民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「江戸の卵は一個400円」 その11 丸太 勲

2015年03月30日 00時11分21秒 | 雑学知識
 「江戸の卵は一個400円」 モノの値段で知る江戸の暮らし 丸太 勲 光文社新書 2011年

 「床屋と髪結」 P-74

 床屋の表障子は始終開け放たれていた。というのも床屋は幕府に届け出を出して開業し、町の管理のもと見張りなどの役割も果たし、番所や会所としても利用されていたからだ。
 また、床屋は町の暇人たちが集まる場でもあり、奥の順番待ちの小座敷にはいつも近所の大人たちがたむろし、落語の「浮世床」にあるように一日中無駄話をして過ごしていた。
 店に入るとまず土間があり、土間の向こうが細長い板の間、その向こうが順番待ちの小座敷となっていた。客は入り口に向かって板の間に腰かけ、客の後ろに回った髪結いが月代(さかやき)を剃り、客は扇のような形をした毛受けの小板でそれを受けた。剃り終ると元結(髷の根元を縛った紙ひも)を切り、髷をばらして髪をすき、髷を結い直した。眉の手入れや耳掃除(耳の毛剃り)のサービスまであった。
 床屋の値段は28文(560円)が相場だったが、文化年間には32文(640円)に値上げされた。それでも、お洒落な江戸っ子はまず朝湯でさっぱりし、床屋で髪を整えてから出かけていった。
 従来、髪は自分で結うか、家族の誰かが結っていた。女は髪が結えて一人前とされた。しかし、江戸時代も後期になり髪形が複雑になってくると、到底自分では結えず、髪結いに頼むようになった。
 そこで登場したのが女髪結師で、道具箱を持ってお得意先を回った。人々は3日ないし5日に一度は女髪結の手で結い直した。代金は32~50文(640~1,000円)と、女性の職業としてはよい稼ぎになった。

「江戸の卵は一個400円」 その10 丸太 勲

2015年03月28日 00時21分07秒 | 雑学知識
 「江戸の卵は一個400円」 モノの値段で知る江戸の暮らし 丸太 勲 光文社新書 2011年

 「社交場としての湯屋」 その2 P-73

 当時は石けんなどなかったから、洗い場で身体を洗う際には糠(ぬか)が使われた。糠を袋に入れて肌を磨いたのだ。この糠袋は湯屋でレンタルされ、使用後には返却する。中に入れる糠は1~2文(20~40円)だった。

 また、洗い場には軽石と重い石の二通りの石が置いてあった。軽石はかかとなどをこすり洗う物、重い石は女湯に備えられ、二個を打ち合わせて下の毛を処理するのに使われた(毛切石)。

 正月、端午、七夕、重陽(9月9日)の各節句になると、客は三助(客の身体を流す男)に200文(4,000円)を祝儀として渡した。すると三助は、その客には毎回湯を汲んで背中を流し、上がり湯を留桶(とめおけ)に汲んで差し出してくれた。留桶とは客が湯屋にキープしておいた自分専用の桶で、客はそこに焼印を押したり、定紋を漆描きしたりして、自分なりの目印を付けていた。

 10月中旬になると湯屋では留桶(とめおけ)が新調された。留桶の金額に決まりはなかったが、200文から1分(4,000~32,000円)はした。留桶を買った客は、湯屋の羽目板にその名前と金額が張り出された。祭りのご祝儀が境内に張り出されるようなもので、ここにも江戸っ子の見栄っ張りぶりが現れている。


 今までずっと奇数月には奇数日に記事をアップしてきた。
今月は3月なのに偶数日にアップしてきたことに昨日気がついて、思わず苦笑い。


「江戸の卵は一個400円」 その9 丸太 勲

2015年03月26日 00時24分11秒 | 雑学知識
 「江戸の卵は一個400円」 モノの値段で知る江戸の暮らし 丸太 勲 光文社新書 2011年

 「社交場としての湯屋」 その1 P-72

 「火事と喧嘩は江戸の花」などと言われるが、何度も大火に見舞われた江戸では火事が何よりも恐れられた。そのため長屋にはもちろん、ふつうの民家にもほとんど風呂はなかった。それでも江戸っ子は、毎日のように湯屋に通うほど風呂好きだった。

 仕事から帰ると、「かかあ、湯に行ってくるぜ」「お前さん、夕飯の前に湯に行ってらっしゃい」といった言葉が交わされ、「湯」が湯屋、すなわち銭湯を指す言葉になっていた。

 町内には必ず一軒は湯屋があった。男湯の二階には将棋や碁盤が置いてあり、男たちはそこで茶を飲んだり菓子をつまんだりしながら談笑した。このように、湯屋は町内の社交場としての役割も大きかった。
 湯銭は大人六文(120円)だったが、二階に上がるには16文(320円)の別料金が必要だった。

 湯屋の浴槽は、現在の銭湯の浴槽とは少し違っている。湯が冷めないよう、洗い場から浴槽への入り口には、下に三尺(90センチ)ほど隙間を空けて板戸が張られていた。そのため浴槽に行くには、身をかがめてその隙間から入らなければならなかった。
 この隙間は「柘榴口(ざくろぐち)」と言われた。当時は柘榴から取った汁で鏡を磨いていたことから、「鏡に要(い)る」と「かがみ入る」をかけて、そう呼ばれるようになったのである。いかにも洒落好きの江戸っ子が考えそうなことだ。

 

「江戸の卵は一個400円」 その8 丸太 勲

2015年03月24日 00時28分54秒 | 雑学知識
 「江戸の卵は一個400円」 モノの値段で知る江戸の暮らし 丸太 勲 光文社新書 2011年

 「二束三文」 P-71

 今でも、価値のない物、安物のことを指して「二束三文」と言う。この二束で三文(60円)とは何を指しているのか。

 「二束三文」の語源としては、江戸時代に売られていた金剛草履が二足で三文と安かったことであると説明されているケースが多い。この金剛草履は比叡山の安寧僧正が作り始めたと伝えられる丈夫な草履のことで、これが二足で三文とは信じがたい。
 冷やめし草履でも六文(120円)したことからしても、金剛草履が三文とは納得しづらい。

 中略

 「二束三文」から思い付く物とすれば、当時安物の鼻緒が二束三文で、棒手振りが「二束で三文~」のかけ声とともに売り歩いたことだ。これが「二束三文」の起源という説もあり、著者はこちらに軍配を上げたい。

 ところで、鼻緒と用途が似た靴ひもの値段は、安い物でも300円前後であり、さすがに60円(三文)の靴ひもは見つからなかった。

「江戸の卵は一個400円」 その7 丸太 勲

2015年03月22日 01時26分01秒 | 雑学知識
 「江戸の卵は一個400円」 モノの値段で知る江戸の暮らし 丸太 勲 光文社新書 2011年

 「江戸の履物」 P-69

 日本で一番初めに靴を履いたのは、坂本竜馬だ。銅像にも靴を履いた竜馬の姿を見ることができる。明治以降あっという間に日本人の足元を靴が席捲したが、それ以前の日本人の履物は下駄、草履(ぞうり)、草鞋(わらじ)、雪踏(せった)などで、用途に合わせて履き分けていた。

 中略

 今でも男の和装に欠かせないのが、茶道の祖・千利休が考案した雪踏(せった)だ。雪の積もった露地を茶室に向かうときに湿り気が草履にしみ通るのを嫌い、草履を重ね履きし、さらに裏に牛革を張った。後に真竹皮をさらした物で表を編み、さらに裏金を打つと耐久性も増して、庶民にももてはやされるようになった。雪踏にも上物、並みといろいろあり、値段は200~300文(4,000~6,000円)程度だった。

 江戸の道は雨が降ればすぐぬかるむ。晴れの日は駒下駄(日和下駄)を履くが、雨の日は歯の高い足駄(高さ12センチ、今の高下駄)を履く。

 ブログ主(注)雪踏(せった)という漢字は初めて見た。雪駄(せった)だと思っていた。
どちらも辞書には載っている。
 駒下駄というのは普通の二枚歯の下駄のことを言う。日和下駄は女物の下駄のこと。ググってみるといろんな種類のあることに驚く。 
 日光下駄というのがあって、これは普通の下駄の上に草履を貼ったモノ。
 オレの小さい頃は下駄を履いていた。そういえば下駄をけっとばして天気を占ったなんて今の人は知らないだろうな。ってこんな言い草は年寄りかな。
 リタイアして今はまた下駄を愛用している。