手紙

2012-02-27 | 日記

角川書店1973年発行 『 立原道造全集 第五巻 書翰 』 より、昭和13年7月15日 ( 金 ) 深澤紅子宛書翰。

「 夕ぐれがもうくらくしはじめた窓のそばでこの手紙を書きはじめます。あかりはまだともしません。風が屋根屋根をこえて来て、僕の部屋に吹きいります。それはたいへんに涼しく、慰めのやうに僕の心をいたはります。僕の心はすこし傷ついてゐるやうなところもあるけれど、それらの傷を、それはやさしく撫でてゆきます。

花のお招きにたうとう伺ひませんでした。それから旅の先々でのいいおたより何度もありがたうございました。お伺いしようとおもひながら行かれずにゐる僕も、約束をやぶることでずゐぶん苦しみました。しかし、いろいろなことのために、たうとう何も出来ませんでした。果たされなかった約束は美しかつたと、いひたい気持ちもします。

いまたいへん紅い爽やかな夕雲が空にあります。それで僕の部屋までうすい紫がかつた光にかがやかされます。そして部屋のなかでは隅の方で低い声で、シューベルトの鱒といふ音楽をラジオがやつてゐます。あんなに紅い夕雲。そしてもつと淡く青い空の色。このやうなひとときに生きてゐることが、一切を拒絶してもなほ美しいのです。果されなかつた約束の悔恨さへも、あの移ろひやすい色あひの果敢なさは僕にとつて救ひとなります。 ( 以下略 ) 」

 果たされなかった約束ばかりが美しいし、淡く青い空の下では一切が美しいのである。夕暮れが世界を暗くし始める時、この果敢なさが立原の一つの救いなのであった。夕暮ればかりがいつも美しい。


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