夕暮れの帰り道について考える

2019-06-20 | 日記

            

東から西の方、長岡市街地を見るに、もうすぐ日が沈み行く時間。ここに一日の終わりが始まるのである。夕陽に霞んで、淡い存在としての風景が水平線上に並んである。遠くにいるだろうナガオカの市民の姿はどこにも見えはしないが、見えない中でも居るのである。自然の世界では不可解なことは何もない! あるのはただ神秘な何物かである。人間世界のことはそれほどのものではないのだろう、この暮れ行く淡い世界のほとんど霞む美を目の前にしては! 一時的にでも哀愁的時間を持つことは一日の中では必要であると思う。喪服の時間である。そうして何かに哀悼することは自然的世界をデフォルマシオンすることである。僕にとってのデフォルマシオンとは、エロス (生命力) について考えることである。僕は自分の人生に “ 変形する ” という力を加えなければならないのである。力学としてのエロチシズムである。これも、『夕陽妄語』( かつて、加藤周一が新聞に連載していたエッセーである ) ならぬ、一つの夕陽の妄想である、と思う。一日にも終わりがあるというは、何と素敵なことだろう!