快晴の日に思うこと

2019-05-04 | 日記

          

今日は一日いい天気になった。それで朝から本を読んでる時間がなかった。それで何をしていたかと言えば、車の助手席に座って、セブン・イレブンで缶コーラを買って、それをお供に一日遠出をしていて、頭がほぼスカイブルーに染色されてしまって、少年のような遠足気分で帰宅したのだった。無精髭のゴッホのような麦藁帽子が欲しくなるような、向日葵はまだ咲いていないが菜の花の咲く初夏のような日だった。しかし、遠くウグイスの鳴く菜の花畑は薄黄色の思い出を、季節に託して揺れているのである。

写真は9時ころ撮ったもので、やはり2階の窓から覗いたもので、こんな景色でも一日の記録になって、この一瞬のシャッターの風景に僕の一生が反映されているような気がしてならないのである、田んぼの水と家が数軒あるだけのことではあるけど、ここにも夜になると夜がやって来て、何も見えなくする。何も見えなくなるとカエルの声が喧しくなるのである。そこで今夜はこの水面にも星座が出現するに違いない。また一日が過ぎて行ってしまう。遠出をして来て、今朝撮ったこの写真を見ながらブログを書いているが、目を閉じて今日見て来た海の光を繰り返している。海の中の水たまりにはレストラン “ キーウエスト ” の “ ラヴラヴシーガル ” の看板が映っていて、看板目当てにその “ ラヴラヴ ” を探索して見たが見つからず、柏崎市米山のエリアは僕の体力では理解不能に陥るのだった。ということをここに書いておいてもいいだろう。今日の海はガラスのカケラであった。すでに通称 “ 恋人岬 ” へ行く小道は賑わっていたが小道の先が崖っぷちになっているようで、とてもじゃないが、浜焼きの飯蛸でも食っていた方が身のためと思われるのだったから、それはそれであのカミーユ・コローの絵を彷彿するのである。

『高校教師』のかつてのTVドラマの先生と女生徒のすべてを捨てての逢引の駅は、日本で一番海に接近しているというJR青海川駅で、もう温まってしまった残りの缶コーラの黒いエキタイのすべてを捨ててしまいたいくらいに、展望のいいレストランは早仕舞いだったらしくて、つまらない存在にこそ、またあるいは逢引の駅のように今はひっそりとしていることが、僕に人生を教えているのである。最初の話に戻って「 それで何をしていたかと言えば 」ということの中にも人生性があるのである、ということも確かなことだろう。

ここにまた藤原定家の歌を『 全歌集 上 』から引いて見る。

        こいしなばこけむす塚に柏(かへ)ふりてもとの契りのくちやはてなん

恋死にをしたら、自分が埋められた塚には苔も生えて、植樹した柏の木も老樹になって、契った約束も朽ちて果ててしまうのだろうか、というのである。しかしここで、JR青海川駅の海の契りはかつてのフィクションを考えることも感じることもさせてくれて、日本海の恋愛の海潮音はいつまでも朽ち果てないのである。

いつかの日に、サピアンス夫人の晩餐会に招かれる機会に恵まれたら、上記のようなことを缶コーラのせいにしてしゃべって見ようと思う。アテネの丘ならぬヨネヤマの崖の上から鳥瞰する美しいフィクションのことを、祈祷のようにしゃべって見たい。海潮音、苔むす塚に木は古りても、昔の契りは朽ち果てることはない、と。

 


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