民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「夜這いの民俗学」 その3 赤松 啓介

2016年08月04日 00時15分17秒 | 民話の背景(民俗)
 「夜這いの民俗学」 その3 赤松 啓介 明石書店 1994年

 婚姻の調査についても、彼らがわかっていないのは、明治から大正、昭和初期にかけて生きた女性の大半は、マチなら幕末、ムラなら村落共同体の思考、感覚でしか生きていなかったということである。教育勅語によってそれほど汚染されていないということだ。尋常小もロクに出ていないような人間に、家父長制とか一夫一妻制といった思考方法がなじまないのは当たり前で、夜這いについても淫風陋習などと感じておらず、お互いに性の開放があって当然とだと考えている。女学校やキリスト教的な教育を受けた女たちとの落差は大きく、ムラでは中等教育以上を受けた女は、だいたい「スソナガ」「スソヒキ」と呼ばれて孤立していた。

 田舎のムラでは、地主、酒造はごく一部、小作、日雇いが大半の人口を占めていた。時代が古いほど村内婚が多く、これは明治以降ムリヤリ入籍結婚にさせられてしまったが、それまでは夜這いの延長みたいなもので、同棲したからといって必ずしも双方が、相手を性的に独占したわけでも、できたわけでもなかった。別れるのも簡単で女が家を出るといっても、風呂敷包み一つですんだ場合が多かった。離婚のなんのと騒ぐこともなかったから、古い記録をみると、三婚、四婚も珍しくない。記録にならない別れや出会いは実にたくさんあっただろう。

「夜這いの民俗学」 その2 赤松 啓介

2016年08月02日 00時09分49秒 | 民話の背景(民俗)
 「夜這いの民俗学」 その2 赤松 啓介 明石書店 1994年

 自分たちの倫理観や、政治思想に反するものの存在を否定するなら、そうした現実を抹殺するしかない。農政官僚だった柳田が夜這いをはじめとする性習俗を無視したのも、彼の倫理観、政治思想がその実在を欲しなかったからであろう。
 しかし、僕の基本的な立場はあるものをあるがままに見ようではないかということだった。そしてあるがままに見れば見るほど、現実は実にさまざま、多様なのであった。

 そもそも柳田の方法というのは、全国からいろいろな材料を集め、自分に都合のいいように組み合わせるといったものである。夜這い一つとってみても、隣村同士でも多様なのに、あちこちの県のムラから広範囲に類似のネタを集めて一つのことを語ろうとする。僕に言わせれば、アホでもできるということになる。

 僕が田舎に帰ったころ、柳田は山村調査を実施しているが、採集手帳を読むと、小作とか地主とかいった現実に存在する言葉が全くない。それでいて彼は「常民」というコンセプトを持ち出してくるのだから、柳田さんはもうあかんわ、ということになる。それは、戦前までの政府が、労働者を資本家も含めて勤労者、地主も小作も日雇いも含めて営農者と呼んだように不自然な造語にしかすぎない。

「夜這いの民俗学」 その1 赤松 啓介

2016年07月31日 00時05分20秒 | 民話の背景(民俗)
 「夜這いの民俗学」 その1 赤松 啓介 明石書店 1994年

 ざっと紹介したように、夜這いは、戦前まで、一部では戦後しばらくまで、一般的に行われていた現実であり、実に多種多様な営みであったが、このような重要な民俗資料を、日本の民俗学者のほとんどは無視し続けてきた。

 日本民族学の泰斗といわれ、「郷土研究」や「婚姻の話」を著している柳田国男は、僕の郷里から目と鼻の先の出身で、子供のころから夜這いがおおっぴらに行われているのを見聞きしながら育ったはずだが、彼の後継者同様に、その現実に触れようとはしなかった。彼らはこの国の民俗学の主流を形成してきたが、かってはムラでは普通であった性風俗を、民俗資料として採取することを拒否しただけでなく、それらの性習俗を淫風陋習であるとする側に間接的かもしれないが協力したといえよう。そればかりか、故意に古い宗教思想の残存などとして歪め、正確な資料としての価値を奪った。そのために、戦前はもとより、戦後もその影響が根強く残り、一夫一妻制、処女・童貞を崇拝する純潔、清純主義というみせかけの理念に日本人は振り回されることになる。


「目をくれた話について」 杉本キクエ(瞽女)

2015年01月21日 00時09分58秒 | 民話の背景(民俗)
 「瞽女(ごぜ) 盲目の旅芸人」 斎藤 真一  日本放送出版協会 1972年(昭和47年)

 「目をくれた話について」 杉本キクエ(瞽女)との問答 P-285

 実はこんな話があります。昔、母の赤倉カツさんに聞いた話ですが、左甚五郎の母は蛇で、どうしても一度人間の女房になってみたいと思って、ある日、大工さんの所へ美しい女に化けてやって来ました。大工さんは、その女が蛇であることはつゆ知らず、ついに夫婦になってしまいました。そして、その間にできた男の子どもが実は左甚五郎なんです。貴方も左甚五郎という人知っているでしょう。その男の子が三歳になったときでした。ある日母は突然「いろいろご厄介になりましたからお暇をください」と主人に言ったのです。「暇をくれとは一体どうしたことか」と父は女房のそのような言葉が信じられなくて・・・。

 ところが母は、「お前さんを長い間ごまかして本当に申し訳ありませんでした。実は私は、この奥の池に住む蛇の主で・・・もう貴方と契りを結んで子どもまでできて、思い残すことはありません。一生ここにいられる身ではないし、・・・どうかお暇をくださいませ・・・」と言って母は泣いて立ち去ろうとしました。父はびっくりして「しかし、もしお前が去れば、この子は一体どうなるのだ・・・跡で母を慕って泣いて困るではないか、どうか思いとどまってくれないか・・・」と、途方にくれてしまって、母を一生懸命引きとめましたが、
「それでは、この私の目を置いていきましょう、この目さえ離さないで持っていれば、この子は一生涯泣かないで、それに生活も困らないで生きて行けるでしょう・・・」と母は言って父に目をあずけて消えるように去ってしまったのです。でも左甚五郎は母が去った後、それから毎日ひそかにその目を持っていつもにこにこしてけっして泣かなかったのです。

 やがて、この噂が京都の人々に知れお殿様の耳にも入り、殿様はある日、その大工さんに「お前のところに珍しい蛇玉(じゃだま)があるそうだが、そんなものを持っていて、かくしだてする必要はなかろう。一度見せてもらえないだろうか・・・」と言って使いを出したのです。

 大工さんは殿様のおおせとあらばしかたがないので「これでございます・・・・」と言ってその蛇の目を差し出してしまいました。

 「ははあこれがその蛇玉か、なんて珍しいものだ。きれいなものだなあ」と殿様は大喜びで大工にお金や宝物を一杯渡し、蛇玉は宝のように殿様の床の間に飾ったのです。しかし、蛇玉を失った子どもの左甚五郎は、その日からまた泣いて泣いてどうにもなりませんでした。

 父はせつなくなって、また途方にくれてしまいました。そして思いあたったようにその子を負んぶして山に行き、母のいる池のそばまでやって来ると「お母さんよ・・・出て来ておくれ・・・この子泣いて困るから、早く出て来てくれ」と大声で泣きさけびました。すると母は池の中からまた人間になって出て来て「どうしたことかね・・・そんなに泣いて」、「実は、お前の置いていった目を殿様にくれてしまい、この子が泣いて困るからどうしたらいいものか教えてくれ」と父が言うと「私、この子可愛くて可愛くてしかたがない・・・では私のもう一つの目をこの子にあげよう、そのかわり大切にしてくださいよ。私は盲目になり、これから夜も昼もわからない不具な蛇になるのだが、この子可愛いばかりに、私はかまいませんよ・・・、だが、ここで是非ともお願いが一つあります。・・・それはお鐘を作ってください。そしてお寺に差し上げてください。そのお願いさえかなえてくれれば・・・」と言って母は今一つの目を置いて去って行ったのです。

 おけさや松前に「三井寺の鐘の音色もつかねば知れぬ・・・惚れて添わねば気が知れぬ・・・」と言う唄の文句があります。三井寺の鐘が、その鐘なのです。父は三井寺に鐘を献上し、母の蛇玉を持った子どもは、その後立派に成長して左甚五郎という彫刻師になったのですよ。

 私はこの話を赤倉のお母さんから聞いたが、蛇ですら母は子どもに目をくれてしまったのでしょう。なかなか我が子にだって目なんてくれる親はいませんもの。それも両目までくれて、立派な蛇だと思いました。むしろ人間の方が薄情かも知れませんね。

「思い出の記」 小泉 節子

2014年04月06日 00時25分41秒 | 民話の背景(民俗)
 小泉八雲 「思い出の記」 小泉 節子(セツ) 八雲の妻  恒文社 1976年

 P-21

 怪談は大層好きでありまして、「怪談の書物は私の宝です」といっていました。
私は古本屋をそれからそれへと大分探しました。
淋しそうな夜、ランプの芯を下げて怪談をいたしました。
 ヘルン(ハーン)は私にものを聞くにも、その時には殊に声を低くして息を殺して恐ろしそうにして、私の話を聞いているのです。
その聞いている風がまた如何にも恐ろしくてならぬ様子ですから、自然と私の話にも力がこもるのです。
その頃は私の家は化け物屋敷のようでした。
私は折々、恐ろしい夢を見てうなされ始めました。
このことを話しますと「それでは当分休みましょう」といって、休みました。
気に入った話があると、その喜びは一方ではございませんでした。

 私が昔話をヘルンにいたします時には、いつも始めにその話の筋を大体話します。
面白いとなると、その筋を書いておきます。
それから委(くわ)しく話せと申します。
それから幾度となく話させます。
私が本を見ながら話しますと、「本を見る、いけません。ただあなたの話、あなたの言葉、
あなたの考えでなければいけません」と申します故、自分のものにしてしまっていなければ
なりませんから、夢にまで見るようになって参りました。

 話が面白いとなると、いつも非常に真面目にあらたまるのでございます。
顔の色が変わりまして目が鋭く恐ろしくなります。
その様子の変わり方がなかなかひどいのです。
たとえばあの『骨董』の初めにある幽霊滝のお勝さんの話の時なども、私はいつものように話して
参りますうちに顔の色が青くなって眼をすえているのでございます。
いつもこんなですけれども、私はこの時ふと恐ろしくなりました。
私の話がすみますと、始めてほっと息をつきまして、大変面白いと申します。
「アラッ、血が」あれを何度も何度もくりかえさせました。
どんな風をしていったでしょう。
その声はどんなでしょう。
履物の音は何とあなたに響きますか。
その夜はどんなでしたろう。
私はこう思います。
あなたはどうです、などと本に全くないことまで、いろいろと相談いたします。
二人の様子を外から見ましたら、全く発狂者のようでしたろうと思われます。