民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「徒然草」 第74段 蟻のごとくに 

2016年01月31日 00時11分33秒 | 古典
 「徒然草」 吉田兼好 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 角川ソフィア文庫 2002年

 利に群がる蟻人間――蟻のごとくに 第74段 (「清貧の思想」中野孝次の中で紹介)

 人間が、この都に集まって、蟻のように、東西南北にあくせく走り回っている。その中には、地位の高い人や低い人、年老いた人や若い人が混じっている。それぞれ、働きに行く所があり、帰る家がある。帰れば、夜寝て、朝起きて、また仕事に出る。このようにあくせくと働いて、いったい何が目的なのか。要するに、おのれの生命に執着し、利益を追い求めて、とどまることがないのだ。
 
 このように、利己と保身に明け暮れて、何を期待しようというのか。何も期待できやしない。待ち受けているのは、ただ老いと死の二つだけである。これらは、一瞬もとまらぬ速さでやってくる。それを待つ間、人生に何の楽しみがあろうか。何もありはしない。

 生きることの意味を知ろうとしない者は、老いと死も恐れない。名声や利益に心奪われ、我が人生の執着が間近に迫っていることを、知ろうとしないからである。逆に生きることの意味がわからない者は、老いと死が迫り来ることを、悲しみ恐れる。それは、この世が永久不変であると思い込んで、万物が流転変化するという無常の原理をわきまえないからである。

「徒然草」 (序段)いろいろな現代語訳

2016年01月29日 08時23分27秒 | 古典
 「徒然草」 (序段)いろいろな現代語訳

「原文」
つれづれなるままに、日ぐらし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

「徒然草・方丈記」嵐山 光三郎・三木 卓 21世紀版 少年少女古典文学館 10 講談社 2009年
 たいくつしのぎに、一日じゅうすずりにむかって、つぎからつぎにうかんでくることを書くことにしたぜ。とりとめもない話だから、書くわたしのほうだってへんな気分さ。

「徒然草」ビギナーズ・クラシックス 角川ソフィア文庫 2002年
 今日はこれといった用事もない。のんびりと独りくつろいで、一日中机に向かって、心をよぎる気まぐれなことを、なんのあてもなく書きつけてみる。すると、しだいに現実感覚がなくなって、なんだか不思議の世界に引き込まれていくような気分になる。
 人から見れば狂気じみた異常な世界だろうが、私には、そこでこそほんとうの自分と対面できるような気がしてならない。人生の真実が見えるように思えてならない。独りだけの自由な時間は、そんな世界の扉を開いてくれる。

「絵本・徒然草」 橋本 治 河出文庫 2005年(1990年刊行)
 退屈で退屈でしょーがないから一日中硯に向かって、心に浮かんで来るどーでもいいことをタラタラと書きつけていると、ワケ分かんない内にアブナクなってくんのなッ!

「改訂 徒然草」 今泉 忠義 角川ソフィア文庫 1957年(1952年初版)
 じっとして何かしないではいられない気持ちに惹かれて、終日硯に向かいながら、心に浮かんでくるとりとめもないことを、何ということもなく書きつけてみると、自分ながら妙に感じられるほど―――興がわいてきて―――何だかものに憑かれたような気さえして筆を進める。

「解説 徒然草」 橋本 武 ちくま学芸文庫 2014年(1981年刊行)
 身も心も十分なゆとりがあるものだから、一日中机にむかうことのできる状態で、わが心に去来する種々雑多な想念を、とりとめもなく書きつけていくと、(私の心は)言い表しようがないほど熱中し、無我夢中の状態になってしまうのである。

「すらすら読める 徒然草」 中野 孝次 講談社文庫 2013年(2004年刊行)
 為すこともなく退屈なまま、日がな一日硯に向かって、心に映っては消え、消えては映る埒もないこともを、浮かぶまま、順序もまとまりもなく書きつけていると、自分が正気なのかどうかさえ疑われるような、狂おしい心持ちになってくる。

「徒然草 REMIX」 酒井 順子 新潮文庫 2014年(2011年刊行)
 退屈な毎日を暮らしている時に、心に浮かんでくるどうでもいいようなことを何となく書きつけてみれば、何をしているんだかなぁ、俺

「徒然草 全訳注」 三木 紀人 1979年 講談社学術文庫
 所在なさにまかせて、終日、硯に向かって、心に浮かんでは消えてゆくとりとめのないことを、気ままに書きつけていると、ふしぎに物狂おしくなる。

「徒然草」新訂 西尾 実・安良岡 康作 校注 ワイド版 岩波文庫 1991年
 することもないものさびしさにまかせて。心の中を移動してゆく、とりとめのないこと。(通説は、特に定まったこともなく、あてどもなく)妙にばかばかしい気持ちがすることだ。
 

「真向法」 マイ・エッセイ 18

2016年01月27日 00時34分49秒 | マイ・エッセイ&碧鈴
 「真向法」
                                                
(あぁー、なんでもっと早くやらなかったんだろう。もっと早くやればよかった)
 もう定年退職して数年たつというのに、真向法(まっこうほう)をやりはじめたらそんなグチが口をついて出る。  
 真向法とは「健体康心」、健(すこ)やかな体、康(やす)らかな心、を目標とする、日本に昔からある健康体操で、やろうとしたきっかけは「病院に行きたくない」との強い思いだ。
 六十代も後半にさしかかって、同年代の人たちが、病に倒れた話をよく耳にするようになった。
 今までは幸いに、たいした病気もせずに来られたけれど、これから先はどうなるかわからない。だいぶ体にガタがきているな、と思い知らされることも多くなっている。
 自分の体は自分で守らなくてはならない。それにはなんといっても自然治癒力を高めることと、どんな健康法があるのかを調べてみた。
 ラジオ体操、柔軟体操(ストレッチ)、ヨーガ、太極拳、仰臥禅、心身統一合気道、真向法、自彊術、西式健康法、野口体操などが気になった。
(へぇー、太極拳って健康法に入るんだ。それなら日舞とかフラダンスなんかも健康法に入るのかな)
 太極拳は四十代のとき三年ほどやって中断、またやり出して五年になるが、週に一回みんなでわいわいやってるだけだから、健康にいいことをやっているという意識はあんまりなかった。健康法というと、毎日やるもんだというイメージがある。
 真向法は三十数年前に一度やったことがあった。そのときは長く続かなかったが、これは体によさそうだというはっきりした手ごたえはあった。
 真向法は短い時間で、タタミ一枚ほどのスペースがあればできるのがいい。それに四つの動作しかないからすぐ覚えられる。
 ナマケモノのオレにもできそうだ。「よしっ、これをもう一度やってみよう」

 さっそく最新の本を買ってきてやってみた。いまは前と違って、本ではわかりづらいところもインターネットで動画が見られるので助かる。
 まずあぐらをかいて坐り、足裏を合わせて股間に引き寄せ、体を前に倒したり、元に戻したりを繰り返す。次は両足をまっすぐそろえて、三つ目は両足を大きく広げて、同じことを繰り返す。
 この三つの動作をそれぞれ十回やり、 最後に正座をして体をうしろに倒し、バンザイをする格好で両手を伸ばす。そのまま一分間ゆっくり呼吸する。
 これだけだから、慣れれば五分もかからない。これを朝と夜の二回やる。
 やってみると、ちょっと体を曲げようとしただけで、筋・関節が悲鳴をあげる。痛くてとてもできるもんじゃない。いままでいかに不養生・不摂生をしてきたかがわかる。
 いまは山登りに例えれば、やっと登山口に立ったところで、まだ一合目にも来ていないのだからできなくても仕方ないが、それにしてもひど過ぎる。
 機械だったら油を差せばいいんだろうけど、体じゃそういうわけにもいかない。
 くじけそうになるが、いままでいたわってあげなかった体にわびを入れ、一ヶ月ほど頑張って続けていると、はっきり体が変化してきたのがわかった。
 眠っていた筋が目覚め出し、股関節が柔らかくなっていく感覚がある。深層部にある筋肉(インナーマッスル)が鍛えられるのでダイエット効果もあり、毎朝、体重計に乗るのが楽しみになった。
 夜中にトイレに起きることもなくなった。
 そしてなにより朝の目覚めのさわやかさだ。目が覚めるとさっと起き上がれるようになったのは、朝に弱かったオレにとっては画期的なことだ。
 すると真向法にも熱が入ってきた。これをやってるせいで体の調子がよくなっている。もっとやればもっとよくなるんじゃないか。朝、夜に五分やるだけではもの足りなくなり、補助体操なども取り入れ、入念に三十分くらい時間をかけてやるようになる。

 そしていま三ヶ月ほどたって、三合目くらいには来ただろうか。
 理想形にはまだまだだが、最初にくらべればだいぶさまになってきた。
 早く頂上にたどり着きたい気持ちが強くなって、頑張りすぎている自分に必死にブレーキをかける、
(無理をしてはいけない。六十数年分のひずみを直すんだ。あせらず、じっくりいこう)
 それでも、一日一ミリでいいのに、ニミリ近づきたいと躍起になっている。




「穏やかな死に医療はいらない」 その8 萬田 緑平

2016年01月25日 00時31分50秒 | 健康・老いについて
 「穏やかな死に医療はいらない」 その8 萬田 緑平  朝日新聞出版 2013年

 「入院していれば安心」は大嘘 P-110

 それでもまだ、「どうせ寝ているだけなら自宅より病院のほうが便利で安心」と思っている人もいるかもしれませんが、入院には思わぬリスクがあります。
 老若男女、どんな人でもふつうの生活を送る限り、起きているだけで体幹トレーニングを続けています。ところが入院すると居場所はベッド一つ。食事も着替えもテレビを見るのもベッドの上で、上げ膳据え膳です。体力は加速度的に低下し、シャワーの許可が出たけれど腕が疲れてシャンプーができないなど、入院前は意識もしなかった基礎体力がどんどん失われていきます。

 中略

 元来、寝ていなければ治らない病状はわずかしかありません。それなのに高齢者になればなるほどベッド生活で基礎体力を減退させて、病気が落ち着いても身体は動かなくなり、何のための入院だったのだろうとなる。その典型が骨折でしょう。
 高齢者が骨折をすれば、折れた骨が接合するまで安静にしなければ動けなくなると考えて、ご家族も医療者も入院させます。長期入院で骨折は治ったが、体力・筋力の低下で動けなくなってしまい、退院後は自宅で暮らすことができず施設へ。もっと最悪のパターンは、骨折の治療の入院でせん妄になり、鎮静剤によって眠っている時間がさらに長くなり体力激減、食事もできなくなり胃ろうを入れて施設に入る・・・。いや、最悪というより、かなりよくあるコースです。

 萬田 緑平(まんだ りょくへい)
1964年生まれ。群馬大学医学部卒業。群馬大学付属病院第一外科に所属し、外科医として手術、抗がん剤治療、胃ろう造設などを行うなかで終末ケアに関心を持つ。2008年、医師3人、看護師7人から成る「緩和ケア診療所・いっぽ」の医師となり、「自宅で最後まで幸せに生き抜くお手伝い」を続けている。

「穏やかな死に医療はいらない」 その7 萬田 緑平

2016年01月23日 00時10分36秒 | 健康・老いについて
 「穏やかな死に医療はいらない」 その7 萬田 緑平  朝日新聞出版 2013年

 点滴がむくみをつくり、呼吸を苦しくさせる P-67

 問題は、そもそも水分補給が必要かというところにあります。
 食べられなくなると血液中のたんばく質が減少し、血管の中の水分などが外に漏れ出して皮下にたまり、むくみが出現します。しかし本来であればこのむくみが症状として現れる前に、やせてしおれ、枯れたようになり、やがて亡くなっていきます。これがいわゆる「老衰」と言われる死に方であり、僕が考えるもっとも自然でつらくない人間の生き方であり死に方です。
ところがここで点滴をしてしまうと、体内は水分過剰な状態になり、さらにむくみが進みます。一番、わかりやすいのは足です。普通体型の方でも、足首がなくなり、ふくらはぎは太もものようになり、ゾウの足のようになります。むくみは上半身ではなく下半身に出やすいため、ふとんをめくって見るとびっくりしてしまうような状態になります。本当にひどい場合は、足から体液がしみ出してきます。パツンパツンの足から汗とは明らかに異なる水分が出るのです。もちろんこんな状態では歩くこともままならず、患者さんは寝たきりの状態に追いやられます。

 中略

 さらに、点滴で入れた水分が身体中に余って分泌物が多くなると、患者さんの喉元に痰がたまりやすくなり、ゴロゴロと苦しそうな息をするようになります。痰がたまっても咳をして出す力もない時期が必ず来ます。あまりに苦しそうなので、看取りを覚悟しているはずのご家族でも思わず、「これだと死んでしまう!」と医師や看護師に訴えるくらいです。
 もちろん吸引器で痰を取ることはできますが、喉を開かせて太いチューブを突っ込み、むせ込む反射を利用して痰を吸引するのは、患者さんの相当な苦痛を伴ないます。苦痛のために意識が戻り、チューブをかじって抵抗する患者さんもいるくらいです。
 この状況を避けたり、少しでも症状を軽くしたりするためにも、点滴で余分な水分を入れないほうがよいのです。

 後略

 萬田 緑平(まんだ りょくへい)
1964年生まれ。群馬大学医学部卒業。群馬大学付属病院第一外科に所属し、外科医として手術、抗がん剤治療、胃ろう造設などを行うなかで終末ケアに関心を持つ。2008年、医師3人、看護師7人から成る「緩和ケア診療所・いっぽ」の医師となり、「自宅で最後まで幸せに生き抜くお手伝い」を続けている。