の大きさだとラファエルは窮地に陥った。
古い小規模の会社なので予算が取れなかったんだ。
何かがおかしいと思い始め誰かが情報を聞きつけた。
フィルムウェイズが財政危機に陥っているとね。
ほかの会社を探すべく、作った模型を部屋にズラリと並べた。
それをほかの映画会社の重役たちに見せて、映画に興味を持ってもらい契約してもらえるよう試みた。
すでにセットの建設を始めていたわ。
スタッフに給料を払う必要があったのよ。
早く手を打たないとポシャると思い、ワーナーの子会社を経営するアラン・ドット・Jrに話した。
すばらしい脚本だと思ったよ。
すぐに製作に参加した。
ワーナーがアランの会社を通し、約700万ドルを出資して映画の国内配給権を獲得した。
テレビ放映やDVD販売は別だったがね。
予算を編成するためファンチャーと話し合いを続けた。
作品の世界観は進化するので数週間朝から晩まで脚本について話し合ったよ。
リドリーはファンチャーに脚本の質問を始めた。
“我々がいるのはどんな世界なんだ”とね。
“窓の外には何がある?”
“窓の外にも世界がある”と言われて、“外は構うな”と言い返した。
室内だけで物語が進行していたんだ。
私は外の世界を描きたかった。
外側を見ればこの世界にはロボットがいることに信憑性を感じるはずだ。
“アンドロイド”おいう言葉は乱用されてるので、“レプリカント”にした。
何事も答えは1つじゃない。
コインを飛ばし、その裏表で決めるように道を選ぶしかない。
論理は後付けだ。
彼は主役の登場にこだわった。
想像で作った奇妙な未来の世界を見た目で分らせたいと考えていた。
怒りを静めていると、共同製作のアイバー・パウエルがやってきた。
傷つくことを言われたが、そこに彼の優しさを感じとることができた。
彼はチンピラのような話し方をしたが、“リドリーはやる男だ”と言われた。
ファンチャーは初めから脚本に携わったし、製作総指揮でもあったから難しかった。
だが彼の役目はそこで終わったんだ。
“リドリーがお呼びだ”という電話をもらった。
“ブレードランナーについてだ”とね。
“私には無理だ”といつもなら断るところだが、“ワオ!”と叫んだよ。
LAに飛び高級ホテルのスイートに泊まっていると使いが脚本を持ってきた。
あんなことは初めての体験だった。
約2時間かけて読んだが、すばらしい脚本だったよ。
そして約束の時間にリドリーとディーリーが現れた。
感想を聞かれ、“私にこれ以上の実力はない”と答えた。
それを聞き2人は笑った。
世間知らずなことを言ったと思うよ。
映画をよくするのは脚本家ではなく監督の仕事だ。
するとディーリーが“リドリーにアイデアがある”と言った。
それで雇われることになった。
クリスマスの夜、パウエルの家にディナーに呼ばれた。
彼は私の皿に脚本を置いた。
リライトの依頼かと思いながら開いてみると私たちの映画の脚本だった。
最初のページをめくった。
アンドロイドが捨てられ破壊される廃品置き場のシーンだった。
内容を思い出しながら読み進めると、冒頭の面接シーンが始まった。
パウエルに“これは?”と聞くと、“新しい脚本だ”と答えた。
“デビット・ピープルズが書いたんだ”と。
必死に涙をこらえたよ。
世界の終わりだと思った。
ファンチャーは深く傷ついたと思う。
ピープルズの脚本もすばらしかった。
自分の子を奪われた気分だったろう。
穏やかに振る舞うディーリーに“間違ってる”と訴えた。
“誰が書いてるか知らんが私じゃないとダメだ”とね。
ディーリーは冷静に言った。
“お前がバカだから使わない”とは言わず、
“君の脚本には気品があるがこっちが我々の求める脚本だ、映画向きなんだ”と。
映画はよりシンプルであることが大切だが、ファンチャーの脚本は知的な部分が多すぎた。
ピープルズのような脚本家が参加すれば発想の転換になると考えたんだ。
監督として注意しているが、私自身、思惑のありそうな暗い作品を作りがちだからだ。
執筆を始めたが私のその速さに彼らを驚いたようだった。
ファンチャーと比べるとね。
彼の脚本は何度も書き直されたため新鮮味がなかった。
しかも彼らはファンチャーが書き直した脚本をさらに訂正させたんだ。
私でも訂正にはイライラしたよ。
当初の脚本ではバディーはデッカードに殺されていた。
彼には印象的なセリフがあった。
あれは最初の台本読みがあったときだ。
キャストが台本を読むのを聞いていると、ルトガーがそのセリフを読んだ。
雨の記憶について語るシーンだ。
彼は私の様子を盗み見ていた。
私は平常心を装ったが、事実、皆の反応が怖かった。
映画で雨の話をする彼の演技はすばらしかった。
雨の中で涙を流すルトガーは本当に美しいんだ。
ピープルズを起用できて彼らは幸運だった。
“私ならこうしなかった”と映画を見て思ったからね。
彼はリドリーの要望を見抜いたんだ。
古い脚本を忘れ監督の要望に応えることが大切だった。
変更があればそれに伴いいろいろ変わるものだからね。
ファンチャーが書いた最終稿を後にリドリーが見つけた。
しかしピープルズの脚本ほどよくなかったそうだ。
ピープルズの脚本は鋭さがあり、映画向きだった。
リドリーやピープルズは正しく、私は間違っていた。
映画は試練の結晶だよ。
上映された頃は「あぁいい映画なんだろうな。」くらいの漠然としたもので観もしなかったんですが、
「観たらハマる。だけどもっと年取ったら観たい。見た目以上に深そうだから。」って思ったんですや。
「オタク映画だ。」というなかれ。
銀幕映画っていう形容は当てはまらないかもしれないけど、作品としてはスゴイと思う。
何だろう、自分としては、「コーエンの「オー・ブラザー!」くらい深い、サイコー!」と思ってて。
まぁ当時のスタッフが製作時の頃を回想した話を聞いてるだけでも、面白くって仕方が無い。
要するに、いい小説があった。
それを元に脚本を書いた。
監督を口説き落として、引き受けてもらって、その監督が絵をつけて行く。
そういった過程の中で監督が仲の良かった兄弟をガンで失っていた。
心の闇で苦悩していた。
元の脚本では知的すぎて監督がさらに暗い絵をつけてしまいそうだったから、
「これでは映画としてよろしくない。」と思って、別の脚本家に訂正してもらった。
それが思いのほか良い訂正になった。
元の脚本家も認めざるおえなかった。
元々の脚本家は自分の思いが強すぎて、監督の思いまで察する事が出来なかったのでしょう。
それは突然降って湧いた兄弟の死によって生まれた「監督の心の闇」ってこと。
それに必要以上に引きずられて元の自分が保てなくて、「これでは仕事が出来ないと思ったんだ」と想像する。
絵をつけて行く側の思いと脚本家の思いにギャップが生まれた時っていうのは、監督主導で行くしか無いのは間違ってない。
別の脚本家を見つけて訂正させるほど「監督は責任を背負ってる」ってことの裏返しですよね。
「これ以上出来ない。」って辞める訳にもいきませんから。
けど、リドリースコット監督が兄弟を失わなかったら、どういう展開になっていたことでしょう。
そういう背景も考えるとさらに興味が湧く映画なのです。
おまけにこれは映画製作の回想ですが、いろいろに当てはまると思うんですや。
それこそ自分、会社経営、政治、いろいろにね。
置き換えて考えると見えてくる景色もありますやね。
------ 以下、気になった語りを抜粋 ------
1975年、私に投資した人がいた。
彼らは私に同情し、“好きな脚本を書け”と言うのでそうしたがうまくいかなかった。
映画の製作も考えていたので、友人のジム・マクスウェルに相談した。
“SFがいいと思う”と言うと彼がフィリップ・K・ディックの小説を推薦した。
「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」はイマイチだった。
だが、刑事がロボットを追うストーリーに商業性を感じたんだ。
その3年後、友人のブライアン・ケリーが言った。
“商業性はあるから投資者は現れる”
“もうかるぞ”とね。
それが重要だった。
2年間ブライアンに追い回されたよ。
ディックの小説をもとに映画を作りたいと思ったらしい。
だが初めは魅力を感じなかった。
ディーリーに“映画化は難しい”と言われ、私は“冗談だろ、これこそ映画だ”と答えた。
ブライアンは私に短いストーリー構成を書けと言ってきた。
ブライアンはそれをディーリーに持ち込んだが、“最悪だ”と言われた。
ファンチャーの最初の脚本をディックは気に入らなかった。
ストーリーが簡潔すぎたんだ。
単なるロボットの捕獲劇だとね。
父はあの小説に関して保守的だった。
無理もないわ。
小説には大切なテーマがあった。
“人間の定義と理由”がね。
当初からリドリーを誘っていたが、彼は忙しかった。
“エイリアン”の編集中、ディーリーが訪ねてきた。
彼はEMIの幹部だったんだ。
脚本があると言われたが、“もうSFは十分だ”と答えた。
だが読んでみた。“デンジャラス・デイズ”をね。
そして断った。
その時期リドリーの兄が若くして亡くなるという悲しいニュースがあった。
リドリーは気を落とし、仕事でつらさを紛らわそうとした。
父は兄をガンで無くし、悲しみに暮れていた。
父は感情をコントロールできなくなり、それが心の闇を作る原因になったんだと思う。
彼は嫌がったが私は脚本を読むように説得した。
ロケ地を移動しているときだ。
私は言った。
“うまくいってないなら今の仕事を断ればいい”
“こっちのはパワフルで心温まる面白い作品だ”と。
製作会社にいたディーリーの友人は予算における概念がかけ離れていた。
我々の目安に比べ格段に低かったんだ。
まず250万ドルを使って気づいた。
我々の作る世界はその5倍以上の大きさだとラファエルは窮地に陥った。
古い小規模の会社なので予算が取れなかったんだ。
何かがおかしいと思い始め誰かが情報を聞きつけた。
フィルムウェイズが財政危機に陥っているとね。
ほかの会社を探すべく、作った模型を部屋にズラリと並べた。
それをほかの映画会社の重役たちに見せて、映画に興味を持ってもらい契約してもらえるよう試みた。
すでにセットの建設を始めていたわ。
スタッフに給料を払う必要があったのよ。
早く手を打たないとポシャると思い、ワーナーの子会社を経営するアラン・ドット・Jrに話した。
すばらしい脚本だと思ったよ。
すぐに製作に参加した。
ワーナーがアランの会社を通し、約700万ドルを出資して映画の国内配給権を獲得した。
テレビ放映やDVD販売は別だったがね。
予算を編成するためファンチャーと話し合いを続けた。
作品の世界観は進化するので数週間朝から晩まで脚本について話し合ったよ。
リドリーはファンチャーに脚本の質問を始めた。
“我々がいるのはどんな世界なんだ”とね。
“窓の外には何がある?”
“窓の外にも世界がある”と言われて、“外は構うな”と言い返した。
室内だけで物語が進行していたんだ。
私は外の世界を描きたかった。
外側を見ればこの世界にはロボットがいることに信憑性を感じるはずだ。
“アンドロイド”おいう言葉は乱用されてるので、“レプリカント”にした。
何事も答えは1つじゃない。
コインを飛ばし、その裏表で決めるように道を選ぶしかない。
論理は後付けだ。
彼は主役の登場にこだわった。
想像で作った奇妙な未来の世界を見た目で分らせたいと考えていた。
怒りを静めていると、共同製作のアイバー・パウエルがやってきた。
傷つくことを言われたが、そこに彼の優しさを感じとることができた。
彼はチンピラのような話し方をしたが、“リドリーはやる男だ”と言われた。
ファンチャーは初めから脚本に携わったし、製作総指揮でもあったから難しかった。
だが彼の役目はそこで終わったんだ。
“リドリーがお呼びだ”という電話をもらった。
“ブレードランナーについてだ”とね。
“私には無理だ”といつもなら断るところだが、“ワオ!”と叫んだよ。
LAに飛び高級ホテルのスイートに泊まっていると使いが脚本を持ってきた。
あんなことは初めての体験だった。
約2時間かけて読んだが、すばらしい脚本だったよ。
そして約束の時間にリドリーとディーリーが現れた。
感想を聞かれ、“私にこれ以上の実力はない”と答えた。
それを聞き2人は笑った。
世間知らずなことを言ったと思うよ。
映画をよくするのは脚本家ではなく監督の仕事だ。
するとディーリーが“リドリーにアイデアがある”と言った。
それで雇われることになった。
クリスマスの夜、パウエルの家にディナーに呼ばれた。
彼は私の皿に脚本を置いた。
リライトの依頼かと思いながら開いてみると私たちの映画の脚本だった。
最初のページをめくった。
アンドロイドが捨てられ破壊される廃品置き場のシーンだった。
内容を思い出しながら読み進めると、冒頭の面接シーンが始まった。
パウエルに“これは?”と聞くと、“新しい脚本だ”と答えた。
“デビット・ピープルズが書いたんだ”と。
必死に涙をこらえたよ。
世界の終わりだと思った。
ファンチャーは深く傷ついたと思う。
ピープルズの脚本もすばらしかった。
自分の子を奪われた気分だったろう。
穏やかに振る舞うディーリーに“間違ってる”と訴えた。
“誰が書いてるか知らんが私じゃないとダメだ”とね。
ディーリーは冷静に言った。
“お前がバカだから使わない”とは言わず、
“君の脚本には気品があるがこっちが我々の求める脚本だ、映画向きなんだ”と。
映画はよりシンプルであることが大切だが、ファンチャーの脚本は知的な部分が多すぎた。
ピープルズのような脚本家が参加すれば発想の転換になると考えたんだ。
監督として注意しているが、私自身、思惑のありそうな暗い作品を作りがちだからだ。
執筆を始めたが私のその速さに彼らを驚いたようだった。
ファンチャーと比べるとね。
彼の脚本は何度も書き直されたため新鮮味がなかった。
しかも彼らはファンチャーが書き直した脚本をさらに訂正させたんだ。
私でも訂正にはイライラしたよ。
当初の脚本ではバディーはデッカードに殺されていた。
彼には印象的なセリフがあった。
あれは最初の台本読みがあったときだ。
キャストが台本を読むのを聞いていると、ルトガーがそのセリフを読んだ。
雨の記憶について語るシーンだ。
彼は私の様子を盗み見ていた。
私は平常心を装ったが、事実、皆の反応が怖かった。
映画で雨の話をする彼の演技はすばらしかった。
雨の中で涙を流すルトガーは本当に美しいんだ。
ピープルズを起用できて彼らは幸運だった。
“私ならこうしなかった”と映画を見て思ったからね。
彼はリドリーの要望を見抜いたんだ。
古い脚本を忘れ監督の要望に応えることが大切だった。
変更があればそれに伴いいろいろ変わるものだからね。
ファンチャーが書いた最終稿を後にリドリーが見つけた。
しかしピープルズの脚本ほどよくなかったそうだ。
ピープルズの脚本は鋭さがあり、映画向きだった。
リドリーやピープルズは正しく、私は間違っていた。
映画は試練の結晶だよ。