森田童子がその肌にヒリつくようなリリックに込めたものは、おそらく虚構(フィクション)としての「ある青春譜」だった。童子が色の濃い丸サングラスの下に隠したその素顔を決してあらわにすることがなかったように、童子のリリックも虚実の皮膜におおわれている。
たとえば、高校を中退した童子が、うたを歌うきっかけになったのが旧友の死を知ってからという伝説がある。しかし、それはどうやら自死のようだとリリックから推測するのみで真意のほどは確かめようもない。彼女自身は高校反戦の闘争に否応なく巻き込まれたようだが、どのようないきさつがあったのか分からぬが、その高校をやめている。学歴は高校中退なのだ。
しばらく、何もせずブラブラしていたが、彼女の父親は「これからの時代は、余暇や暇な時間をもてあまさず耐えなければならない」と言って、文句も言わずに金をくれたそうだ。童子は毎日のように、仲間が集まるある喫茶店に通っていた。その頃、童子がたまたま行った旅先でJ & Kという音楽出版の面々に偶然に会う。名刺をもらい、すぐ尋ねてゆくという約束をする。しかし、その約束は2年後になり、1975年(昭和50年)約束を果たしにゆくと音楽出版の方は覚えており、すぐさまシングルデビューの話が持ち上がった。童子はよほど、鮮烈な印象をその音楽出版のスタッフに与えたらしい。以後の童子のアルバム制作は、このMusic Pubrishers J & Kがプロデュースしポリドールレコードから発売されることになる(のちワーナー・パイオニアへ移籍し、ポリドール時代のアルバムが「森田童子全集」として再販される)。いわば、シンガー「森田童子」の仕掛人である。
1976年(昭和51年)1月の「ルイード」から、年間を通してのライブハウス出演の日々が始まる。
そして、童子は昭和55年頃つまり1980年頃から68/71黒色テントなどの小劇場運動集団(アングラ劇団)とコンサートをともにしてゆくようになる。この頃から、意図的にコンサート会場を早稲田小劇場、池袋文芸坐地下などで連続三日間とか、五日間などの演劇公演のようなスタイルで、敢行することを好むようになっている。
そして、その「滅びの美学」のようなライブコンサートを「地下室」とか、「夜行」とか「ねじ式/黒テント劇場」とか名付けるのだ。
「いま黒い天幕の中は、色鮮やか??悲しい玩具箱のようです。
都市は密集し、巨大化された私達の街は急速に管理化されています。
……あと何年か後には、東京にテントを建てるという行為は、殆んど不可能になるでしょう。私達のコンサートが不可能になってゆく様を見て欲しいと思います。そして、私達の歌が消えてゆく様を見て欲しいと思います。
……そして、今度のテント劇場は、或る意味で私達のコンサート活動の終末であるといえるかもしれません。
一つの終りの時代へ向けて
今一度、??私たちのせつない最後の夢を見て欲しいと思います。」(森田童子/昭和56年)
(つづく)
「恐らく僕はその音曲を聴かないだろう。封印されたのではない。あの感覚は僕の中に鮮やかにあるが、それは羊水のようなものに違いない。」
ここまで言うと森田童子を「母」(「マザー・スカイ」?)にしたのかと思いましたぜ!?
歌を聴くというより、彼女と一対一で向き合う無言の会話に浸っていたように思う。
闘争に疲れ、その先の理想を見出せず、懐疑と絶望という漠然とした不安の中で死淵を見つめ、生の意味を再び自問する我が身を包み込んでくれた。
レコードプレイヤーが壊れて久しい。もうその言霊は聴けない。しかしあの旋律と詞は今も頭に過ぎる。例えプレイヤーを再び手にしたとしても、恐らく僕はその音曲を聴かないだろう。封印されたのではない。あの感覚は僕の中に鮮やかにあるが、それは羊水のようなものに違いない。