串田孫一著『砂時計』

2019-06-17 | 日記

                  

この本は総皮革で、著者の水彩画が一枚入っている。串田孫一 (1915-2005) は哲学者にして詩人、また岳人でもある。山のエッセーも面白い。また、この『砂時計』( 文京書房 1980年11月30日発行 限定版 ) も日常の卑近な話題を詩的な文体で表現していて、豊かな音楽を聴くようである。言葉によって日常の風景がこんなにも美しい情景になるのである、のは一体何故だろう。「湖」という文章がある。ほんの一部、その中の引用である。

その桟橋の先に立っていると、湖面に動く晩夏の光の点滅が、ただ自然の現象というようには思われなかった。自然の動きには違いないが、確かに私に対して、頻りに何かを思い出させようとしているように思えたり、またこれまで考えたこともない世界の仕組の奥の、大切な事柄を教えようとしているようにも思えた。

「晩夏の光の点滅」を、単に明滅している光ではなく、そこに「光」のメッセージを感知するのである。通常の現象を、言葉という知的な表現に換言しようとする時、「考え」る人は現象の「奥」にポエジーを感知するのかも知れない。僕も「その桟橋の先に」ちょっと立ちさえすれば、僕も「考える人」になれるかも知れない、という話である。従って、平凡な光景というものは、いつも大切な「奥」を隠し持っているのである。