江戸城
天正18年(1590)に徳川家康の居城となった、当時の江戸城は簡素な造りであったが慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で東軍が勝利して以降、家康は同8年に後陽成天皇から武家の棟梁である「征夷大将軍」に任ぜられ、名実共に支配者としての地位を確立した。
この年に家康は江戸城の大改修に着手して、築城の名手である伊予今治城主の藤堂高虎に縄張りを命じ、全国の大名を総動員した天下普請が開始された、神田の高台の土地を切り崩して日比谷入江の埋め立て、道三堀の削掘を始め縦堀、横堀を掘って水運路を開き市街地の造成が進められた、併せて神田・玉川上水を江戸市中に引き込み、都市としての機能を拡充、三代将軍家光の時代に都市機能を完成させた。
当時は城の象徴として五重の天守閣がそびえていたが、明暦3年(1657)の大火で焼失した、家光の異母弟の保科正之の「戦争の無くなった時代には天守閣は不要」との助言もあり再建はされることはなかった。
現在、天皇家がお住いの御所は江戸時代に次期将軍や隠居した元将軍が移り住んだ「西の丸」と言われるエリア、本丸は幕府の政務を司る区画(表)、将軍の居住区画(中奥)そして女性1,000人が住んだと言われる将軍の私邸的区画(大奥)で構成される、二の丸は御殿や庭園があり将軍の別荘的なエリアと言える、なお本丸・二の丸跡は東御苑として一般開放(無料)されている。
大手門 昭和20年の戦災で焼失した大手門渡櫓の上にあった鯱(明暦3丁酉とある)
丸の内のビル群を背景にした大手門渡櫓 皇宮警察の建物
幕閣(大名)の登城
登城する幕閣(大名)の多くは大手門を入った同心番所前の大手三之門(下馬門)で駕籠を下り、徒歩で中雀門を通って本丸御殿に入る、登城時間は朝四ツ(午前10時)に登城、昼八ツ(午後2時)下城が勤務時間は4時間前後が通常でと言われます、なお登城時に従ってきた家臣たちは下城まで下馬門前で待機することになり、その間に他藩の人間と情報交換を行ったとされ「下馬評」と言う言葉はその時に生まれたと言われている。
大手門から入った最初の番所、下級武士である同心が詰めており、登城する大名の家臣の監視を行った
百人番所、甲賀・伊賀・根来の忍び4組(100人)が常駐して警護・監視の役割を担っていた
大手三之門 百人番所
大手三之門と中雀門の間にある中之門跡 大番所前の松の木の剪定が行われていた
大番所
中之門から見た百人番所・丸の内ビル群
登城する大名は大手門をくぐり同心番所、百人番所、大番所を通って徒歩で中雀門を通ると本丸に至る
富士見櫓、現存する唯一の三重櫓で明暦の大火で天守閣が焼失後、天守閣の代用された時代もあった
松の大廊下
本丸大広間から将軍との接見所の白書院をつなぐ全長50mの廊下、廊下に沿った襖に狩野派による浜の松と千鳥が乱舞する絵が描かれていたことから「松の廊下」と呼ばれた、中奥には「竹の大廊下」という長い廊下がある
本丸跡(表・中奥・大奥と続いていた)
宮内庁楽部桃華楽堂
天守台
天守閣は寛永14年(1637)、第三代将軍家光の代に完成、地上58m、石積みは44㎡、高さ18m、天守閣には金色の鯱を頂く外観五層、内部六階の天守があったが、明暦の大火により焼失、現在は基礎石の石垣(約10m)が残されています。
天守台に登るスロープが造られていた
見事な天守台の石積
天守台に一番近い北桔橋門、ここからも入れます
想像以上に広かった天守台
天守台の石積、その先には本丸御殿跡の芝生、そして丸の内ビル街
大奥
敷地面積は6,000坪と本丸の56%を占める、二代将軍秀忠が造り、三代将軍家光が完成させた「将軍の跡継ぎ」を残す為に造られた将軍のプライベートゾーン、大奥には250人の奥女中、部屋方と呼ばれる下働き、あわせて1,000人が住んでいたと言われる。
大奥の入口に当たる広敷には事務方の男性役人が常駐していたため、大奥御殿との間の錠口、長局との間の7ツ口により仕切られていた、なお将軍が大奥に出入りする通路は、将軍の居住区画「中奥」から大奥に通じる将軍の専用廊下にある紐を引いて鈴を鳴らして合図を送り、出入り口の「御錠口」の開錠させたことから「お鈴廊下」と言われる。
天守台を下ると広大な面積を占める「大奥」があった場所です
本丸と二の丸を結ぶ汐見坂
汐見坂下の白鳥堀 二の丸庭園を警邏中の皇宮警察
吹上御所にあった諏訪の茶屋、明治45年に再建されていた
二の丸庭園は藤が終わり、この時期は特に見るものが無い、これからショウブが咲きだす
池に「コウホネ」の花が咲いていた
都心の一等地・丸の内にある二の丸庭園、ここまでは騒音も聞こえてこない、贅沢な空間だ