民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「山が教えてくれた事」 堀 文子

2017年01月29日 00時02分52秒 | エッセイ(模範)
 命といふもの 「サライ」 2012年5月号 第148回 画と文 堀 文子 大正7年、東京麹町生まれ 93歳

 「山が教えてくれた事」 

 山を見ずに育った東京の街育ちの私が、誰に教えられた訳でもないのに、気が付くと山を崇めていた。東北や信州の山々を怖れも知らず、一人で歩く山好きの若者になっていた。高山に隠れ棲み、山気を吸って思索する仙人んも思想に憧れ、栄達の道を捨て、出家遁世を志し脱俗の生涯を生きた西行、芭蕉、良寛を師と仰いだ。

 そうした山中独居の生き方を志しながら、一切のしがらみを断ち切り、東京脱出を実現し、大磯の山裾に棲家を構えたのは50歳に近い春の事。古代日本を覆っていた照葉樹林の原生林の残る山裾に建つこの庵で、私は初めて本物の自然の中での驚きの日々を過ごす事になる。

 山の草木、季節毎に訪れる鳥や虫達の暮らし。遥かに広がる相模の海、東に房総半島、西に伊豆半島。晴れた日には南に伊豆の大島が姿を見せる。街育ちの私には想像も出来ぬ風景と向き合う毎日。物質まみれの都市生活で作られた私の細胞は、大磯の自然の中で力を失ったが、生物としての細胞が蘇った。50を過ぎて、やっと私の望む脱俗への旅の出発点に辿りついたのだ。

 それから10年後、60歳の時に本格的な自然を求めて軽井沢に仕事場を作り、以後30年、私は浅間山麓の広大な自然の中で、山の草木や鳥獣と呼吸を共にした。植物の芽吹き、花を咲かせ、実を結び、居座りもせず、次の命に席を譲る潔さ。自力で巣作りし、雛を育て、吾が子の巣立ちを見届けたあと、何千キロも離れた故郷に立ち去っていく鳥達。

 零下15度にもなる極寒の冬も過ごした軽井沢の山中独居は、私に生きものの掟を教え命の輪廻を見つめさせた修行の道場だった。

 全山の森が紅葉に燃える晩秋、一日の旅を終えた太陽が浅間山の裾に沈む時、浅間高原の大風景が茜に燃えさかる夕映えの、息を飲むあの一瞬を忘れる事は出来ない。夜の闇の中に姿を消して行く浅間の夕映えを描いた此の絵の高灯台草、芒、さらしなしょうま、浅間ふうろ、おみなえし。

 どれも私の好きな花達で、荘厳な落日の儀式に参加した、私の分身のように思えてきた。
 

「水っぽい」 池部 良

2016年09月07日 00時02分13秒 | エッセイ(模範)
 「水っぽい」 エッセイ集「そよ風ときにはつむじ風」より 池部 良 新潮文庫 1995年

 口にうるさいおやじだったが「食道楽」ではなかった。新鮮で旬のものなら何でもよく、それなりにご機嫌よく食べた。ただおふくろを不幸な女にさせたのは、揚げものなら油の温度、煮ものなら塩を先に入れるか、砂糖を先に入れるか、焼き魚なら魚と炭火の距離、皮の焦げ方にひどくうるさいことだった。
 尾篭な話で恐縮だが、昭和元年辺り、水洗便所なんて洒落た便所はなかった。陶器の「キンカクシ」付きの便器を跨(また)いで、土に埋められた益子焼の大きな瓶(かめ)にどぼんと落とした。
 瓶の中の水分が余分だと落としたものが水しぶきを上げ、お釣りが跳ねてくる。そいつがお尻にくっつかれては耐(た)まらないから、落としものが水面に落ちたとおぼしき頃、膝のバネを利かせて腰を浮かす。この技術は難しかったから女と年寄りは間が合わず用便紙を何十枚も使ったようだ。この瓶に貯まったものを近所の農家が汲み取り、つまり買いに来る。汲み取りは「汲み取らせて頂く」売り手市場だったから後にはお金になり、汲み取り券になったが、まだ東京市だったその頃は「汲み取って肥料にさせて頂く」御礼には農家が自分の畑で作った野菜を一桶に就いて幾らと換算して持って来た。持って来る野菜は、小松菜、大根、葱、胡瓜、かぼちゃの程度だったが、おやじはこの御礼の野菜が大好きで八百屋からは絶対に買わせなかった。「有り難うございます。二桶汲み取らせてもらいましたから」と大根五本、葱三束ぐらいは持って来た。何しろ、今、畑から引っこ抜いて来たという泥つきの新鮮さがおやじにはこたえられないほど嬉しかった。
 小学校に入る前の年の春、おやじと農家のおじさんが便所の汲み取り口の前で言い争っている。
「何が相場だ。お前さん、五桶も汲み取ったんだろ。大根二本と小松菜一束じゃ少なすぎやしないかね」
「そらあ、たしかに五桶、頂きました。だけどよ、何んたって水っぽくて塊が少ねえもんね。これじゃ、水撒いてるみてえで、肥やしになんねえですよ、だから」
「だから、たった大根二本と小松菜一束か」とおやじは腕を組み天を仰いだ。
「そんなに水っぽいのか」とおやじが言ったら、
「お宅じゃ、みなさん、しょんべんの出しすぎか、お腹でもこわしてんじゃねえかね」と農家のおじさんが言った。
 夕食になり、おやじは給仕をしている手伝いの女の子を、まず睨みつけ、倅達、おふくろへと目を移した。
「今日から、めし二杯しか食わない奴は四杯でも五杯でも食え。それから小便は便所でするな。お前達は」と僕と弟に目を遣り「俺もそうするが、小便は庭でやれ、女達は」とおふくろと手伝いの女の子に目玉を送ってから「小便も三度したいと思ったら一度で我慢しろ。何しろ、水っぽくて塊が少ないから、野菜の持って来ようがひどく悪い」と言った。
 おやじの厳命を倅達は守ったが、おふくろと手伝いの女の子はどうしたのか知らない。

「秋刀魚の骨」 池部 良

2016年09月05日 00時16分50秒 | エッセイ(模範)
 「秋刀魚の骨」 エッセイ集「そよ風ときにはつむじ風」より 池部 良 新潮文庫 1995年

 「あなた、いやよ」とおふくろが金切り声を張り上げた。おふくろがおいしい処は後で、と大事に残しておいた秋刀魚のお腹(なか)をおやじに横取りされたのだ。
 秋もようやくの日、柱時計が夜の七時を鳴らす。一家四人食卓を囲んだ。おかずはおやじの大好物、秋刀魚の塩焼き。如何に大好物だからと言っておやじには三匹、おふくろと僕達子供には一匹というのは解せない。文句を言えば殴られるから文句は言わないことにしたが、早くも三匹は食べつくしおふくろの分に手を出すってひどいじゃないかと思ったが此れも抗議はしないことにした。
 おやじはおふくろから横取りした脂(あぶら)のごっとり乗っているお腹の身を大きな口を開けて投げこんだ。おふくろも一言言えば百言は返って来るのをよくよく承知している。黙って顔を伏せ自分の皿の僅かにこぼれている身を拾って食べた。
 うまそうに顔の皮を弛ませていたおやじがぱっと立ち上がり頬ばった口を押さえて縁側に飛び出し庭に向かってぶあっと吐いた。吐き終わり荒い呼吸をしながら浴衣の袖で口を拭いた。
「血だ。しまった。お篁(こう)(おふくろの名)、布団、敷いてくれ胃潰瘍だあ。もうすぐ死ぬぞ」とどなって寝室に駆けこんだ。
 毛布を顎まで掛け目を閉じたおやじは咽喉(のど)をそっと撫で、「あれだけの血が出たから重症に違いない。俺は死ぬと思う。遺書を書いておいてやる。紙と筆を持って、イテテ、来い」。
 おふくろは死ぬ、死ぬと言われ狼狽(あわて)て巻き紙と硯箱を持って来た。僕と弟も枕元に正座させられたからおやじはほんとに死んじまうのかと思った。
「お篁、俺は死ぬ間際だ。動けねえ。代わりに書いてくれ。イテテテ」と言う。
「一つ、お篁、永い間世話になりました。心の底から感謝します。愛していました。二つ、うん、そうだ。良、お前杉田先生を呼んで来い。お前達のために助けて貰えるかも知れねえからな」と僕を追い払うような手つきをした。
 杉田医師の家まで子供の駆け足で二十分はかかる。木立が覆う暗い露路を抜け僕はひたすら走った。杉田先生は長身、長い顔、見事に禿げている六十歳に近いお方だった。
 先生は唇をへの字に結びおやじの腹を入念に触って診察してから「口を開けて」とおやじに言い診察鏡を禿げ上がった額に掛けおやじの口の中を永い時間をかけて覗いた。おふくろは「御臨終です」という言葉を浮かべ、僕は「死んじまったら何も買って貰えないな」と思った。
「骨が刺さっとる」と杉田先生が言った。
「ホネ?」とおふくろ。
「咽喉の奥に魚の小骨が刺さっとる。血は吐き出すとき刺さった処から出た血だな。胃潰瘍なんぞ、何もありはせん」
 おやじの右腕が毛布の中から伸びて、書きかけの遺書を掴み布団の下に挟んだ。

「深夜の散歩」 塩谷靖子

2016年06月06日 00時11分03秒 | エッセイ(模範)
 「散歩とカツ丼」 2010年版ベスト・エッセイ集 日本エッセイスト・クラブ編 文藝春秋

 「深夜の散歩」 P-216 塩谷(しおのや)靖子(のぶこ) 声楽家

 あれは、遥か昔のある晩のことだった。
「お客さん、着きましたよ」。「え、ここはどこ」。熟睡から覚めた私は、慌てて記憶の糸をたどった。
 そうだ、今夜は池袋で盲学校の同窓会の新年会があり、かなり酔いのまわっていた私をみんなが無理やりタクシーに押し込んだのだった。
「大丈夫、電車で帰れるから」と言い張る私に、「無茶を言うもんじゃない。ホームから落ちても知らないからね。だいいち、もうとっくに電車なんか終わってるよ」などと言いつつ、ドアを閉めたのだった。
 タクシーに乗り込むと、私は我が家への地図をバッグから取り出して運転手さんに渡した。
「停車位置の印が書いてある所で降ろしてください」と言ったところまでは覚えている。その直後に、私は暖房の効いた車内で眠りに落ちたのだろう。
「ここは、停車位置の印が書いてある所ですよね。山口運送の前で間違いないでしょうね」と念を押してから、料金を払うと、「暗いから気をつけて」と運転手さんが言った。「目の見えない私には暗くても関係ないんだけど」と心の中で笑いながらタクシーを降りた。
 その瞬間、息も止まりそうな寒さに襲われた。山口運送から我が家までは20メートルほどだ。私は、凍えそうになりながら急いで歩き始めた。だが・・・、どうも様子がおかしい。いつもの道とは違う。わずかに傾斜しているはずなのに、どこまで行っても平坦なのだ。いったい、どこで降ろされたのだろう。もしかしたら、ちゃんと停車位置で下ろしてもらったのに、酔いのせいで歩き出す方向を間違えたのかもしれない。道の両脇には、冷たくて背の高いコンクリートが続いている。
 手が凍えて、何度も白杖が地面に転がった。だんだん不安になってきた。携帯電話などなかった頃だから、もうとっくに寝ているであろう夫や子供に連絡もできない。このまま凍え死ぬのだろうか。
 耳を澄ましてみたが、手掛かりになるような物音もしない。それもそのはず、真冬の深夜、しかもお正月ときているから、葉を落とした木は葉ずれの音も立てず、人々は暮から田舎にでも帰っているらしく、生活音も漏れてこず、車の音もしない。

 それまでにも、終電車を降りてから家にたどり着くまでの道で、深夜に迷ったことは何度かあるが、あまり不安を感じたことはなかった。どうせ、すぐに帰れるという確信があったからだ。手掛かりになる音もたくさんあったし、遠くに聞こえる車の音を頼りに通りに出れば、例え深夜でも、誰かしら歩いていて、道を聞くこともできる。ときには、非日常的な「深夜の独り散歩」を楽しみながらさまようことさえあった。
 ジンチョウゲの咲く頃には、どの道を行っても、その香りに誘惑され、もう少しさまよっていたいと思ったりする。
 虫しぐれの季節には、虫たちが、草むらのある場所や、その広さや形、そして道との境目を、まるで音の地図でも描くように教えてくれる。ちょっと風でも吹けば、葉っぱが揺れる音で、木や草が立体地図を描く。
 もちろん、昼間のほうが、はるかに様々な音に満ち、しかもその音は活発に動いている。それに比べ、深夜の音は密(ひそ)やかで、種類も動きも少ない。だからこそ、かえってそれらの音風景は、昼間よりくっきりしたシルエットを描くのだ。そして、今この風景を味わっているのが私一人だと思うと、益々その風景は魅力的なものに感じられてくる。深夜に道に迷えば、確かに一抹の不安は覚えるが、その不安が加わることで深夜の独り散歩に、かえってワクワク感が加わるのかもしれない。

 だが、今は真冬の深夜、風ひとつなく、凍りついた大気は何の音も何の匂いも運んではこない。「暗いから気をつけて」と運転手さんが言ったのは本当だった。音も匂いも、全て闇に飲み込まれてしまったようで、生活の多くを音や匂いに頼っている私にとっては真っ暗闇になってしまった。
 道は何度も曲がり、迷路に入ったようだった。このまま朝までさまよっていたら、本当に凍え死ぬかもしれない。
 ふと、こんな話を思い出した。雨水の溜まった桶の縁を、一匹の毛虫が這っていた。昼間も夕方も、夜になっても、ぐるぐると這い続けていた。そして、朝になると、毛虫は水に落ちて死んでいたというのだ。いったい毛虫はどこへ行こうとしていたのだろう。永久に終わらない道であることなど知る由もなく、目的の場所に向かって一途に這い続けていたのかもしれない。この話は、気色悪い毛虫のイメージと、メビウスの輪に迷い込むような不快な連想とで、私の記憶の底に染みのように残り、何かの折に時々表面に現れてくることがある。
 こんなときに、なにもこんな嫌な話を思い出さなくたっていいのに、まだ酔いが残っているせいなのだろうか。
 ここは東京23区、山奥の樹海などではない。こんな所で死んで、明日の新聞にでも載ったら、「笑うに笑えぬ前代未聞の話」として語り継がれることになるかもしれない。
 そう、大きな声で助けを呼べば済むことなのだ。誰か一人くらいは聞きつけてくれるだろう。まさか「私の家はどこでしょうか」なんて叫ぶわけにもいかない。でも死ぬくらいだったら、恥ずかしいなんて言っている場合ではない。「助けてえ」、「泥棒」、「火事です」・・・と何でもいい。でも、やっぱり声を出す勇気はない。
 叫ぶのが嫌なら、ローレライ気取りで歌でも歌おうか。だが、ライン川のほとりならともかく、こんな所で歌なんか歌ったら、人を引き付けるどころか、酔っ払いと間違えられるだけだ。いや、かなり覚めているとはいえ、酔っ払いには違いないのだが。それに、全身が震えて、息をするのもやっとの寒さの中では、歌なんか歌えるはずもない。
 結局のところ、こんなことで死ぬわけがないという確信のようなものがあったからこそ、声を出すのを躊躇したのだ。

 どのくらいさまよっただろうか。どこか遠くのほうで、かすかな音がしているのに気づいた。無音の中のかすかな音。それは、まさに闇の中の光明だった。連続した低音は、駐車中の車のエンジンに違いなかった。
「すみません」と言いながら、私は車の窓をノックした。何度も試みたが反応がない。無人の車なのだろうか。それなら持ち主が戻ってくるまで待つことにしよう。
 突然ドアが開いた。よほど驚いたのか、相手は無言のままだ。私は、手短に事情を告げ、私の家を捜してもらえないだろうかと頼んだ。車の中からは、若い男性と若い女性がヒソヒソと相談する声が聞こえる。やがて男性が出てきてくれた。
「この辺に山口運送というのはないでしょうか」。女性も出てきて、二人で手分けして捜し始めた。間もなく「ありました」と言って、二人は戻ってきた。なんと、それは車から数メートルと離れていない所にあった。
 とんだ邪魔者が現れたうえに、いきなり寒さの中に引っ張り出された彼らには、気の毒なことをしてしまったものだ。私は、遠ざかっていく車に頭を下げた。
 忍び足で家に入ると、私の遅い帰宅に慣れっこになっている家族が平和な寝息を立てていた。
 いったい私は、あの毛虫さながら、我が家の周りを何周したのだろう。あの夜の樹海は、都会の一角に現れた蜃気楼だったのかもしれない。
 (点字あゆみの会『撓(たわわ)』 第185号)

「一葉賛・質屋の話」 青山 光二

2016年06月04日 01時46分52秒 | エッセイ(模範)
 「カマキリの雪予想」 2006年ベスト・エッセイ集 日本エッセイスト・クラブ編 文春文庫

 「一葉賛・質屋の話」 P-274 青山 光二(作家)

 樋口一葉の写真入り新五千円札を早く手に取って見たいと思っているのに、なかなか手に入らない。説をなす者あって、恐らく入手した人が手離さないので、他の二種類の新札のようには流通しないのだろうというのだが、おそらく一葉贔屓の同業者の贔屓の引き倒し式偏見に過ぎないだろう。
 新紙幣が発行された11月1日、NHKテレビが、一葉ゆかりの質屋が現存しているというので、その外見を紹介していたが、金の苦労をぞんぶんに味わった一葉は、質屋通いの常連・達人だったのではないか。
 彼女の時代、小説家が貧乏だったのは当たり前だが、爾後半世紀あまり、私が駆け出しの作家だった頃、御三家と名指されていた中間小説雑誌三誌にも年に何回かは作品を発表していた頃だって、女房が質屋通いを事とするのは珍らしいことではなかった。
 (中略)
 樋口一葉も貧乏だったからこそ「にごりえ」や「大つごもり」が書けた」いや、「にごりえ」や「大つごもり」のような入魂の作を、手間も時間もかけて書いていたのでは質屋の暖簾と縁は切れない。
 一万円や千円のシンボル写真ではなくて、五千円札にぴったりなのである。一万円札では噴飯ものだし、千円札では、だいいち小説家という職業人に似合わない。
 私自身、若い頃(学生時代を含む)から質屋の暖簾を煩雑にくぐった。二重回し(インバネス)俗にトンビというのがある。父が以前に着用したらしいのを引っ張り出して着たら、実に便利で着心地がいい。織田作之助がすぐ真似した。
 (中略)
 二重回し(通称トンビ)を質屋に持って行くと五円貸してくれた。妥当な値段である。東京、大阪間の国鉄運賃は、当時たしか五円の枠内だった。
 織田(作之助)大阪に、私は東京に常住していた時期、どちらかに急な用件が生じるとトンビを質屋にあずけて汽車にとび乗るということがよくあった。今なら電話で話がすむような内容の用件のために、織田は汽車に乗って東京の私のアパートへ乗りこんでくるのだ。そんな場合、特に織田は身の軽い男だったが、私のアパートに泊まっては喀血を繰りかえした。
 (中略)
 質草としてトンビも嵩張る方だったが、もっとひどく嵩張る質草を抱えて私たちの前へ現れた男の姿を忘れられない。檀一雄である。質草になりそうな物を一切がっさい抱えてきたというのだが、巨大な風呂敷包みを抱えてタクシーから降り立つと、私たちの溜まりの酒場へ乗りこんできた。満州へ行くと云う。その旅費をつくるための質草だった。満州が、旅券なしで行けるいちばん遠い所だったのだと記憶している。昭和11年頃の話だ。
 本郷の東大農学部前の裏通りにあった『紫苑』というボロ酒場が、太宰治や檀一雄の《日本浪漫派》と、私や織田作之助の《海風》同人の溜まり場になっていた。太宰さんはトンビを着て中央線の奥からよく通ってきていたが、どういうわけか私は太宰さんより前から、ろくに酒も呑まないのにこの店のヌシみたいな客だった。
 檀一雄は実際に満州へ行って、恋までして、お姫さまのような女性と結婚しそうになった。大風呂敷のなかみは檀の全財産だったと思われるが、はるばる満州までの旅費に変わる財産とはいったい何だったのだろう。
 貧乏で苦労した大先輩樋口一葉のことから、つい質草の話に流れてしまった。

 発行後一ヶ月に当たる頃、新五千円札を私も入手した。一葉姐さんコンニチワという感じだった。
 (「小説新潮」一月号)