民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「日本語が世界を平和にするこれだけの理由」 金谷 武洋

2015年04月30日 00時03分22秒 | 日本語について
 「日本語が世界を平和にするこれだけの理由」 金谷 武洋 飛鳥新社 2014年

 はじめに P-2

 日本の学校の国語の授業では、日本語の本当の姿が教えられず、可哀想なことに生徒たちが根本的に間違った文法を習わされている―――そう言われれば皆さんはさぞ驚かれることでしょう。
 しかし、まぎれもない事実なのです。

 中略

 諸悪の根源は、実は英文法です。いや、英文法自体に罪があるわけではもちろんありませんが、国語の授業で教えている日本語の文法は、明治維新、つまりおよそ150年も前から英文法が土台になっていて、そのことが大問題なのです。
 悪いのは学生でも一般の方でもありません。うすうす気づいていながら日本語文法を明治以来の「学校文法」で教え続けている国語の先生たち、そしてその後ろにある文部科学省のお役人、そしてそうした不備を正しく指摘した学者がすでにいたのにそれを無視して、客観的、科学的な学問的研究を怠ってきた言語学者、とりわけ東京大学を始めとする「有名大学教授」や「名誉教授」たちに責任があります。

 後略

「わたしを見かけませんでしたか?」 コーリィ・フォード 

2015年04月28日 23時44分14秒 | 雑学知識
 「わたしを見かけませんでしたか?」 コーリィ・フォード 浅倉 久志 訳 早川書房 1997年

 訳者あとがき P-213

 ホテルの入り口などにある回転ドアというやつは、なんとなく敬遠したくなるしろものです。わきでこっそり見物していると、たいていの人がそのそばにある自動ドアのほうを選択しているようですが、これは無意識の恐怖が働いているせいでしょうか。
 なにしろ、自動ドアという便利なものができる以前には、こんな悲劇も生まれたらしいからです。

 靴下を買おうとデパートの回転ドアへ思い切って飛び込んだ”わたし”は、おなじ仕切りのなかに先客がいるのを発見した。この老紳士、ドアをくぐったことはくぐったものの、外へ飛び出す勇気が出ないままに、先週からここでぐるぐるまわりつづけているという。ふたりでいっしょに飛び出しませんかと”わたし”が誘っても、老紳士は、いや、あなたは前途のある身だからわたしにおかまいなくどうぞ、慣れるとこの暮らしもそんなにわるいもんじゃないですよ、と固辞するばかり。もし妻に会ったらわたしが元気でいると伝えてください、という声を背後に聞きながら、”わたし”がようやく仕切りから脱出してみると、そこはもとの街路の側だった・・・・・。

 井上一夫訳編の名アンソロジー『アメリカほら話』(ちくま文庫)に収録されているこの「回転ドア」という短編は、わずか10枚程度の長さの中に、奇抜な設定と誇張のおかしみ、そこはかとない哀愁までを詰め込んだ古典的名作です。1920年代の中ごろにこれを書いたのが、大学を出てまもない新進作家コーリィ・フォードでした。

 第一次大戦後、アメリカが未曾有の好景気に湧き、その一方で禁酒法と婦人参政権という大きな社会変動を経験した狂乱の1920年代は、ギャング・エイジであり、ジャズ・エイジであると同時に、アメリカン・ユーモアの黄金時代で、映画や舞台に笑いの世界がひろがっただけでなく、この作品のような、カジュアルともユーモア・スケッチとも呼ばれる「小説とも随筆ともつかぬ、しかし、明らかに笑いを意識して書かれた短文」が全盛をきわめました。

 以下略

「主語を抹殺した男」 評伝 三上 章

2015年04月26日 01時18分40秒 | 日本語について
 「主語を抹殺した男」 評伝 三上 章  金谷 武洋  講談社 2006年

 学歴社会日本の差別構造 P-194

 私は、もし橋本文法でなく、山田文法が学校文法に採用されていたら、日本語と日本人にとってどんなに良かったかと思う。文法の質として雲泥の差があるのは、山田文法は橋本文法よりもはるかに日本語の発想に根ざしているからである。学校文法にならなかった理由を忖度(そんたく)すれば、それはきわめてあきらかだ。山田が富山中学を中退しているからである。山田は独力で、実力で小中学校教員検定試験に合格し、その後、一歩一歩、文法学者への道を進んで大成した第一級の学者である。

 しかし、いかに自分の頭で文法を編み出す実力をしめしても、「学歴は中学中退」と目にしたら、もうそれで文部科学省のお役人は思考停止してしまうのである。丸山真男(まさお)の言う「である社会」の悲しさだ。山田の「中学中退」に対して、橋本進吉はは東京帝国大学言語学科の卒業だから比較の対象にならない。学歴社会、日本が如何に非生産的な選択をしているか、その差別構造を眺めるのに、山田と橋本の二人はたいへん役立つ実例である。

 現在の国語学界の大御所、大野晋が三上文法をまったく相手にしない理由はいったい何かも考えてみよう。私には、大野が橋本進吉の東京大学での愛弟子であり、三上が恩師橋本進吉先生の学校文法を批判しているからとしか思えない。つまり学問ではなく政治闘争なのである。大野は三上に反論しない。いやできない。反論すれば学問になってしまうからだ。

 試みに、大野が編著・解説者である『日本の言語学』第三巻の中の「総主・提題・ハとガ」という章を見てみよう。三上の死後、1978年の刊行である。この章が扱う事項は三上文法がもっともよく説明できるものだ。然るに、あろうことか、その章に三上の名前はただの一度も、本文はおろか参考文献にさえ出てこないのである。自分の恩師の文法が批判されたのなら、なぜ恩師になり代わって反論しないのか。

 同年刊行された『日本語の文法を考える』の方では、巻末の補注に大野が三上の名前を挙げている。そして「氏は主語廃止論を述べ、また助詞の代行という理論を立てている。それらの点で私は三上氏の論に賛成しかねた」と書いているが、これで「日本の言語学」に三上文法を取り上げなかった説明のつもりなのだろう。

 しかしこれは反論になっていない。肝心なのは「なぜ」賛成しかねたのかを具体例を挙げて述べることで、そこからお互いを高め合う摺り合わせが始まるのである。それが学問と言うものだろうが、大野はそれを意図的に避け、三上文法に門前払いを食わせたのだ。

 三上は橋本学校文法を批判して、とくにその主語論に対し、開いた口がふさがらない」と書いた。そしてその理由を具体例で論証した。明治維新以来、無理が通って道理が引っ込む体制を露呈してきた国語学界は、今度の日本語学界への改称をいい機会に、こうした保守的で旧態依然とした体質を改める必要があるだろう。名前を変えることは体質を変えることの保証にはならないが―――。

「数学者の休憩時間」 藤原 正彦

2015年04月24日 00時53分44秒 | エッセイ(模範)
 「数学者の休憩時間」 藤原 正彦 新潮文庫 1993年(平成5年)

 男のルネサンス 9 P-162

 近ごろ、新人類と呼ばれる世代のことがよく話題にのぼる。彼らは従来の価値観にしばられない自由な発想や行動をするから注目を浴びるのだろう。旧人類はあっけに取られているものの、大概は若さへのコンプレックスからか、彼らを積極的に評価することで、理解ある大人ぶりを示している。
 読書離れをメディア革命の一現象と当然視したり、努力を嫌う傾向を貿易摩擦解消の決め手のごとく言ったり、物事をじっくり考えない時勢を感性の時代と持ち上げたりする。
 しかし、書物より映像に傾斜し、古典や伝統を軽視し、ナウいものにだけ触覚をめぐらせる、といった風潮を新しい価値観などと言わない方がよい。放蕩ぶりを露骨に描写しただけの作品を新しい文学とほめそやしたり、年老いた親をかえりみない息子や嫁を現代流と認めたり、赤児と冷凍した母乳を親に預け二週間ものハワイ旅行へ行くタレントを新感覚と呼んだりしない方がよい。
 実は新人類の特徴と言われるものの多くは、単なる無知、無経験、無責任などに帰せられる。これはどの時代の若者にも共通で、我々もさんざん言われたものである。
 真に憂うべきは、情緒力不足が目につくことである。じっくり考えるのも、歯を食いしばって頑張るのも、他人の不幸に敏感なのも、故郷や古きものを懐かしむのも、みな情緒の力による。
 私の育った戦後は、だれも彼もが貧乏だった。私の母は夜遅くまで洋裁の内職をして、なんとか生活費を捻出していた。ようやく買えた一日一本の牛乳は、兄弟三人で分けて飲んだ。クラスには、わずかな電車賃を払えぬため遠足は必ず欠席する者、昼食時間になると教室をそっとぬけ出し砂場で遊んでいる者などもいた。身の回りの貧困を通してわれわれは多くを学んだ。
 また自然の中で終日遊んだことや読書に胸を躍らせたことも情緒育成に役立ったと思う。その後、日本はかつてなく豊かになり、自然は都会から消え、読書はテレビやマンガなどの映像文化にとって代わられた。このような変化の激しさに目を奪われ、情緒の視点を教育の中枢に置かなかったのは、大きな失敗ではなかったか。
 先日そんなことを学生に話したら、一人が、「愛国心も薄いから、少なくとも戦争を起こさない」と反論した。否(いな)。戦争を起こすのは愛国心ではない。日本の国を、山河を心から愛する人々が戦争を起こすはずがない。それだけの情緒力があれば、他国の人の同じ想いをも十分に汲めるからである。情緒力不足の人間こそ、国を滅ぼすのではないか。 
 長い戦争と貧困を涙の中で生き抜いてきた旧人類の、深い情緒力に打たれることは、私自身しばしばある。旧人類は自信をもってものの道と心を次世代に伝えるべきと思う。成人した青年を社会でしごき鍛え直すのは、主に男の役目である。旧人類の男たちの奮起猛攻が期待される。それに耐え、そこから何かを掴む者だけが時代を担う。それが歴史であり、生物の摂理と思う。

 藤原正彦 1943年生まれ、数学者、エッセイスト。父は作家、新田次郎。

「昭和おもちゃ箱」 阿久 悠

2015年04月20日 00時15分33秒 | エッセイ(模範)
 「昭和おもちゃ箱」 阿久 悠 産経新聞社 2003年(平成15年)

 あの頃と今この時―――あとがきにかえて

 時代は見えない。多くの人が時代を見つめると云い、ぼくもまた、それをテーマにする作家だと語っているが、実は、時代そのものには姿がない。
 それはちょうど、人間の体の中に「健康」という部分がないのと同じことである。他のものをもって、「健康」の存在や不在を証明する。それが血液であったり、尿であったりする。
 それと同じことが時代にも云えて、その時誕生したり、存在したり、繁殖したものの組み合わせで、初めて時代の輪郭が見えるのである。それらは一見、単なる楽しみごとであったり、売りたい一心の商品であったり、突発の事件であったりするもので、時代を構築する意図などまるでなかったかに見える。ただし、それらが出現するにはそれなりの環境があったということで、これに思いを馳せると、「あの頃」と「今この時」が読めるのである。
 ぼくは、数字による報告書なるものをほとんど信じていない。数字化された時点で死滅する真実があって、それが「その時その時に特に感じた心持ちと気分」であるからである。生きた人間の心持ちと気分を無視して、何かを数字で表現したとしても、そこからは何も見えない。なぜなら、風俗を統計化すると、それはもう風俗ですらなくなってしまうからである。

 中略

 なぜか、昭和30年代を懐かしむ空気が社会に満ち始めている。商店街の通りがあり、映画館があり、銭湯があり、喫茶店があり、貸し本屋があり、駄菓子屋があり、そして、少々の暗がりの場をおいて、ぽつんと裸電球の街灯がともり、ラーメンの屋台が出ている。そういう懐かしの町を、現実に復活させているところもあるらしい。
 そこを訪ねた人は、当然のことに懐かしがる。生き返ったような顔をする。それどころか、その町の景色も匂いも知る筈のない若い人たちまでが、「ある種の不思議な懐かしさ」を覚えるという。
 なぜなのだろうか。それは説明し難いことだが、今の社会があまりにも「湿り」と「暗がり」を忘れ、人間と人間が対面して話すことを忘れてしまったための、飢えの結果ではないかと思う。良きにつけ悪しきにつけ、間違いなく人間が主体であった時代を恋しがるのであろう。

 かつて、といってもほんの40年前ぐらいまでは、人間はよくしゃべった。挨拶もよくした。しゃべらなくなったのは、挨拶の相手が自動販売機になってしまったことと、ヘッドホンステレオと携帯電話で耳を塞ぐようになってからである。同時に表情が消えた。

 後略

 平成14年12月5日 伊豆にて