民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

一日一食を実行中

2020年04月26日 15時31分10秒 | 健康・老いについて
4月26日(日)
一日一食にして3週間くらいたつ。
一日一食と言っても、朝はナッツ(アーモンド、クルミ、カシューナッツ)を2、3粒。
種ありプルーン2個をそのたびにすりおろしたショウガと蜂蜜を入れお湯を注いで飲んでいる。
これは半年以上になる朝の習慣、と言うか儀式に近い。

お昼はいままでたいがい麺類(そば、うどん)を食べていたが、
それを止めて、ゆで卵2個だけにした。
毎日、朝お湯を沸かしたときにゆで卵を一個作って午後に食べていたが、
(これは3か月くらい続いている)
一個だと十個入りパックがなかなか減らないので2個にした。
これはそのうち止めようと思っている。

夜は普通の食事。
ご飯は茶碗に軽く、ほんとに軽く一杯。
こんなんで栄養が足りているのだろうかと心配になるほど食べる量は少ない。
毎朝、起きた時に体重を計っている。
もう何年もたいした変化がなかったのに、
ここのところやっと減るようになった。
約3キロほどだが、さすがに体が軽くなった気がする。

現金なもので、こうなると張り合いが出る。
今日は何年ぶりかで散歩に出かけた。
田川沿いを歩いて、スーパーで買い物をして帰って約1時間半。
右の股関節の痛みはなんとか持ちこたえた。
スーパーではほとんど買うものもなく、千円を切った。

あと食生活の変化と言えば、柿の葉茶を飲むようになった。
これは現在3か月目。
それと梅酒を寝る前にぐい飲みに一杯飲むようになった。
これは2ヶ月を過ぎたくらい。

空腹感はあまりない。
一日一食、ずっとやろうとしていたが、いいきっかけができた。
しばらく続けるつもりでいる。

老いは悲しい

2020年03月23日 22時28分15秒 | 健康・老いについて
森永キャラメルが好きで、常時持ち歩いている。
4,5日前、右の奥歯がキャラメルにくっつくようになった。
あきらかに様子がおかしい。
けれど、確かめるのが怖くてそのままにしていた。
昨日、覚悟して、どの歯だろうと指でつまんでいたら、
右上の奥から二本目の歯がポロッと取れた。
根っこは完全に縁が切れていて両側の歯にはさまっていただけだ。
ショックでガクッと肩を落とした。
新車を自分のミスで擦り傷をつけたことがあるが、
そのときのショックに近い。

もうキャラメルを食べるのは止めよう。
なるべく噛むのは避けていたが、
それでもいつかこうなるのではと心配はしていた。
前にガムを噛んでいて、グキッと差し歯が取れてから、
ガムを噛むのは止めていたのに、似たようなことを繰り返してしまった。

取れた歯の跡を舌でさぐると差し歯になりそうもない。
ブリッジになるんだろうな。
三本目のブリッジになる。
そのうち、ブリッジにすることもできなくなって、入れ歯になっていくんだろうな。
暗澹たる気持ちに気が滅入る。
 
数日前に「老いを楽しむ」と公言した。
その手前、落ち込んでばかりもいられない。
しかし、少しずつ、なだらかに坂を下るようになら、
気持ちの整理もつくだろうが、突然はつらい。
だが、「一寸先は闇」
明日、目が見えなくなるかもしれない。
明日、脳溢血かなんかで倒れ、半身不随になるかもしれない。
それでも、「老いを楽しむ」なんてのんきなことを言っていられるか。

前にそんなことを言ってたことを思い出せれば、いくらか救いがあるかもしれない。
それと正岡子規の「病牀六尺」など死の末期まで書いた随筆を読んだのも大きい。
あのありさまに比べたら、歯の一本が取れたくらいで騒いでどうするという気持ちになる。

時間がたって、ショックもだいぶ和らいできた。
しかし、老いは悲しい。
「老いを楽しむ」なんて言うんじゃなかった。

「老いを楽しむ」

2020年03月19日 13時03分43秒 | 健康・老いについて
3月19日(木)
一昨日(17日)東泉会のメンバーのOさんがダンナの転勤で山口県に行くことになったので、
送別会をやった。
時間 1時~3時
場所 木曽路(競輪場通りFKD前)

若いし(たぶん40代)積極的に会に参加してくれたので、いなくなるのは残念。
色紙の寄せ書きにオイラが書いたのは、
「老いを楽しむ」(オイ、お茶、オイ、メシ、オイ、フロの「おい」じゃないよ)
いまのオイラの心境である。

老いは静かに、確実に忍び寄ってくる。
1年前はできたことが、1ヶ月前まではできたことが、
昨日まではできたことが、今日はできなくなる。
以前は「負けるもんか」と逆らっていた。
しかし、いまは逆らわない、「うん」と受け入れている。
(アンチエイジングなんて、くそくらえ)

死ぬまで、いまの心境でいられたらいいと思っている。
しかし、からだが弱ったときに、そう言い切れるかどうか。
死ぬまで、老いを楽しむために必要なのは、
「いつでも死んでいい覚悟を持つ」
これに尽きるんじゃないか。


十返舎一九 ―― 自分の死を笑いのタネに その7

2017年10月02日 00時18分06秒 | 健康・老いについて
「江戸の定年後」 ご隠居に学ぶ現代人の知恵 中江 克己 光文社文庫 1999年

 十返舎一九 ―― 自分の死を笑いのタネに その7

 ベストセラー作家なのに貧乏暮し その2

 天保2年のある日、臨終の近いことを悟った一九は、枕元の門人たちに、厳しくいいわたした。
「おれはまもなく死ぬが、死んだら絶対に湯灌などするなよ。着物も着せ替えてくれなくていい。死んだままの格好で棺に入れ、必ず火葬にしてくれ。よいな」
 門人たちは不審に思ったが、師匠が変わったことをいったり、したりするのは、いまにはじまったことではない。だまってうなずくしかなかった。
 やがて8月7日、一九が息を引き取ると、門人たちはいいつけを守って遺体をそのまま棺に入れ、火葬場に運び込み、焼いてもらった。

 ところが、棺に火がまわった途端、
「ど、どーん」
 すさまじい爆発とともに、棺から激しい火柱が吹きあがったのだ。まわりには、門人や友人たちが神妙な顔をして集まっていたが、なにごとが起こったのかと、肝をつぶしてしまった。
 一九は死の直前に、なんと自分の体に花火の管を巻きつけておいたのである。サービス精神の旺盛な一九は、自分の死まで演出して、集まってくる友人や知人たちを笑わせようとしたのだろう。
 そのうえ、つぎのような辞世まで用意していた。

「此世をばどりゃお暇せん香の煙りと共に灰左様なら」

 ひたすら人をおどろかせ、喜ばせようとする一九らしい死だった。

十返舎一九 ―― 自分の死を笑いのタネに その6

2017年09月29日 00時06分06秒 | 健康・老いについて
 「江戸の定年後」 ご隠居に学ぶ現代人の知恵 中江 克己 光文社文庫 1999年

 十返舎一九 ―― 自分の死を笑いのタネに その6

 線香の煙りと共に灰左様なら その1

 十返舎一九は天保2年(1831)、67歳で没したが、人を楽しませる戯作者らしく、その死も滑稽なものだった。
 健脚を誇り、諸国を取材して歩いた一九が、しきりに体の不調を訴えはじめたのは、五十代になってからである。60歳のころには、さすがの一九も中風になり、手足の不自由に悩んだ。大酒を呑みつづければ、体もがたがたになる。

 文政12年(1829)には、神田から出火し、日本橋、京橋を中心に37万軒を焼き尽くした大火で、一九も焼け出され、裏長屋に転居を余儀なくされた。
 この大火では、死者が二千八百人を超えたが、一九は手足が不自由だったにもかかわらず、よく助かったものである。じつをいうと、一九は二度の婿入りに失敗したあと、妻を迎えており、二人のあいだには娘が一人いた。この娘が成人し、踊りの師匠をしながら一九の世話をしていたのだ。