風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

池袋モンパルナス探訪ツアー報告(1)

2008-09-23 23:12:09 | アングラな場所/アングラなひと
Montparnasse_sakura_1 池袋モンパルナス探訪ツアーは、ツアーの成立する最小携行人数三名で、行われました。待ち合わせ場所の池袋西口広場「東京芸術劇場」エスカレーター前に集まったのは、ボク、13号倉庫さん、そして始めてお目にかかるデニウソンさん。あいにくの小雨模様でしたが、当日参加のひとがいるかもという淡い期待を抱いて13:15まで待ちましたが、それ以上は誰も現れませんでした。

 小雨の中を池袋モンパルナスのミニチュアセットがある豊島区郷土資料館へ行くも、なんと第三日曜は休みなんだと! 普通の日曜日は開館しているのに第三日曜は休みだそうでツアーはのっけから危機におちいります。気を取り直して、立教通りへ、今回13号倉庫さんが楽しみにしていたという(直接は池袋モンパルナスとは関係がない)江戸川乱歩旧居へ。いまも平井太郎の表札が御子息の隆太郎(立教大教授)とともに残ります(現在「大衆文化研究会」の事務所でもある)。
 続いてそのまま山手通りを渡って千早町へ。地蔵堂から「池袋モンパルナス」の名付け親たる詩人小熊秀雄の終焉の地「東荘」跡へ。石段があって、その何処にも通じない石段はいたって古そうであった。酔った小熊秀雄が歩いたか、腰掛けていそうな石段である。私生児として生まれた小熊は貧困の中で、日中戦争のさなか昭和15年に病死した。作今、ようやく小熊の詩のみか小熊が残したデッサン、ユーモラスなペン画のたぐいに評価の眼が注がれるようになったばかりだ。一貫してたぐいまれなる諷刺精神に満ちた詩作品と洒脱なタッチのペン画、水彩画を残した。

 そのまま千早フラワー公園へ上がって(このあたりは坂になっており、たしかに上は「丘」であったろう)、公園を突っ切り長崎の「さくらが丘パルテノン」へ。

 「さくらが丘パルテノン」の目印は、今にも枯れそうな小さな桜の木である。かっては、ここに70軒あまりもアトリエが建てられ、アトリエとアトリエの間にサクラが植えてあったらしい。ひと棟2戸の安普請のアトリエだったが、借り手はひきもきらず空くのを待っていた。ここには丸木位里、俊、浜田知明、野見山暁治などが住み、おんなのようなヤサ男でおんな言葉を使う長沢節もここに住み、戦中の灯火管制の下で、敵性音楽の洋楽レコードをかけ、モデルとダンスに打ち興じ、非国民性を芸術家の特権のようにして自由をふりかざしたやけっぱちな生活をしていた。

(つづく)


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
そんな時間まで待っていたなら、 (ふっきー)
2008-09-24 01:45:16
そんな時間まで待っていたなら、
行けばよかった~。

まだちょっと風邪ひいていて、
迷ってて。。
返信する
ええ! ふっきーが参加していたらツアーももっと... (フーゲツのJUN)
2008-09-24 20:51:50
ええ! ふっきーが参加していたらツアーももっと盛り上がったと思います。残念。

風邪は完治しましたか? お大事に!
返信する

コメントを投稿