民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「中高年のための文章読本」その5 梅田 卓夫

2014年10月30日 00時33分24秒 | 文章読本(作法)
 「中高年のための文章読本」その5 梅田 卓夫 著  ちくま学芸文庫 書き下ろし 2003年

 「<五感>から出発する」 P-31

 私たちが偏見や先入観を捨てて、対象と真向きになってとらえたことをことばにしようともがくときには、以前から持っていた知識や感性も新たな生命を帯びて参加してくるものです。
だからこそ「自分にしか書けないこと」が書けるのです。

 対象と真向きになるためのもっとも原始的で本質的な方法が<五感>です。
この作品は視覚をはじめ、その他の感覚を駆使しています。
いわゆる知識で書こうとしなければ、中高年の人でもみずみずしい感覚の位置に自分を置くことは比較的容易です。

 視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚―――それに”身体感覚”や”第六感”などを加えてもいい―――を十分にはたらかせて文章を書くことが、「自分にしか書けないこと」を実現し、生き生きとした描写をするための手始めといってもよいでしょう。

「中高年のための文章読本」その4 梅田 卓夫

2014年10月28日 00時40分10秒 | 文章読本(作法)
 「中高年のための文章読本」その4 梅田 卓夫 著  ちくま学芸文庫 書き下ろし 2003年

 「<他人のことば>による汚染」 P-30

 さて、読者のみなさんが受けた作文教育はどんなものだったのでしょう。
この二つの条件は、一見、あたりまえのことのように思われますが、自分の文章において実現しようとするとなかなかむずかしいものです。

 ① 自分にしか書けないことを
 ② だれにもわかるように書く

 私の経験からいうと、中高年の人々は②の「だれにもわかるように書く」ことは、比較的容易にできる。
長年の人生経験によって、いわゆる常識や、ことば(日本語)の体系を身につけているし、語彙もそれなりに貯えているからです。

 問題は①の「自分にしか書けないこと」をどのようにして文章のなかに実現するか、です。
これは、ことさらに奇を衒うことではありません。
あなたがほんとうに書きたいことを深く追求することのなかにこそ、こたえはあるのです。

 私たちのこころ(思考や認識)は他人のことばによって汚染されています。
ものを見たり、考えたりするとき、知らず知らずのうちに、かつてどこかで聞いたことば、なにかで呼んだことばが「あなたの考え」になりすましてあらわれてきます。
それをかいくぐり、選り分けて、自分のことばをたぐり寄せることが、文章の創造です。

 「自分にしか書けないこと」とは、実は、自分が「ほんとうに書きたいこと」でもあるのですが、それははじめから明瞭に自覚されているとはかぎりません。

 むしろ、文章を書くという行為は、その全過程を通じて、自分が「ほんとうに書きたい(書きたかった)こと」を見つける作業だといてもよいでしょう。
(その実践的な方法については、のちほど詳しくとり上げることにします)

 <よい文章>が書かれたときには、書き手にとっても<発見>のよろこびがあるものでう。
<よい文章>を書いたときには、書き手自身も、自分が生まれ変わったような経験をします。
驚きと達成感があるものです。
それがあってこそ、はじめてあなたの文章なのです。

「中高年のための文章読本」その3 梅田 卓夫

2014年10月26日 01時30分20秒 | 文章読本(作法)
 「中高年のための文章読本」その3 梅田 卓夫 著  ちくま学芸文庫 書き下ろし 2003年

 「<よい文章>とは?」 P-26

 本書では、文章表現の目標とすべき<よい文章>をつぎのように定義して出発します。
 <よい文章>とは?

 ① 自分にしか書けないことを
 ② だれにもわかるように書く (注)岸本葉子→「他者が読みたくなるように」

 という条件を満たしている文章。

 これをまず頭にインプットしてください。
これからあなたが書く文章もこの二つの条件を満たすように考えていけば、おのずから努力の方向も見えてくるし、書き終えたときの達成感も味わうことができるはずです。
他人の文章もこれで評価できるようになります。

「中高年のための文章読本」その2 梅田 卓夫

2014年10月24日 00時08分18秒 | 文章読本(作法)
 「中高年のための文章読本」その2 梅田 卓夫 著  ちくま学芸文庫 書き下ろし 2003年

 「中高年は問題点が多い」 P-14

 中高年の人は、すでにある種の人生観のようなものを持っています。
あるとき、ある場所での、特定の対象から受けた印象(感動)を書こうとする文章においても、以前から持っていた人生観のようなものを導入して、それによって文章をまとめてしまう。
これでは読者は押しつけがましさを感じることになります。
なんだかお説教を聞かされているようで、読む楽しみとは程遠いものを受け取ってしまいます。

 文章教室や講座へ参加してくる人々は、ときに高校生や大学生以上の集中力と意欲を見せて感動させてくれるのですが、作品の上ではそれが空回りに終わることが多い。できあがった(あるいは制作中の)文章を一読者として読ませてもらうとき、「退屈」を感じる、「おもしろい」と思えるものが少ない、のです。
文章のかたちはそれなりに整っているのですが、すでにどこかで読んだことがあるような内容、だれかから聞いたことがあるような話、それがながながと(ときには得意げに)綴られている。
熱心さはわかるけれども、読者としては退屈な文章を読まされることになるのです。

「中高年のための文章読本」その1 梅田 卓夫

2014年10月22日 01時17分51秒 | 文章読本(作法)
 「中高年のための文章読本」その1 梅田 卓夫 著  ちくま学芸文庫 書き下ろし 2003年

 エッセイを書くようになって、いろんなエッセイに関する本を読んでみたけど、
なかなかこれといった本がなくて、やっと出会ったのがこの本。
エッセイを書いている人、これから書いてみようとしている人のために抜粋して紹介します。

 「<私>を表現する」 P-12

 人は自分のこころを書きとめてみたいと思うものです。
 子育てや会社の仕事に追われている人間は抑えていても、それらに一段落がつき、ゆとりが生じたときに、多くの人が自分のこころを書きとめたいと思うものです。
これはある意味で青年期の再来といってもよいでしょう。
人生の新しい1ページが開かれようとしているのです。

 日々、私たちはさまざまなことを考えます。
それらは一瞬の後には消えていってしまう。
少なくとも自分にとっては、かけがえのないものが、そこに含まれていたのではないか―――あれを書きとめることができたらいいな、考えることがあります。

 これまでにいろいろなことを経験してきた。
仕事でも、子育てでも、それらを文章にすることができたら、貴重な記録になるのではないか。
他人に読んでもらえるものになるのではないか―――とも。

 詩や小説を読む。
人間の感性や想像力が鮮やかに作品化されているのを楽しみながら、ときには、読むだけでなく自分にも、こういう作品が書けたらいいな、勉強して書けるものなら書いてみたい―――と考えることもあります。

 これはきわめて自然なことです。
私たちはことばによってはじめて自分を再認識することができるからです。
日々、漠然と生きているうちに見失ったり、とらえ損ねている自分を、ことば(文章)という、他人にも自分にもとらえることのできる体系のなかに置いて客観的に眺めてみたいと願うことは、人間として自然な願望です。