民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「歴史的かなづかいか、現代かなづかいか」 その4 斎藤 美奈子 

2015年06月20日 00時12分20秒 | 日本語について
 「文章読本さん江」 斎藤 美奈子  筑摩書房 2002年

 「歴史的かなづかいか、現代かなづかいか」その4 P-183

 現代かなづかい、(以下、新かなと略す)支持者の意見とは、いかなるものだったか。ざっとまとめてみよう。

 【A】新かな支持派の主張

①発音と乖離した旧かなはむずかしすぎる
②国民の知識水準をあげる上で、旧かなは、学習上のエネルギーの無駄である
③旧かなは一千年前の表音にしたがったもの。歴史的に見ても表記は変えるのが当然
④古典を読ませるために、いまを犠牲にするのはインテリの奢りである

 【B】旧かな支持派の主張
①旧かなはむずかしいと誰が決めたのか
②新かなになったところで、学習が容易になるという証拠があるのか
③日本語は表音に忠実でならなければならないという理由はどこにあるのか
④旧かなを捨てるのは、古典を読むための道筋を断つことである

 こうしてみると、新かな支持者は日本語表記の民主化を促進する革新派、旧かな支持者は知識人寄りの守旧派というように見える。人脈的にいってもまあそうなのだけれども、ことは「革新vs保守」で片づけられるほど、簡単ではない。



「歴史的かなづかいか、現代かなづかいか」 その3 斎藤 美奈子

2015年06月18日 00時10分43秒 | 日本語について
 「文章読本さん江」 斎藤 美奈子  筑摩書房 2002年

 「歴史的かなづかいか、現代かなづかいか」その3 P-183

 ・福田恒存の現代かなづかい否定論

 なんという厭味たつぷりな文章でせう。(略)かういふことばづかひをする言語感覚で国語問題を論じられたのでゃかなはないといふ気がします。私はかうおもひます。現代かなづかひはすでに小学校教育で施工されてゐる。新聞もそれを用ゐてゐる。相手がなにをいはうと、こちらは勝つてゐるのだといふ優越感から、それも権力と数を笠に着て、なるべく相手を憫笑すべき道化役に仕たててやらうといふ意識――それがこの陰険な、爬虫類のやうにぬめぬめした文章を生んだのではないでせうか。/(略)実質的な反論を展開できぬための自信のなさが、右のごとき悪しき粉飾を必要とするのです。これはもう諧謔などといふものではありません。姑根性まるだしの意地わるさです。
                    「国語改良論に再考をうながす」(「知性」1955年10月号)

 両者がっぷり四つに組んで、一歩も引かない。この後もつづく二人の応酬は血わき肉おどるレトリック合戦にみちているのだが、あまりながながと観戦してもいられない。

 その4に続く

「歴史的かなづかいか、現代かなづかいか」 その2 斎藤 美奈子

2015年06月16日 00時05分59秒 | 日本語について
 「文章読本さん江」 斎藤 美奈子  筑摩書房 2002年

 「歴史的かなづかいか、現代かなづかいか」その2 P-183

 ・金田一京助の現代かなづかい擁護論

 私どもの平素崇敬措かない先生の高説(略)、最大の期待と熱望をかけて再読、三読しました。溢れる愛国のまこと、漲る国語愛、その一言一言には、慈父の訓戒のように胸にせまる響があって、深く心を打たれました。/殊に/「近年、文化財の保護といふことが重視されるが、吾々の護るべき第一の文化財は、日本語そのものでなければならぬ」/ずばりと言いすえられた冒頭の御立言、よくぞおっしゃって下すったと、頭がさがります。/(略)/ただし、「仮名遣いの問題については、私は多くの疑問を持って居り、広く専門学者の説を聴きたい」とあるのは、何という謙虚なお言葉。先生の前には、吹けば飛ぶような存在でしかありませんけれども、このお言葉にすがり、専門の端くれに立ちます責任上、失礼ながら、一言を申し上げさして頂くことになりました。みずから、はからず、ありがたい光栄に存じて、私は謹んでこの筆を執ります。
                         「現代仮名遣い論」(「中央公論1953年4月号)

 これは小泉信三の現代かなづかい否定論に対する反論ととして書かれたものの冒頭である。慇懃無礼の見本みたいな、この口調。これにカチンときたのが、早くから新かなづかいに懐疑の念を表明していた福田恒存である。彼は金田一の文章を延々と引用して反撃した。

 その3に続く(おもしろいよ)

「歴史的かなづかいか、現代かなづかいか」 その1 斎藤 美奈子

2015年06月14日 00時05分48秒 | 日本語について
 「文章読本さん江」 斎藤 美奈子  筑摩書房 2002年

 「歴史的かなづかいか、現代かなづかいか」その1 P-183

 戦後の文章界は、久方ぶりの(といっても水面下ではずっとくすぶりつづけていた)国語国字問題からはじまった。敗戦の翌年の1946年、内閣の訓示・告示の形で「現代かなづかい」「当用漢字表」が公布される。また、その直前には最後まで文語文にしがみついていた公用文の世界にも、とうとう言文一致体=口語文が登場した。いわずと知れた日本国憲法である。あの憲法は、内容もさることながら、口語文で書かれているという点で、日本語文章史の転換点に立つ文章でもあったのだ。

 漢字制限の問題も合意するものとして、かなづかい問題を中心に考えてみよう。生まれたときから現代かなづかいで育った私たちにとって、歴史的かなづかいに固執する心情は理解しにくいものがある。けれども、制度の改変期には必ず強硬な反対意見が出てくるもの。言論界にも、学者や評論家のあいだで、かなづかいをめぐる論争がまきおこった。反対論者の代表選手は小泉信三、福田恒存、高橋義孝ら。対する支持者は桑原武夫、金田一京助らである。「中央公論」「知性」誌上でくりひろげられた福田と金田一のやりとりは秀逸なものだった。内容もさることながら、ただの応酬として見物するだけでも、歴史に残る言語プロレスといっていい。

 その2に続く

「旧かなづかひで書く日本語」 萩野 貞樹

2015年06月12日 00時38分36秒 | 日本語について
 「旧かなづかひで書く日本語」 萩野 貞樹(はぎのさだき)昭和14年生まれ 幻冬舎新書 2007年

 「山月記」の醜い模造品

 原作を改変して出版されては参つてしまふといふことを、私は本書のあちこちで言つてゐますが、ここでは主に、新かなへの改変は非文化的であり、まことに失礼であるといふ点と、文章が現実に意味不明となつて、せつかくの書物が屑物化するといふ点について少々レポートいたします。
 明治書院版高校国語教科書に、中島敦「山月記」が出てゐました。まことに文句の選択です。文字通り名作と称すべき作品で、独特の緊張感に溢れたあの文章は、多くの若者に是非玩味させたいものです。
 その中にかういふ一節がある。

 叢の中からは、暫く返辭が無かった。しのび泣きかと思はれる微かな聲が時々洩れるばかりである。

 これが教科書では次のやうになつてゐます。

 草むらの中からは、しばらくかった。忍び泣きかと思れるかすかなが時々れるばかりである。

 改変部分を太字(赤字)にしてみました。改変・改竄(かいざん)はこの例では漢字の字種、漢字の字体、仮名遣、小書き、の四項目にわたつてゐる。改変教科書版の49文字うち16字は原文には存在しないものです。
 皆さん、少し驚きませんか。こんな短い文章の中で、ほぼ三割の文字が入れ換へられてゐるのです。似たやうなもんぢゃないか、といふのとは少しレベルの違ふ話ですからそのつもりで。
 ほぼ三割といつたら短歌なら10字、俳句なら5字6字ですよ。そんなに入れ換へたらそれはもう原作とは全く別物です。しかも注意してもらひたいのは、中島敦「山月記」は純然たる文藝作品だといふことです。和歌俳句と同様のものです。もちろん作者は一字一句に神経を集中して書いてゐます。
 その文章を三割も変へてしまふ。原作者に対するこの上ない無礼といふものでせう。教科書の文字列は、当然「山月記」なんかではない。ただただ醜い模造品であり偽装文にすぎません。
 少なくとも場所が教育の場であるならば、これほど露骨な偽造文書を、ホンモノであるかに偽つて若者に売りつけ、しかも授業料を徴収したりするのは、非教育であるのみならず、刑法にも該当しようかといふ犯罪です。
 ところが文部科学省および教育界は、「それがよいことだ」とするわけです。かうして60年以上にわたり、若者に贋物を与へて贋物に慣れ親しませてきました。
「それは悪いことである」といふのが本書著者の考へ方です。読者の皆さんはいかがですか?