江戸城(千代田城)
幕末期の江戸城総面積は堀を含めて30万6760坪(東京ドーム21.7個分)です、これは内郭の面積で城郭としては浅草橋から四谷、虎の門、新橋に至る外堀に囲まれた範囲を含むため東西55km、南北3.5kmと現在の千代田区、中央区の埋立地を除く範囲が江戸城の総面積となる巨大な城郭でした。
城の構造は本丸を囲むように東側に二の丸、三の丸、南側に西の丸、西の丸下、南西に吹上、北西に北の丸を配し、それらを分かつ堀が渦巻き状に展開しています、堀の大半は水堀でした。
江戸城の天守は五層であったとされますがが、明暦の大火で灰塵に帰した以降、万治元年(1658)に天守台石垣が完成するも会津藩主の保科正之の「戦が無くなった今日、天守はもう要害のとしての役割をなさず」という進言により工事は中止され以降天守閣は建つ事がありませんでした。
屏風絵にある江戸城、明暦の火災前で天守が描かれています、本丸御殿で一番面積を占めていたのが大奥だそうです(千代田城)
城を囲む堀と門の略図 皇居の空撮
(ウィキペディアより抜粋)
大手門(江戸城の正門) 常盤御門から日本橋に続いています 内桜田門(桔梗門)①
丸の内、正面に改修中の東京駅が見えます 内桜田門(桔梗門)②
皇居前広場から見た大手町界隈 右は警視庁、東京タワーも見えます 坂下門と宮内庁
坂下門
西の丸大手門(一般的には正門と呼ばれています)
正門(西の丸大手門)に向かう二重橋
桜田門
外側の高麗門(こうらいもん)と内側の渡櫓門(わたりやぐらもん)の二重構造になっています。間に桝形とよばれる四角形の広場がある。この広場は門から打って出る兵の待機場所であり、また敵に攻められた時はここに敵兵を引き入れ周囲か弓・鉄砲で攻撃する。大正12年(1923)の関東大震災で一部が破損した為、鋼鉄土蔵造りに改修されています。
「安政の大獄」で時の人となった幕府大老井伊直弼は安政7年(1860)3月24日、この門の外で水戸藩浪士等に暗殺された「桜田門外の変」が起きています。
桜田門外の変のイメージ図
桜田門(渡櫓門)
外桜田門(高麗門)
外桜田門と霞が関のビル群
国会議事堂が顔を出している 日中でもジョギングする人が 最高裁判所
国立劇場 半蔵門前の東京FM 遊歩道脇にアジサイが咲いていました
半蔵門
三河時代から徳川家の家臣でであった服部家、「半蔵」は服部家主の通称、一般的には二代正成が有名、伊賀の与力、同心と共にこの地に屋敷を構えていた事に由来すると言われております、伊賀忍者の棟梁と言った印象が強いのですが、服部家が忍者であったのは初代半蔵保長の時代と言われております、二代目半蔵正成以降は徳川将軍家に仕えた江戸城の警護を役目とした伊賀同心の支配役で武士でありました。
半蔵門① 半蔵門②
英国大使館 千鳥ヶ淵公園(桜の名所です)
旧近衛師団司令部
明治24年(1891)設立、昭和20年(1945)に廃止された大日本帝国陸軍の一師団、一般の師団とは異なり最新鋭の組織として天皇、皇居を警護する特殊な役割を担う集団でありました、
第二次世界大戦(太平洋戦争)終結時、天皇がラジオでポツダム宣言受諾を国民に知らせる際、陸軍省軍務局軍務課員が森近衛第一師団長に決起を促すが拒否された結果、師団長等を殺害、偽の師団長命令を出して守備隊を欺き天皇の声が録音された「玉音レコード」を奪おうとして失敗するという「宮城事件」の舞台となった場所でもありました。
しばらく廃墟となっていましたが現在は東京国立工芸館となっています、外観は往時の姿を残しており重要文化財に指定されています。
旧近衛師団司令部(現在は工芸館)
北の丸公園、日本武道館があります
北桔梗門
門を入ると本丸です、天守閣が建たなかった天守台の石垣が見えます(東御苑として一般に開放されております)
北桔梗門から竹橋門に続く石垣 竹橋門の碑
平河(平川)門 不浄門とも言われ罪人、死者がここから運び出されました、また大奥からの出入りもこの門からでした
重厚な造りの門
高麗門 間もなく大手門です ジョギング? ウォーキング?の若い女子
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