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■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-23

Vol.-22からのつづきです。
※文中の『ルートガイド』は『江戸御府内八十八ヶ所札所めぐりルートガイド』(メイツ出版刊)を指します。


■ 第70番 照光山 無量寺 禅定院
(ぜんじょういん)
練馬区石神井町5-19-10
真言宗智山派
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:阿弥陀如来
司元別当:
他札所:豊島八十八ヶ所霊場第70番

第70番は石神井の禅定院です。
御府内霊場に「禅定院」を号する札所寺院がふたつ(第48番(中野沼袋)と第70番(練馬石神井))あり、前者を(中野)沼袋禅定院、後者を石神井禅定院と呼んで区別しているようです。

第70番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに谷中の西光寺となっており、第70番札所は御府内霊場開創当初から江戸末期まで谷中の西光寺で、明治初頭以降に石神井の禅定院に変更となった可能性があります。

下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから両山の縁起・沿革を追ってみます。

【禅定院】

禅定院は、鎌倉時代の高僧、願行上人によって開かれたと伝わります。
願行上人(憲静)については「鎌倉市の御朱印-7 (B.名越口-2)」で触れていますので、この記事から抜粋してもってきます。

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願行上人は相州や鎌倉の古寺をたどるときしばしばその名が出てきますが、史料が少なくナゾの多い高僧です。

『願行上人憲静の研究(上)』(伊藤宏見氏/PDF)」、『願行上人憲静の研究(下)』(同/PDF)から経歴・事績の要点を引いてみます。

願行上人憲静は、健保三年(1215年)生誕、永仁三年(1295年)寂の鎌倉時代の高僧です。
「ナゾが多い」とされるのは、様々な法統を受け継がれ、しかもおのおの重要なポジションを占められたこと、北条政子や北条一門に強い影響力をもったことなどによると思われます。

〔法統・真言宗系統〕
・建長四年(1252年)鎌倉の佐々目谷の遺身院において守海より潅頂を受ける。三宝院流。(『血脈類集記』)
・弘長元年(1261年)定清?から潅頂を受ける。定清は金剛王院流を奉じた小野流の事相家(『血脈類集記』)
・文永九年(1272年)三宝院流を意教上人より受ける。(『真言宗年表』『鶏足寺譜』)

三宝院流は真言宗醍醐派の一派で、醍醐寺三宝院門跡初代勝覚を派祖とし、いわゆる「小野六流」のひとつ。
真言宗醍醐派は古義真言宗で修験道の一派、当山派の中心でもある。派祖は理源大師聖宝。
これより、願行上人は真言宗醍醐派三宝院流の法流を受けられていることがわかります。

〔法統・律宗系統〕
・月翁智鏡に律部を受学。月翁智鏡は泉涌寺来迎院の開山で泉涌寺四世。当時の泉涌寺は律・密・禅・浄土の四宗兼学(密を天台、東密に分けると五宗兼学)の道場。
『鎌倉初期の禅宗と律宗』(中尾良信氏/PDF)には、「北京律の祖とされる泉涌寺の俊芿」「北京律の中心たる泉涌寺」「月翁は俊芿から教律を学んだ」とある。

月輪大師俊芿(1166-1227年)は渡宗され、天台と律を学び建暦元年(1211年)帰朝。泉涌寺の実質的な開山といわれ四宗兼学の道場として再興されました。
その律は北京律(ほっきょうりつ)といわれ、日本における開祖とされます。
この北京律が、月輪大師俊芿-月翁智鏡-願行上人と伝わったとみられます。

以上から、願行上人は真言宗三宝院流と北京律兼学の高僧で、祇園山はこの流れから当初律宗(北京律)とされたとみられます。

〔鎌倉での活動〕
願行上人の鎌倉下向期間については錯綜気味ですが、「鎌倉下向僧の研究 - 願行房憲静の事跡 -」(高橋秀栄氏/PDF)には下記のとおりあります。
・弘長三年(1263年)から正応三年(1290年)までの28年間。

ただし、「建長四年(1252年)鎌倉の佐々目谷の遺身院において守海より潅頂を受ける。三宝院流(『血脈類集記』)」という記録があり、それ以前に下向されているかも。
また、文永二年(1265年)意教上人に従って関東に赴くという諸伝もあります。

「勝賢開山の佐々目西方寺にはじまり、関東の三宝院流はここに発祥し、大門寺、遺身院その他の寺院群が佐々目の地にあった模様である。守海は成賢の資の一人憲深から受法している。」(『願行上人憲静の研究(上)』P.5/血脈類集記より)

これによると長谷の佐々目(笹目)は当時真言宗三宝院流の本拠地で、願行上人はこの地(遺身院)で守海より三宝院流を受法の記録があります。

佐々目西方寺は現在の補陀洛山 西方寺(横浜市港北区新羽町)とされ、西方寺の公式Webには「西方寺は源頼朝卿の頃、建久年間(1190)に鎌倉の笹目と言う所に『補陀洛山、安養院、西方寺』として創建され、開山は大納言通憲公の息、醍醐覚洞院座主、東大寺の別当であった勝賢僧正」とあります。

なお、西方寺は現在真言宗系単立のようですが、公式Webによると極楽寺(真言律宗)との関係が深かったようです。
願行上人と関係のある金沢の称名寺も真言律宗なので、佐々目の三宝院流はのちに真言律宗とかかわりを強めたのかもしれません。

「(願行上人は)金沢越後守平実時堂廊に能禅方(西院)の灌頂を授けている。北条実時が金沢文庫を開設するのはそれよりのちの建治元年(1275年)である。その翌年願行の自筆文書が残っている。願行はのちにこの住持審海をも弟子として指導しているのであるから、その教界での位置を想像することができる。かくて建治の頃はすでに極楽寺とならぶ新興の律院の称名寺において、伝法灌頂を授けるほどの名徳(以下略)」(『願行上人憲静の研究(上)』P.18)

佐々目の守海は願行上人と頼助(佐々目僧正)に受戒しており、頼助は鎌倉幕府4代執権北条経時の子です。
Wikipediaには頼助は「父経時の菩提所である鎌倉佐々目の遺身院を拠点とし、佐々目頼助とも呼ばれる。」とあり、経時の没年は寛元四年(1246年)なので、「(願行上人が)建長四年(1252年)鎌倉の佐々目谷の遺身院(北条経時の菩提寺)において守海より潅頂を受ける。三宝院流。(『血脈類集記』)。」という記録はタイミング的に符合します。

同僚の頼助が執権の子という有力者なので、願行上人の鎌倉での立場も強かったとみられます。
また、師・意教上人が一時、高野山金剛三昧院(実朝公菩提のため北条政子が発願)に入られたことも、願行上人と鎌倉幕府の結びつきを強めたという説があります。

『本朝高僧伝』には「乃至稲瀬川滸。設念仏会。名祇園山安養院」とあり、これは「文永十一年(1274年)~建治元年(1275年)、願行上人が鎌倉稲瀬川のほとりで頼朝公の霊のお告げに従い、説法念仏会を37日間行う」という諸伝と符合します。

『新編鎌倉志』の(覚園寺)地蔵堂の項には「地蔵を、俗に火燒地蔵と云ふ(中略)【沙石集】には丈六の地蔵とあり。鎌倉の濱に有しを、東大寺の願行上人、二階堂へ移すと云へり。」とあり、願行上人の稲瀬川念仏会との関連を指摘する説もあります。

さらに安養院所蔵の願行上人像胎内銘に「鎌倉由井浜安養院開山願行上人、建治二年(1275年)八月廿八日、未剋往生。春秋八十二」とあり、説法念仏会の前後に鎌倉稲瀬川に安養院ないしその前身となる寺院を開山された可能性があります。

なお、上記の参考資料によると、願行上人が係わられた関東の代表的な寺社はつぎのとおりです。
二階堂永福寺真言院、鎌倉観音寺、(金澤)称名寺、相州大山寺、二階堂理智光寺、二階堂大楽寺、二階堂覚圓寺、大町安養院、最明寺(足柄上郡大井金子)、鶴岡八幡宮。

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御府内霊場では願行上人所縁の寺院は多くはみられませんが、禅定院は願行上人を開山とする貴重な例です。

文政年間(1818-1830年)の火災で、伽藍・寺伝などことごとく焼失しましたが、境内には応安・至徳(南北朝時代)年号の板碑が残り、創建の古さを裏付けています。

かつての御本尊は不動明王で、側に閻魔大王を奉安といいます。

門前の堂宇に安置された六地蔵や鐘楼前の大宝篋印塔は、石神井村の光明真言講中によって造立されたものです。
本堂前、寛文十三年(1673年)銘の織部灯籠は形状から「キリシタン灯籠」ともいわれ、区内でもめずらしい石造物の一つとして区登録文化財に指定されています。

墓地入口に御座のいぼ神地蔵尊は、いぼの治癒に霊験のありとして「いぼとり地蔵」とも呼ばれます。

石神井小学校の前身である豊島小学校は、明治7年区内初の公立小学校としてここに創立され、墓地内には寺子屋師匠の菩提を弔った筆子塚があるなど、教育との所縁がふかい寺院です。

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【西光寺】

仏到山 無量寿院 西光寺
台東区谷中6-2-20
新義真言宗
御本尊:五大明王
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第70番、弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場第7番、弘法大師二十一ヶ寺第15番、上野王子駒込辺三十三観音霊場第7番
公式Web


【写真 上(左)】 西光寺入口
【写真 下(右)】 西光寺本堂

西光寺は慶長八年(1603年)、傳燈大阿闍梨妙音院法印宥義大和尚(佐竹氏代16代当主・義篤次子、元和四年(1618年)寂)が幕府より神田北寺町に寺地を賜り開山。
開基檀越は佐竹右京大夫義宣。
当山は佐竹氏との所縁がふかいので、佐竹氏について少しく追ってみます。

佐竹氏は新羅三郎源義光公の孫昌義(1081-1147?年)が常陸国久慈郡佐竹郷(現・茨城県常陸太田市)に土着し、佐竹氏を称したという清和源氏の名族です。

源平合戦では平家にくみしたため頼朝公により所領を没収された(Wikipedia)ものの、後に再興し奥州討伐では鎌倉方に加わりました。
南北朝時代の8代当主・貞義、9代・義篤は足利氏に応じて北朝方として活躍し、その功から守護職に任ぜられて家勢は興隆しました。

足利満兼公制定と伝わる「関東八屋形」に列せられ、戦国時代の15代当主・義舜は反目する佐竹山入家を討って佐竹氏統一を果たし、18代の義重は常陸の大半を支配下に置き、奥州南部にも進出して有力戦国大名としてその名を馳せました。

義重の子・19代義宣は秀吉公の小田原征伐に参陣し、常陸國54万5800石の大名となり、
徳川・上杉・毛利・前田・島津とともに「豊臣六大将」と呼ばれるほど勢力を拡大。

佐竹義宣は佐竹義重の嫡男で母は伊達晴宗の娘。
官位は従四位上・左近衛中将、右京大夫を賜るという、家柄・格式を有する、名実兼ね備えた太守でした。

義宣は幾度か石田三成のとりなしを受け、天正十八年(1590年)三成の忍城攻めに加勢したこともあり、石田三成との関係は良好でした。
慶長四年(1599年)3月、前田利家逝去ののち、加藤清正、福島正則、加藤嘉明、浅野幸長、黒田長政、細川忠興、池田輝政らが三成の屋敷を襲撃した際、義宣が三成を女輿に乗せ、宇喜多秀家邸に逃れさせたという逸話は有名です。
また、秀吉から羽柴姓を与えられるなど豊臣色の強い大名でした。

関ヶ原の戦いでは水戸城へ引き上げ、積極的に徳川方に与力しなかったため戦後咎を受けましたが家康公に謝罪し、家名断絶は遁れたものの出羽国秋田、54万石から20万石への減転封となりました。

義宣が家康公から転封の沙汰を受けたのは慶長7年(1602年)5月(Wikipedia)、出羽(秋田)入国は同年9月なので、水戸から秋田への転封直後にみずから開基となって西光寺を創建(慶長八年(1603年))したことになりますが、その背景は史料からは辿れませんだした。

慶安元年(1648年)神田北寺町の寺地が幕府用地として収公、谷中の現所に替地となりました。
慶安二年(1649年)佐竹修理大夫義隆(秋田久保田藩第2代当主)が堂舎を再建したため、義隆は中興開基とされます。
以降何度か火災に遭っていますが、都度佐竹家により再建されています。

公式Webによると、当山は「秋田藩(秋田市)佐竹家・伊勢津藩(三重県津市)藤堂家の祈願寺として信仰されてきた歴史」があるそうです。

公式Webによると、仏寺創建の際には藤堂高虎が財政的支持をおこなったと伝えられ、山内の韋駄天像は藤堂高虎安置と伝わり、別名を「韋駄天寺」ともいわれたようです。


【写真 上(左)】 韋駄天石碑
【写真 下(右)】 左が韋駄天

江戸時代の西光寺は御府内霊場のほか、弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場、弘法大師二十一ヶ寺、上野王子駒込辺(西國)三十三観音霊場の札所を兼ねられてお大師さまとの所縁もふかい寺院でした。

明治初頭の神仏分離の波も乗り越えているのに、おそらく明治初頭以降のどこかのタイミングで御府内霊場第70番の札所は石神井の禅定院に変更となっています。

西光寺は和歌山の根來寺を総本山とする新義真言宗。
禅定院は真言宗智山派で宗派も異なり、変更の理由についてはよくわかりません。

西光寺は以前は御朱印不授与でしたが、近年カラフルな月替わり御朱印で一気に人気のお寺となり、おそらく参拝者(というか絵御朱印ファン)の数は御府内霊場札所より多いかと思います。
絵御朱印の威力おそるべし。

■ 西光寺の御朱印
 


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【史料】

【禅定院】
『新編武蔵風土記稿 豊島郡巻五』(国立国会図書館)
(下石神井村)禅定院
新義真言宗 上石神井村三寶寺寺ノ末 照光山ト号ス 願行上人ノ開キシ寺二テ 本寺ヨリハ古跡ナリト云 本尊不動 側ニ閻魔ヲ安ス 是ハ元ハ別堂ニアリ 境内二明応四年(1498年)二月八日妙慶禅尼ト彫ル古碑アリ
八幡社
阿彌陀堂三 一ハ道場寺 一ハ禅定院 一ハ三寶寺ノ持

【西光寺】
『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
七十番
谷中 門前町あり
佛到山 無量壽院 西光寺
本所彌勒寺末 新義
本尊:不動明王 弘法大師 興教大師

『寺社書上 [110] 谷中寺社書上 』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考 P.98』
谷中 不唱小名
本所彌勒寺末
佛到山無量壽院西光寺
当寺之濫觴慶長八年(1603年) 開山宥義 於神田北寺町寺地拝領仕
堂舎 佐竹右京太夫義宣公建立
慶安元年(1648年)右寺地御用地ニ付 於当所旧地之●第四世宥鏡代拝領仕
慶安二年(1649年)佐竹修理太夫義隆公堂舎再建仕候

開山 伝灯大阿闍梨法印宥義、俗姓佐竹大膳太夫義篤公二男 元和四年(1618年)寂
開基 佐竹右京太夫義宣公 寛永十年(1633年)卒
中興開基 佐竹修理太夫義隆公(秋田久保田藩第2代当主) 寛文十一年(1671年)卒

本堂
 本尊 不動尊鋳型座像 附二童子木像
 四大明王木像 十一面観音木像 聖天府秘符
 阿弥陀如来木像
 弘法大師木像 興教大師木像
 愛染明王木像座像 地蔵菩薩木像座像 不動明王古像座像
境内鎮守社 天神稲荷疱瘡合殿
十一面観音石像
地蔵尊石像
韋駄天石像

『下谷区史 〔本編〕』(国立国会図書館)
西光寺(谷中上三崎南町二〇番地)
本所彌勒寺末、佛到山無量壽院と号す。本尊不動明王、五大尊。慶長八年(1603年)、開山妙音院宥義。(佐竹義篤次子、元和四年(1618年)寂)
幕府より神田北寺町に於て寺地を給せられ、佐竹右京大夫義宣開基檀越として当寺を創建した。慶安元年(1648年)同所幕府用地となるや、現所に替地を給せられ、翌二年(1649年)佐竹修理大夫義隆堂舎を再建した。義隆はために中興開基と呼ばれる。時の住持は第四世宥鏡であつた。(略)佐竹家の他に藤堂家の祈願所であつた。境内の韋駄天石像は同家の寄進する所で、韋駄天寺の俗称は之に基くのである。



「西光寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』根岸谷中辺絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りは西武池袋線「石神井公園」駅で徒歩約10分。
石神井池の南に広がる緑ゆたかな一帯で、第16番三寶寺にもほど近いところです。


【写真 上(左)】 山門入口
【写真 下(右)】 山門

前面通りから引き込んで山門。
本瓦葺に唐破風を配した重厚な四脚門で、常閉のようです。
山門脇には「光明真言講中」の銘がある延命地蔵尊座像の両脇に端正な六地蔵。


【写真 上(左)】 六地蔵
【写真 下(右)】 院号標

山門向かって左手に回り込むと山内入口で立派な院号標。
郊外寺院らしく、緑多くゆったりとした山内です。
庫裡前の見事なヒヨクヒバは「ねりまの名木」に指定されています。
茅葺きの鐘楼も趣きがあります。


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 ヒヨクヒバ


【写真 上(左)】 鐘楼
【写真 下(右)】 観世音菩薩

右手に入母屋造銅板葺流れ向拝で唐破風を附設した堂々たる本堂。
向拝は桁行三間で朱塗りの水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に二連の蟇股を置いています。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂



【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額

水引虹梁装飾には曲線を多様、身舎まわりにはシャープな連子格子を置いて、その対比が面白い意匠。
向拝見上げには院号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 いぼ神地蔵尊
【写真 下(右)】 弘法大師尊像

山内には区の文化財である「石幢六面六地蔵」「織部燈籠」(キリシタン燈籠)、いぼ神地蔵尊などがありますが、三回参拝しているのになぜか「石幢六面六地蔵」「織部燈籠」(キリシタン燈籠)の写真がありません。
(庫裡前の重石塔の右に御座と思われます。)


こちら(練馬区Web史料)をご覧ください。


【写真 上(左)】 御府内霊場の札所板
【写真 下(右)】 豊島霊場の札所板

御朱印は本堂向かって右手の庫裡にて拝受しました。
こちらでは豊島八十八ヶ所霊場の御朱印も授与されています。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に「本尊阿弥陀如来」「弘法大師」の揮毫と阿弥陀如来のお種子「キリーク」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右に「第七十番」の札所印。
左に院号の揮毫と寺院印が捺されています。


■ 豊島霊場の御朱印

※ 御府内霊場と豊島霊場の御朱印を同日に拝受していますが、これは御府内霊場参拝日にご不在で拝受できなかったためで、基本的には弘法大師霊場のかけもち巡拝は避けた方がベターかと思います。


■ 第71番 新井山 薬王寺 梅照院(新井薬師)
(ばいしょういん)
公式Web

中野区新井5-3-5
真言宗豊山派
御本尊:薬師如来
札所本尊:薬師如来
司元別当:(新井村)天満宮、稲荷社、秋葉社、諏訪社
他札所:江戸・東京四十四閻魔参り第27番、閻魔三拾遺第30番

第71番は中野区新井の梅照院(新井薬師)です。

第71番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに小石川の玄性院となっており、第71番札所は御府内霊場開創当初から江戸末期まで小石川の玄性院で、『御府内八十八ケ所道しるべ』の札所変更資料に玄性院から梅照院への変更が記されているので、第71番札所は幕末から明治初頭にかけて中野の梅照院に変更とみられます。

公式Web、下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから両山の縁起・沿革を追ってみます。

【梅照院】

永禄年間(1558-1570年)、相模國の沙門行春が行脚の途中、ここ新井を有縁の地と定め草案を結んで日夜行法に励んでいました。
(『ルートガイド』には、沙門行春は元北条家の家臣・梅村将監とあります。)

天正十四年(1586年)のある晩、庭の老梅の梢から光明が輝くのを見た行春が、件の梅の木を索ると梢の空洞から二仏一体(薬師瑠璃光如来・如意輪観世音菩薩)の尊像が出現されました。

村内の新田氏所縁の人々がこの御佛を拝すると、この尊像こそ新田家伝来の守り本尊と悟り、この奇縁に因んで一宇を建立したのが創始と伝わります。
梅樹から光明が照り輝いた奇瑞から、梅照院と号しました。

「新田家伝来の守り本尊」については以下の縁起が伝わります。

清和源氏の名族・新田家伝来の守り本尊は、薬師如来・如意輪観世音菩薩の二仏一体丈一寸八分の坐像黄金仏で弘法大師の御作と伝わります。

南北朝時代、新田家嫡流は上野國大田の金山城に拠り、守り本尊を宝庫に収めていましたがあるとき御本尊はお姿を消されました。
その後の変遷については公式Webをご覧ください。

戦に敗れた新田家所縁の人々が新井の庄に定住していたところ、沙門行春の霊夢により、行方知らずとなっていた新田家代々の守護仏を迎えたので恐懼し、また欣喜雀躍して堂宇に奉安したのでは。

公式Webによると、新田一族は薬師如来信仰の家系が多く、それぞれの家系に薬師如来の尊像が存在したといいます。
四散した新田一門がそれぞれの御本尊を各地で奉安したため「新田家の薬師如来」の系譜は錯綜していますが、当山の御本尊が「新田家伝来の守り本尊」とされています。

開創当時は山内に日本一ともいわれた傘松があったため、高松山梅照院薬王寺と号しましたが、新井薬師の名が高まるにつれ新井山と山号を改めたといいます。
新井薬師の通称が知られているので、新井薬師梅照院とも称します。

公式Webには行基が開基、中興は朝曇・聖道とあります。

『新編武蔵風土記稿』には、開山を快儀(正保三年(1646年)寂)、天正年中(1573-1592年)に僧・行春が開基、第六世朝曇を中興とあります。

元和三年(1617年)、第五代住職玄鏡の夢中に薬師如来が現れて御手の瑠璃の壺中より法軌を授与されました。
玄鏡和上は早速授与された法軌のとおりに薬を処方、難病の小児に施すとすこぶる効いて治らない者がひとりもいないため、この薬を「夢想丸(むそうがん)」と称して参詣者にわかちました。

中興の朝曇和上はこの霊験譚を世に広めたため御本尊の霊験が広く世に知られるようになり、「子育薬師」として諸人の信仰を集め、門前は市をなしたといいます。

寛永六年(1629年)徳川2代将軍秀忠公の第五女和子の方(東福門院)が眼病に罹られ、秀忠公をはじめ側近の人々が名医名薬、祈祷など八方手を尽くしましたが効果なく、万策つきたと思われたとき、当山の御本尊の霊験を伝え聞いて御本尊に祈願せしめました。
すると眼病はたちまち快癒したので、秀忠公は当山に厚く御礼を賜りました。

この逸話はたちまち天下に広まり、当院は「治願薬師」(ぢがんやくし)とも呼ばれてさらに参詣者を集めたといいます。

以降も参詣者は途絶えることなく、中野から新井薬師へと至る参道は門前町として大いに栄えて「東の浅草寺、西の新井薬師」と並び称されるほどでした。
門前町はいまでも「薬師あいロード商店街」として賑わいをみせ、8がつく日のお薬師さまのご縁日はことに賑わいをみせます。

和子の方の逸話に因み、とくに眼病にご利益ありとして広く参詣客を集めています。
西武新宿線の駅名にもなり、知名度の高い城西の名刹です。

なお、『新編武蔵風土記稿』には「(新井村)天満宮、稲荷社、秋葉社、諏訪社 供ニ村内梅照院ノ持ナリ」とあるので、こちらの4社の別当を司っていたとみられます。

新井天神 北野神社の公式Webに「天正年間(1573-1592年)、新井薬師の開祖である沙門行春が建立したとも、それ以前よりこの地の鎮守社であったとも言われています。」と、沙門行春との関係を示す記載があります。
また、「残存する梅照院縁起に『開基の行春より数代後の住持玄鏡が、天和年間に手植の梅一株を北野天満宮に献じた』とあります。」とあり、すでに天和年間(1681-1684年)から梅照院と良好な関係を保っていたことがわかります。


【写真 上(左)】 新井天神北野神社(旧拝殿)
【写真 下(右)】 同 御朱印


【写真 上(左)】 (新井天神)稲荷神社
【写真 下(右)】 同 御朱印

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【玄性院】

玄性院は小石川の金剛寺坂辺にあった新義真言宗寺院です。
当地に御鎮座の金杉稲荷社の別当で、本社金杉稲荷大明神の本地、十一面観世音菩薩を奉安していたとみられます。

『御府内八十八ケ所道しるべ』には「本尊:十一面観世音菩薩 本社金杉稲荷大明神 弘法大師」とあり、こちらが御府内霊場の拝所であったことがわかります。

玄性院は史料が少なく詳細を辿れないのですが、『江戸町巡り』様によると小石川金杉水道町のうちに稲荷前町という場所があり、由来は金杉稲荷の前の町屋であったためとの由。
現在の文京区春日二丁目です。

また、『東京さまよい記』様の記事には以下のとおりあります。
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荷風「断腸亭日乗」昭和16年(1941)9月28日に、「・・・金剛寺坂左側の駒井氏、右側の岩崎氏、其鄰の石橋氏なり。その筋向に稲荷の祠あり。余の遊びし頃には桐畑なり。・・・」(前回の記事)とあるが、その稲荷が金杉稲荷であろう。現在はないようである。
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以上に『江戸切絵図』の情報を加えると、金杉稲荷大明神(玄性院)は小石川・金剛寺坂の春日通り寄りにあったのでは。

『寺社書上』には「中興開基 六角越前」とありますが、『江戸切絵図』では比較的近い場所に「六角越前守」の屋敷がみえます。

「六角越前守」で検索するとwikipediaの「六角広孝」がヒットしたので、こちらとの由縁を考えましたが、中興開山の聖譽法印は正徳三年(1713年)卒で、中興開山・開基を同時期と考えると六角広孝(1747-1815年)とは年代が合いません。

六角氏というと宇多源氏佐々木氏流で近江守護職もつとめた名族を思い起こしますが、Wikipediaによると、高家六角家は正二位権大納言烏丸光広の次男・広賢が江戸幕府に仕えて高家に列した流れ(日野流六角家)のようです。

当山中興開山・聖譽法印と同年代の高家六角家当主は2代の六角広治(1644-1719年)。
元禄二年(1689年)二月、従五位下侍従・越前守に叙任され「六角越前」に符合します。
禄は二千石で、高家の身分を考えると「大身の旗本」といってもいいかもしれません。

この六角広治が玄性院に中興開基となさしめるほどの大きな寄進をしたか、あるいは檀家総代として貢献したのかもしれません。

玄性院は本所彌勒寺の末なので現在の真言宗豊山派。
梅照院も真言宗豊山派ですから宗派的なつながりはあり、中野の名刹・梅照院に御府内霊場札所を承継したのかもしれません。

ただし、不思議なのは梅照院が豊島八十八ヶ所霊場の札所になっていないことです。
豊島八十八ヶ所霊場の開創は明治に入ってからで、中野区内にもいくつかの札所があります。

梅照院が弘法大師霊場の札所入りを考えていたとしたら、当然有力候補にあがるはずです。
あるいは明治初期にすでに御府内霊場の札所を承継していたので、それでよしとされたのかもしれません。

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【史料】

【梅照院】
『新編武蔵風土記稿 多磨郡巻三十五』(国立国会図書館)
(新井村)梅照院
当村(新井村)ト上高田村トノ接地ニアリ松高山ト号ス 新義真言宗ニテ 当郡中野村寶仙寺末 客殿六間四方南向
本尊薬師坐像ノ石佛ニテ長一寸八分 厨子ニ入
開山ヲ快儀ト云 正保三年(1646年)示寂ス 又云天正年中(1573-1592年)行春ト云僧開基セシト 其後第六世朝曇ヲ中興トス 此僧ノ頃ヨリ本尊ノ霊験世ニアラハル
子育薬師ト称シテ遠近コソッテ歩ヲ運フ者多シ 就中近キ比江戸日本橋邊ノ商売願ヲカケシニ 速ニ霊数ヲ蒙フリシカハ渇仰斜ナラス ソノ後同志参詣ノ者ノ便リセントテ 豊島郡下高田馬場ノホトリヨリ 道ノ辻々ニ碑標ヲタテヽ方角ヲ示ス コレヨリ次第ニ参詣ノ者多クナリテ 今ハ新井ノ薬師トテ其名隠レナキコトニソナリケル

(新井村)天満宮、稲荷社、秋葉社、諏訪社
供ニ村内梅照院ノ持ナリ

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【玄性院】
『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
七十一番
小石川金杉●●町
永壽山 吉祥寺 玄性院
本所彌勒寺末 新義
本尊:十一面観世音菩薩 本社金杉稲荷大明神 弘法大師

『寺社書上 [64] 小石川寺社書上 一』(国立国会図書館)
金杉稲荷社
小石川金杉
神躰無之
本地 十一面観音立像
弘法大師 辨財天十五童子付 阿弥陀如来
相殿 六角稲荷
神體宝珠
氏子町 金杉水道町四ヶ町 富坂新町
別当 永壽山吉祥寺玄性院
彌勒寺末 起立年代不詳
中興開山 聖譽法印 正徳三年(1713年)卒
中興開基 六角越前 



「玄性院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)


原典:戸松昌訓著、版元金鱗堂尾張屋清七、『〔江戸切絵図〕』東都小石川絵図 嘉永7[1854]/安政[4][1857]改刊.東京都立中央図書館Web(保護期間満了)

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最寄りは西武池袋線「石神井公園」駅で徒歩約10分。
「新井薬師門前」の五叉路から長い参道を構え、さすがに名刹のスケール感があります。
この五叉路から北西に進むと菅原道真公をお祀りする新井天神で、近在屈指の参詣エリアとなっています。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 院号標


【写真 上(左)】 新井薬師の碑
【写真 下(右)】 御府内霊場札所碑

参道入口には院号標と新東京百景の「新井薬師」の碑。
石畳の参道正面の山門左手前に御府内霊場の札所碑。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門の提灯

山門は切妻屋根桟瓦葺の四脚門で、軒下には新井薬師の提灯が掲げられています。

山門をくぐると正面が本堂。左手に霊堂、右が不動堂です。
順にご紹介していきます。
公式Webの境内案内


【写真 上(左)】 霊堂
【写真 下(右)】 修行大師と聖観世音菩薩


霊堂は均整のとれた朱塗りの二重の楼閣で、堂前向かって左手に修行大師像と聖観世音菩薩立像。
向拝見上げに「薬師霊堂」の扁額を掲げています。

霊堂の向拝扉には「御本尊真言」として阿弥陀如来と閻魔大王の御真言が掲出されているので、おそらくこちらの二尊を主尊として奉安とみられます。
なお、梅照院は江戸・東京四十四閻魔参り第27番、閻魔三拾遺第30番の札所で、閻魔様のお寺としても知られていたと思われます。

閻魔大王のご縁日16日に参拝しましたが、現在、閻魔大王の御朱印は不授与とのことだした。


■ 閻魔大王のご縁日の御朱印


【写真 上(左)】 霊堂の扁額
【写真 下(右)】 不動堂


【写真 上(左)】 お願い地蔵尊
【写真 下(右)】 水屋

右手には不動堂。堂前右手にはお願い地蔵尊、左手には水子地蔵尊。
不動堂は宝形造桟瓦葺で流れ向拝。水引虹梁に木鼻、斗栱、海老虹梁、中備に蟇股を備えています。

 
【写真 上(左)】 鐘楼
【写真 下(右)】 大香炉

不動堂の本堂寄りには本瓦葺の屋根付きの立派な水屋(手水舎)とその奥に鐘楼。
参道を進むと大香炉。そこから左手に進むと西門で、墓所入口には六地蔵。



【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂

本堂は基壇のうえに入母屋造本瓦葺流れ向拝、向拝の張りだしが大きくスケール感ある堂容で、向かって右手が授与所(札所)となっています。


【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 提灯と扁額

水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に本蟇股。
水引虹梁奥に「新井薬師」の提灯、向拝見上げには「瑠璃殿」の扁額、向拝柱には御府内霊場の札所板を掲げています。


【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 札所板

御本尊は秘佛で、寅年の御開帳です。


【写真 上(左)】 白龍権現水屋
【写真 下(右)】 大悲殿

本堂を向かって右手に回り込み、回廊をくぐると右手に白龍権現水屋と大悲殿。
当山北側の瓢箪池(新井薬師公園)はその昔、霊泉の水垢離場として修行の道場となり不動尊を奉安していました。
その不動尊の傍には常に白蛇がいて不動尊を守護していたとも。

いつしか霊泉は枯れ、不動尊は山内の不動堂に遷られ、守護の白蛇供養のために白瀧権現を不動堂に祀りました。
当山貫首が「大悲殿に聖観世音菩薩を迎えて井戸の霊泉を閼伽水として衆生に施す」旨の夢告を受け、大悲殿(聖観世音菩薩の堂宇)を建立したところ、その敷地の地下に大井戸を発見し霊水が湧き出たためこの瑞祥を祝し、双竜を鋳造して水屋を建立し、「白龍権現水屋」と称しました。

大悲殿は二層の大規模な建物で、向拝には「大悲殿」の扁額が掲げられています。


【写真 上(左)】 大悲殿の扁額
【写真 下(右)】 聖徳太子像

本堂裏手には聖徳太子像。
昭和34年、聖徳太子の遺訓を仰ぐため、東京都左官職組合連合会中野支部の鶴谷善平氏が梅照院と支部の協力を得て像立・奉安されたお像です。

本堂のすぐ裏には年季の入った「魚がし」の天水鉢も置かれています。


【写真 上(左)】 「魚がし」の天水鉢
【写真 下(右)】 本堂再建供養塔

場所が定かでないのですが、本堂再建祈念塔(中野区登録有形文化財)の説明書には、当山再興に尽くされた蓮樹住職、後継英俊住職の功績と、この塔が高野山延命院の引導地蔵尊を模して建立されたことが記されています。

御朱印は本堂右手の札所にて拝受しました。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に薬師如来のお種子「バイ」「薬師如来」「弘法大師」の揮毫と三寶印。
右に「御府内第七十一番」の札所印と「新井薬師」の印判。
左に山号院号の揮毫と寺院印が捺されています。

以下、つづきます。
(→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-24


■ 札所リスト・目次など
■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-1



【 BGM 】
■ retour - 今井美樹


■ Sayonara Solitia - Yuki Kajiura(FictionJunction)


■ ここにあること - @うさ(歌ってみた)
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