茶の間に広げた六曲一双の屏風である。10畳の間が狭いほどに、屏風の絵が楽しく迫ってくる。藤の花咲く下で、子犬が土筆の生える庭で遊んでいるのが僕の気持ちを休めてくれる。睦まじい二羽の鶏とヒヨコ、空中を急降下する雀、静かさをつんざくような啄木鳥のくちばしがいい。これらの小動物は実際、画中を飛び回っているようであるのが、古の京都の巷間の現実でもあることを、これらの絵を見ているとそう思うのである。絵を見る楽しさを、改めてここに来て感じ入るのである。作者については、まだ真贋が分からないから何とも言えないが、真であっても、フェイクであっても、僕はこれらの絵を鑑賞したり絵に包まれたりして、そしてここに絵に囲まれて熱い珈琲を淹れ、また飲みながら十八世紀京都の町に思いを馳せるのである。白磁扁壷に野草を活けて、日曜日朝の時間が経過して行く。
永劫の根に触れ
心の鶉の鳴く
野ばらの乱れ咲く野末
砧の音する村
樵路の横ぎる里
白壁のくづるる町を過ぎ
路傍の寺に立寄り
曼荼羅の織物を拝み
枯れ枝の山のくずれを越え
水茎の長く映る渡しをわたり
草の実のさがる藪を通り
幻影の人は去る
永劫の旅人は帰らず ( 西脇順三郎詩集『旅人かへらず』から最後の168番を引用 )