水戸街道・松戸宿
江戸時代、日本橋と徳川御三家のひとつ水戸徳川家とを結んでいたのが水戸街道、日本橋から数えて千住、新宿(葛飾区)の次が松戸宿です、幕府が政治的に重要視した水戸街道は「脇往還」でしたが 、五街道などと共に松戸宿までが道中奉行の支配下に置かれていました。
日本橋から水戸までは20宿(29里31町/117km)、参勤交代時には伊達、相馬、平など二十余藩がこの街道を利用していました。(水戸藩は江戸常勤の為、参勤交代はありません)
松戸宿は江戸川に面しており、江戸から水戸に向かうには金町松戸関所(東京都葛飾区)を通り、舟で渡る必要がありました、松戸宿には本陣、脇本陣、高札場、問屋場が設けられており宿場としての機能が整備されました。
旧水戸街道沿いにある松戸市民劇場前にあった案内
戸定邸
http://www.city.matsudo.chiba.jp/tojo/
水戸徳川家11代藩主徳川昭武(15代将軍慶喜の実弟)が明治17年(1884)に松戸に造った別邸です(国の重文)
正式な名称は「旧徳川家住宅松戸戸定邸」、現在は戸定が丘歴史公園として開放されています。
なお、戦国時代にはこの場所には松戸城があり、小金城主高城氏(松戸市大谷口)の出城として用いられたと云われています。
茅葺き屋根の正門 広大な邸内には資料館、母屋、庭園があります
紅梅が咲き始めていました 白梅はまだつぼみ
江戸川堤沿いあった本陣跡地の案内板 本陣跡はマンションになっていました、奥は江戸川の堤
松戸の鎮守である松戸神社 旧街道沿いにはまだ、古い建物が見受けられます
元和元年創建の松龍寺 江戸川に流れ込む坂川に架かるレンガ橋
浅利道場跡
街道沿いの寺院、宝光院と善照寺の間にあった「浅利道場」は小野派一刀流で名を轟かせた浅利又七郎が開いた剣術道場です、当時、陸奥の国から松戸に移り住んだ馬医師の千葉中衛門(浦山寿貞)は息子の周作をこの道場に入門させて研鑚を積ませました、文永8年(1823)に周作は江戸に出て、新しい流派(北辰一刀流)を興し道場「玄武館」を開きます。
周作は従来の剣の伝授12段階を簡素化し、初目録、中目録、大目録皆伝と3段階にしたり、庶民に分かりやすい教え方で、人気を集め、門弟の数も増えて江戸時代後期には「力の斉藤」(練兵館)、「位の桃井」(志学館)と並び「技の千葉」(玄武館)と称される様になります。
司馬遼太郎は著作『北斗の人』で周作の半生を書いていますが、その中で当時の「松戸宿」を次のように描写しています。
「江戸川の東岸に、松戸というにぎやかな宿場がある。現在は千葉県松戸市になっており、東京の近郊にあたる。いまよりも江戸時代のほうが、松戸は栄えたであろう。すくなくとも重要な聚落だった。」
宝光寺入口に立つ「千葉周作修行之地」碑
坂川沿いにある宝光院 善照寺
旧水戸街道はJR松戸駅から離れた場所を通っており、そのまま進むとR6号と合流して水戸を目指しています。