民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「不如帰」 のぞきからくり 口上 

2013年05月31日 00時28分37秒 | 大道芸
 「不如帰」 のぞきからくり 口上 

 映画「長屋紳士録」(1947)で笠智衆が歌った「不如帰」(ほととぎす)の口上(か­らくり節)
 箸で茶碗を叩くリズム ちゃちゃちゃん・ちゃん(ちゃ) ちゃちゃちゃん・ちゃん(ちゃ)

 あらすじ
 片岡陸軍中将の娘、浪子(なみこ)は、海軍少尉、川島武男(たけお)と結婚したが、
結核にかかり、家系の断絶を恐れる姑によって武男の留守中に離縁される。
二人の愛情はとだえなかったが、救われるすべのないまま、
浪子は、もう女になんぞ生まれはしないと嘆いて死ぬ。

 三府(さんぷ)の・・・・一(いち)の 東京で(ああどっこい)
波に漂う ますらおが はかなき恋に さまよいし
­父は陸軍 中将(ちゅうじょう)で 片岡子爵の 長女にて(ああどっこい)
桜の花の 開きかけ 人もうらやむ­ 器量よし その名も片岡・・・・・ 浪子嬢
(ああちょいと)海軍中尉 男爵の 川島武男の 妻となる
新婚旅行を いたされて 伊香保の山に ワラビ狩り(ああどっこい)
遊びつかれて もろ­ともに 我が家をさしてぞ・・・・・ 帰らるる
(ああちょいと)武男は軍籍 あるゆえに やがて征く­べき 時は来ぬ
逗子をさしてぞ 急がるる 浜辺の波は おだやかで(ああどっこい)
武男­がボートに 移るとき 浪子は白い ハンカチを(ああどっこい)
打ち振りながら 「ねえ­、あなた 早く帰って 頂戴」と
仰げば松に かかりたる 片割れ月の 影さびし 実にまあ・・・・・哀­れな・・・不如帰

 https://www.youtube.com/watch?v=XK4ccsCI6Wc

「盛り場の民族史」 その2 神崎 宣武

2013年05月29日 00時23分27秒 | 大道芸
 「盛り場の民族史」P-31~P-33  神崎 宣武(1944年生)  1993年 岩波書店

 「私らがこの商売をはじめたころは、タンカバイは大勢いたね。
高市(たかまち、仮設の露店市)といやぁ、タンカバイがずらっと並んでいたもんだ。
 そうさ、バナナ、セト(陶磁器)、ヤホン(本屋、おもに古本)、ランバリ(衣料)、
ベッコウ(飴)、シチミ(唐辛子)、みんなタンカバイさ。
ジンバイ(口上を述べない商売)は、俺たちの世界では素人扱いだったよ。
 それが何だい、このごろは。皆、黙って座ってらあ。
いらっしゃい、って声かける奴も少なくなって、薄っ気味悪いったらないね。
この界隈でタンカバイするのは、俺っきりになっちゃった。
そうすると、あっちに並ばせてはくんねえよ。
俺ひとりが離れてバイ(商売)さ。
まあ、ご時勢だからしかたねえけどさ・・・・・」

 と、徳田さんはいう。
 ちなみに、徳田さんは、68才(平成5年現在)。
ということは、この4,50年のあいだに高市(たかまち)の風景が様変わりした、ということになる。
たしかに、高市で商売をしてきた徳田さん世代の人達は、口々にそうした変化を語ってくれるのである。

 まず、商売面からいうと、現在の高市では食品が主流になっている。
それも、焼きそば、お好み焼き、たこ焼き、イカ焼きなど、その場で調理する食品が多い。
いいかえると、ガスボンベ、鉄板、アイスボックス、それに屋根つきのスタンドなど、
その装置が大型化してきたのである。

 これは、自動車交通の発達を前提にしなくてはならない。
もともと、彼ら露店商人たちは、寺社の祭礼や縁日にあわせてたつ高市を巡って、
商いをつないでいるのである。いわゆる行商人なのである。
すると、自動車をもたずして、そうした大型の装置を運ぶことは不可能に近い。
それに、生ものの扱いもむつかしい。
材料を調えて運ぶとなると、体積(かさ)や重量に対する手立てだけでなく、
保存の手立ても必要になる。
自動車や保存容器の普及があってはじめて、それが簡単になるのである。

 したがって、かつての露店の商品は、鉄道やバスの手荷物として運びやすいものに限られていた。
あるいは、自転車や徒歩でも運べるものに限られていた。
かさばらず軽量で、壊れにくく、腐れにくいものがその条件であった。
しかも、行く先々で簡単に補充できなくてはならない。
安く仕入れたり、手早く加工できることも条件であった。

 生薬、薬味、飴、衣料、暦、掛け軸など。呉服や掛け軸は、当然ながら古物が多かった。
とすれば、特別な値打ちものであろうはずがないのである。
むしろ、半端ものが多いとするのがよい。
だからこそ、それに話術や演技をつけて、さも値打ちものに見せかける必要もあったわけである。

「盛り場の民族史」 神崎 宣武

2013年05月27日 00時11分32秒 | 大道芸
 「盛り場の民族史」P-29~P-31  神崎 宣武(1944年生)  1993年 岩波書店

 徳田さん(68才、平成5年現在)は、短く刈り込んだ白髪頭に手拭いで鉢巻きをし、商いをはじめる。
ダミ声である。が、けっして大声は出さない。むしろ、仏頂面。
ひとりごとを、しかも棒読みで唱えるごとく愛想のない口上である。
しかし、それも話術のひとつなのであろう、自然と客の足が止まるのである。

 「もうちょっと前の方へ集まってもらいましょう。
何もこのナイフで切りつけようとするんじゃない。
ナイフの使い方を、席料とらずにお教えしようというわけだ。
このナイフ、十徳ナイフという。
私の親父が徳田十兵衛。徳田の十兵衛が工学博士、伴野明先生のもとに通って三年八ヶ月、
出雲の玉鋼(たまはがね)を鍛えあげてつくりだした特許ものだから、十徳ナイフという。
その技術開発の由来は、これなる説明書に書いてあるので、必要な人は申し出ておくれ。
ただし、ナイフについての箱入りだ。
ただではない。ただは、非常識。たった二千円ほど使いなさい。
 というても、あわてるな。あわてる乞食はもらいが少ない、というぞ。
これから私が使ってみせるから、その目でたしかめてください。
 十徳は、十の徳。ナイフはナイフでも、ただの切れものではない。
ナイフをたたんで、こいつを引き出すと、錐(きり)。キリキリッの錐。
おあとは、千枚通し、栓抜き、缶切り、やすりにガラス切り・・・・・」

 といいながら、徳田さんは、実演をするのである。
木片を削り、缶を切り、ガラスを切る。
じつに無造作な、しかし、見事な手さばきである。
とくに、厚手のガラスに波状の切れ目を入れ、
手でぽんと叩いて、その切れ目通りにあざやかに割るところでは、
とりまいた客からため息やら歓声があがる。
 徳田さんは、相変わらずの仏頂面である。

 「これは、私の腕ではない。
十徳ナイフ、十の徳のうちのひとつ、ダイヤモンド・ローラーの冴えなんだ。
このローラーの先っぽは、タンガロイ、鋼(はがね)の三倍の硬さがある。
どんなガラスでも自在に切れる。
だが、見てのお楽しみはここまで。あとは使ってのお楽しみだ。
包丁が持てる人、箸が持てる人なら誰でもが使えます。
資格は問わず、免許は皆伝。
黙ってみてるこたあねえだろ。ウンとかスンとかいいなさい。
ウンで二千円、スンで二千円。ハイ!二丁で四千円だ」

 徳田さんの口上につられて、思わず「ハイ」と答えてしまう客が必ず二人や三人はいるものだ。
話のつじつまが合っていない、とか、どこかで聞いた話だなあ、とか、
使いこなすには相応の技術がいるだろう、とかの疑問をはさませないで押し切る話術と演技・・・・・
それが、大道でのタンカバイ(口上売り)なのである。

 いうなれば、客の平常心を奪う「商いの芸」なるものが存在するのだ。
徳田さんの場合、話術や技術はもちろんのこと、その仏頂面までが芸のうち、ということになるだろう。

「猿まわし復活」その調教と芸 その2 村崎 義正

2013年05月25日 00時01分12秒 | 大道芸
 「猿まわし復活」その調教と芸 その2  村崎 義正(昭和8年生)著  1980年(昭和55年)出版

 高洲では、猿回しの旅に出ることを、「上下ゆき」と呼んでいた。
字が示す通りで、高洲を起点にして、京阪神や東京方面に旅することが上(じょう)、
九州方面に旅するのが下(げ)で、上り、下りの旅のことを合わせて上下ゆきと呼んだのである。
(中略)
 調教は誰にでもできるものではない。
猿は猛獣であるから、気力、体力、すべての点で、猿にまさる者でなければならない。
弱い人間が調教をこころみたら、あべこべに噛み付かれてしまう。
また、調教師は、練習は人前でやるが、芸の根切り(仕上げ)は、人前ではやらない。
根切り法を他人に見せると盗まれる。
盗まれたら飯の食い上げである。

 芸態は二種類ある。
ドカ打ち(戸別訪問)バタ打ち(街頭、広場で人集めする)であるが、
ドカ打ちは一軒、一軒訪問して猿に芸をやらせ、なにがしかの銭を貰う。
少しでも多く稼ごうと思えば長居は無用であるから、
猿が直立歩行をし、輪抜けか、宙返りができればいい。
このドカ打ちは、物貰いに毛が生えた程度の芸能なので、きびしい差別の洗礼を受けることになる。
バタ打ちは、街頭や広場で多数の人を集めて、人の輪の中で猿に芸をおこなわせて銭を取るので、
はっきり芸能と銘打てる芸態である。

 ドカ打ちは一軒、せぜい、一銭か、二銭なのに対し、
バタ打ちは、多数の観客から金を取るので一回、五十銭、一円の稼ぎになる。
そのかわり、猿も人も芸達者でなくてはいけない。
一回、せいぜい、十五分か二十分の演技であるが、輪抜け、宙返りはもとより、
逆立ち、竹馬、綱渡り、芝居など、すくなくても十種類くらいの芸がこなせなければさまにならない。
芸人は口達者で声がよくなくてはいけない。
多くの人前での演技であるから、押しも強くなくてはいけず、誰にでもやれるものではないから、
稼ぎがよいのはわかっていても、おいそれとは手が出せない。

 高洲の芸人達のほとんどは、芸人になるための修行をおこなったことのない素人の、
にわか芸人であり、ドカ打ちがせいいっぱいである。
親方に引率されたにわか芸人達は、故郷を発つ前、親方から、三十円から百円の賃金の前借をおこなって、
一年分の生活費として妻や子に渡してゆく。
親方は前貸しをすると芸人を束縛でき、無理な使役ができる。
芸人の側からすれば、まずしいからやむを得ないが、一年間の身売りであった。

 親方は、子方を夜明け前から追い出し、とっぷり日が暮れなければ帰さない。
一日二円のノルマが果たせなかった者は、夜、門付けなどをやらせて、ノルマを果たさせた。
ノルマが果たせない日が続くと、柱にくくりつけたり、ソロバンで殴ったり、
焼ゴテを当てたりして残虐の限りをつくした。
一年の旅で、前借が返済できなかったら、次の年は、前借なしで、旅に出なければならない。
(中略)
 上下ゆきは地獄ゆきとわかっていて、旅立ちしなくてはならなかった芸人達が住んでいた高洲は、
余りにもまずしかった。
(中略)
 高洲の者に与えられた仕事は、死牛馬の処理とであった。
とは役人の下働きであるが、牢番、犯人の護送、刑執行の手伝い、犯罪人逮捕の手伝い、
警備などであった。
一日稼働して米七合の給与だった。
一年間通して働けるわけではないので、とうてい、生活がなりたつほどのものではない。

 死牛馬を処理して皮は藩に納め、肉は貴重な食料になった。
ところが、死牛馬を食べるというので、浅江の里人に、激しい差別を受けることになる。
法制上、最下層のエタ身分に落とされていたが、
生活実態からも差別されるよう毛利藩が仕組んだのである。

 死牛馬の処理やだけでは生活ができないので、
自然の中から、食べられるものならなんでも取って来て食べた。
部落史を書くのが目的でないので、その実態をのべることができないが、
とにかく、高洲での生活は、原始生活に近い状態であったと、思って貰えばいい。
(中略)
 猿回しが、高洲の砂っ原で、一大芸人村を形成しえたのは、
この地には、生きる条件が皆無であったのと、
どのような過酷な条件のもとでも生き抜いて来たバイタリティが、
猛獣をうむを言わさず組み敷くところまでつちかわれていたからである。
甘く育った人間には猿は組み敷けない。

 仕事のない高洲の人達は、手っ取り早い稼ぎとして猿回しになり、上下ゆきを始めたが、
国民に親しまれる反面で、うすぎたない大道芸人として差別され、親方には、しぼられしごかれ、
家族とは永い別居生活で、辛く、苦しく、日送りをしていた。
地元にいて、かつかつ仕事が得られ、家族と一緒におかゆでもすすっておれるなら、
誰がいまいましい猿回しなどになるであろう。
こうして、昭和の初期、一本立ちでいい稼ぎになるバタ打ちを残して、高洲のまずしい人々は、
自らの意志で、猿回しを捨てていった。(P-33~P-39)
 

「猿まわし復活」その調教と芸 村崎 義正

2013年05月23日 01時04分41秒 | 大道芸
 「猿まわし復活」その調教と芸  村崎 義正(昭和8年生)著  1980年(昭和55年)出版

 私が猿まわしに興味を抱くようになったのは、昭和37年に、重岡武寿、博美の兄弟二世帯が、
高洲(山口県光市)へ、東京から引き揚げて帰ってからである。
彼ら兄弟は猿まわしであった。
そして、兄、武寿の妻、美枝子が私の従姉であったから、誰よりも先に交際が始まり、いやおうなしに、
猿まわしについて認識を持つことになった。
(中略)
 武寿は、頭がつるりと禿げあがって、眼光きわめて鋭い男である。
体も頑丈で、仁王様のような気迫を発散させていた。
縄張りを持たない者が、大道で生きてゆくのは容易なことではない。
そのきびしさが、精悍な彼をつちかってくれたのであろう。
(中略)
 大道で太鼓を鳴らし、人々を集めて、猿に芸をさせ、弁舌さわやかに、口先三寸で、
客のふところから小銭を巻き上げることになれているので、なかなかの説得力をもっている。
(中略)
 明治、大正の、猿まわし全盛時代には、この高洲には、150頭の芸猿がいた。
つまり、150人もの猿まわし芸人がいたことになる。
元締めである7人の親方衆とそれに専属する調教師もいた。
山口県のへんぴな片田舎に、大芸人ができあがっていたのである。
(中略)
 しかし、武寿という男、たいしたものであることに違いない。
わずかなアドバイスで、よく自分の世界を造りあげた。
高洲は、かつて、猿まわしのふるさとだった。
そのことを卑屈にかくし通そうとする有力者達が、いくらじたばたしても、苦難のすえ、
新境地を開いた武寿に歯が立つ訳がない。
やらないうちから勝負はきまっている。
(中略)
 高洲の親達は、子供たちに、高須が猿まわしのふるさとだったことを絶対に話さない。
みんなでしめし合わせている訳ではないが、誰一人、話すものがいないので、
子供たちは、まったくと言ってよいほど、その史実を知らない。
親達が話さない理由は、「猿まわしと言えば民」「民と言えば猿まわし」と言われたくらい、
かつては、猿まわしそのものがきびしい差別にさらされてきた。
口では説明できないくらい、辛い思いを嫌というほどあじわってきた。
だから猿まわしをやめた。
高洲では、猿まわしはタブーになった。
そこへ、猿まわしが二人も帰ってきて、高洲を根城に堂々と商売を始めたから、むくれるのである。
(中略)
 博美は、道を歩く時、いかつい体をちぢめるようにして、うつむいて歩く。
この世の罪を一人で背負い込んでいるかのような風にである。
また、猿まわしに対するの強い風圧に必死に耐えているようにも見えた。
もちろん、彼はねばりのある強い意志を持った男なので、の風圧など、
なんとも思っていなかったに違いないが、外見上からは、日陰者のような印象しか映ってこない。
 
 博美がバタ(街頭や広場で人を集めて芸を見せる興行形態)打ちの名人と聞いて、私は首をかしげた。
バタ打ち芸人は、声がよく、弁舌がさわやかな者でなければ、できるものではないと、
聞いていたからである。
陰気くさく無口で、風貌のさえない彼にバタ打ちなど、とうていできるとは思えない。
人は見かけによらないもの、だと私は思う。
その点、解せないので、私は武寿に聞いてみた。

 博美は口上では点が取れない。
つまり、稼げないので、猿の芸を上げてゆくために死力をつくした。
猿の芸のなかでは、自転車乗りがもっともむつかしい。
その自転車乗りの際、博美の猿はタナ(綱)をはずして自由自在に乗りまわることができた。
猿からタナをはずすことは禁物である。
なぜなら、タナをはずすと、猿が逃亡するからであった。
芸人と猿がよほど気が合っていないとできる業ではない。
これは至芸と言える。
猿まわしの千年にもわたる歴史の中で、タナをはずして猿に芸をやらせるなど、
およそ考えられないことであった。
(中略)
 私が博美を敬遠して間もなく、武寿、博美の兄弟は、ぷっつり猿まわしを廃業して、武寿は塗装工に、
博美はとび職に転職した。
原因のきっかけは、5月14日、光市室積の普賢市で博美がバタを打っていて、客が殺到した時、
石灯籠が倒れ幼児が下敷きになって死亡したからである。
もちろん、博美の責任ではなかったのだが、その時、ぷっつり心の糸が切れてしまった。

 武寿、博美の兄弟は、猿芸を史上まれにみる高度な水準に引き上げておきながら、
世の冷たさによって転職をよぎなくされ、どれだけ辛かったに違いない。
兄弟は、私が考えていたより、追い詰められていた。
猿まわしは、街頭や広場に沢山人を集めて芸を見せ、
雨あられのように投げ銭を投げて貰うところにだいご味がある。

 ところが、高度経済成長期にはいると、車優先の社会になり、猿まわしは街頭から追ぅ放らわれた。
武寿、博美の兄弟が、もっともいい商売になる東京を引き揚げたのは、街頭から追われたからである。
警察官による迫害、暴力団、香具師との抗争で追い詰められた。
芸能プロダクションに入る以外は道が閉ざされた。
月給で、バーやキャバレーのアトラクションに出た。
酔客が、千円、一万円と、チップをくれる。
ところが、そのチップもプロダクションの収入として取り上げられた。
嫌気が差した。
いくら月給がよくても、我慢がならないことである。
(中略)
 幾年かのち、博美は、建設現場の足場の上から地上に転落して死亡した。
あっけない死であり、かけがえのない命が、かけがえのない調教法と共に完全に消滅した。(P-9~P-28)