昨年、2008年までに思想界を、かまびしく騒がせていた「1968年革命論」というものがあった。それは、1968年をこの国、および世界におけるエポック・メーキングの年として意味付けるものだったが、おもにその論調はいわゆる「1968年」が「政治の季節」として「革命的」だと言うものだっただろう。その「論」に欠落していたのは、「文化革命」言い換えるならば「もうひとつの生き方(ライフ・スタイル)」(現在で言えば「スローライフ」や「エコロジカルなライフスタイル」)としての視点だったように思う。
だとしても、むしろ「政治の季節」としても「1967年」にこそ、60年安保世代と断絶するエポック・メーキングな萌芽があったことを切り捨てるものだった。
のちに「70年安保闘争」と位置付けられる闘いも、その実1967年から始まっていたのである。いわゆる「第1次羽田闘争」、「第2次羽田闘争」であり「佐藤(首相)訪米阻止闘争」である。
カウンターカルチャーで言うところの「もうひとつの生き方」は、政治闘争、三派全学連による街頭闘争に遡ること半年前の1967年の春4月16日、17日に産声をあげた。
と同時に、それはまだ「バム・アカデミー」を名乗っていたのちの「部族」の旗揚げのような「ハプニング」セレモニーとして敢行された。16日の早稲田戸山ハイツ野外ステージから新宿西口まで行進した「世界の滅亡を予告する自由言語による集会と行列」のウォーキングと、17日の「安田生命ホール」におけるポエトリー・リィディング・イベントである。この「行進」の模様は、『アサヒグラフ』に写真入りで掲載され実質的な「バム・アカデミー=部族」のマスコミ・デビューとなる。
現在の早稲田大学工学部校舎近くの戸山ハイツ野外ステージ前に集合した面々はプラカードをかかげて鐘や太鼓を打ち鳴らし明治通りを渋谷方向へ歩き、新宿通りを右折、新宿駅東口グリーンハウス前を経由して、西口まで行われた。この行進は、参加人数としても少人数(50名?)、多くのすれ違った市民には何を訴えたいのか理解不能のデモンストレーションのような「行列」だったが、その「行為」はこの国の中に「聖なる野蛮人(ホーリー・バーバリアン)」であることを自覚した意識的な「浮浪者(バム)」が存在することを誇示する「ハプニング」だった。
先頭を歩く若き日のナナオ、ポンそして三省。さらにマモがおり秋葉ナンダそしてゲーリーがおり、さらにゼロ次元の面々が加わっている。
手に掲げたプラカードで、なにやらデモらしくおもった通行人もそこにかかれた言葉にきっと首をかしげたに違いない。
そこにはこう書かれてあった。
「ワレラハ未ダ知ラレザル文明ノ原始人デアル」。
(さらにさらにつづく)
だとしても、むしろ「政治の季節」としても「1967年」にこそ、60年安保世代と断絶するエポック・メーキングな萌芽があったことを切り捨てるものだった。
のちに「70年安保闘争」と位置付けられる闘いも、その実1967年から始まっていたのである。いわゆる「第1次羽田闘争」、「第2次羽田闘争」であり「佐藤(首相)訪米阻止闘争」である。
カウンターカルチャーで言うところの「もうひとつの生き方」は、政治闘争、三派全学連による街頭闘争に遡ること半年前の1967年の春4月16日、17日に産声をあげた。
と同時に、それはまだ「バム・アカデミー」を名乗っていたのちの「部族」の旗揚げのような「ハプニング」セレモニーとして敢行された。16日の早稲田戸山ハイツ野外ステージから新宿西口まで行進した「世界の滅亡を予告する自由言語による集会と行列」のウォーキングと、17日の「安田生命ホール」におけるポエトリー・リィディング・イベントである。この「行進」の模様は、『アサヒグラフ』に写真入りで掲載され実質的な「バム・アカデミー=部族」のマスコミ・デビューとなる。
現在の早稲田大学工学部校舎近くの戸山ハイツ野外ステージ前に集合した面々はプラカードをかかげて鐘や太鼓を打ち鳴らし明治通りを渋谷方向へ歩き、新宿通りを右折、新宿駅東口グリーンハウス前を経由して、西口まで行われた。この行進は、参加人数としても少人数(50名?)、多くのすれ違った市民には何を訴えたいのか理解不能のデモンストレーションのような「行列」だったが、その「行為」はこの国の中に「聖なる野蛮人(ホーリー・バーバリアン)」であることを自覚した意識的な「浮浪者(バム)」が存在することを誇示する「ハプニング」だった。
先頭を歩く若き日のナナオ、ポンそして三省。さらにマモがおり秋葉ナンダそしてゲーリーがおり、さらにゼロ次元の面々が加わっている。
手に掲げたプラカードで、なにやらデモらしくおもった通行人もそこにかかれた言葉にきっと首をかしげたに違いない。
そこにはこう書かれてあった。
「ワレラハ未ダ知ラレザル文明ノ原始人デアル」。
(さらにさらにつづく)
どなたの意識から湧き上がった言葉かは知りませんが、いわゆる他者と呼ばれる存在から発せられた言葉で、これほどまでに「私」を感じたものはありません。
1967年当時、私はまだ10歳です。きっとどこかでなにかで読んで、無意識のままにこの言葉が潜在意識に沈澱していたんでしょうね。
「ワタシハ新シキ文明ノ原始人」
そんな意識で生きて来て、三十代後半で山尾三省さんと知り合いました。
(遅れてきた青年は、こどもの頃から部族だったんだろうな)
ジュンさんの『1967年論』を読んで、改めてそう思いました。
雷赤鴉族のポスターが大好きでした。誰が描いたか知らないままに、後日、それが山田ポンさんの手によるもので、部族新聞第一号の裏表紙を飾ったものと知りました。
もうひとつありましたよね、キャッチーなフレーズ。
(我々は同じ神によって同じ夢を見せられている)
だったか…そんなニュアンスの言葉です。
この夢はつながっていくのだろうと思います。
だからこそジュンさんには、起点となったこの1967年のさまざまな現象事象心象をキッチリと言葉にして遺していただきたいのです(はい。私はしつこいですよ~(笑)
よろしくお願いしちゃいました(すでに過去形!)
もっともっと読みたい!
でも、励まされます。この国の「戦後史」においても、「カウンター・カルチャー史」においても、ターニング・ポイントとなる1967年をどれほど描き切ることができるのかわかりませんが、こんな連載形式のブログ記事って他にはないね(笑)。
筆は、いやタイピングの内容はあちこち飛ぶと思いますが、楽しみに読み継いでくださいね。
君はおそらく、ネットカフェのPCからブログを直接読みに来ているのですね。