民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「大放言」 その11 百田尚樹

2017年06月30日 00時01分57秒 | 本の紹介(こんな本がある)
 「大放言」 その11 百田尚樹  新潮新書 2015年

 やればできると思っているバカ その2

 夢はイチロー その2 P-23

 彼は続けた。
「そういう子たちの親もやっぱり同じことを思っていて、保護者面談なんかで話していると、全然勉強ができないのに、『せんせい、この子はね、やればできるんですの』と言う」

「めちゃくちゃ都合のええ言葉やな」

「そう。しかしこの言葉は、ぼくら教師自身もよく言うセリフなんや。ぼくらは勉強ができない子に対しては、何とか自信を持ってもらおうと『君はできない子やない。やればできる子なんだから』と言い続ける。ところが、そういう言葉を耳にし続けた子の中に、『よし、それじゃあ頑張ってみるか』と発奮する子はほとんどいなくて、逆に多くの子が『俺は今はできないけど、やればできるんだ』と思い込む」

「根拠のない自信だけを身に付けるわけやな」

「そうなんや。昔は小学校の成績表というのは相対評価やったから、できない子は自分がクラスのどの位置にいるのか嫌でも知らされた。その分、劣等感も大きかったと思うが。だけど今の小学校は絶対評価だし、その上、通知表に『できない』という評価はよほどの場合じゃないとつけない。だからできない子も自分がどれだけできないのか自覚のないまま大きくなっていく。で、周囲の人からは『君はやればできる子だから』と言われ続けて、自信だけは優等生なみに持っている。始末に負えんよ」

 彼の話を聞いていて、そう言えば私の周りにもそういう若者が増えているのに気付いた。何の実績もキャリアもないのに、妙な自信だけはある若者たちだ。そのくせ、何にも本気で取り組まないし、がむしゃらにもならない。恥ずかしながら、実はかつての私もそうだった。

「大放言」 その10 百田尚樹

2017年06月28日 00時11分22秒 | 本の紹介(こんな本がある)
 「大放言」 その10 百田尚樹  新潮新書 2015年

 やればできると思っているバカ その1

 夢はイチロー P-22

 私の友人に小学校の教師がいる。先日、彼からの興味深い話を聞いた。その時、彼から教えてもらった会話を紹介しよう。彼と彼が担任する小学校6年生の男の子の会話だ。

「◯◯君は、将来、何になりたいんや?」

「俺? MLBに行ってイチローみたいなプレーヤーになることかな」
(今どきの子は教師相手にも「俺」と言うのを知って驚いた)

「大きな夢を持ってるな。そやけど、◯◯君は野球クラブに入ってないやないか」

「それがどうした」

「イチローになりたいんやったら、野球をやらなあかんのと違うか?」

「それはそうや。そのうちにやろうと思ってる」

「イチローになりたいんやったら、今、やらなあかんのと違うか」

「俺、多分、やればできるような気がするんや」

 私はその話を聞いて思わず吹き出してしまった。あんまり面白いので、コントの台本に使わせてもらおうと思ったほどだ。しかし友人の教師は笑わなかった。

「最近こういう子が増えているんや。低学年ならおかしくもない。でも6年生にもなって本気でこんなことを考えてる子がどんどん増えている。何もできないのに夢だけは大きな子。そういう子たちに共通するのは『自分はやればできる子』と思ってることや」

「大放言」 その9 百田尚樹

2017年06月26日 00時06分04秒 | 本の紹介(こんな本がある)
 「大放言」 その9 百田尚樹  新潮新書 2015年

 第一章 現代の若きバカものたちへ P-20

 前略

 いつの時代にもバカはいる。そこには実は年齢の差はない。バカな若者はたいていバカな大人になり、バカな大人はたいていバカな老人になる。かくいう私も若い時は凄まじいほどのバカだった。まもなく還暦を迎える年になっても、情けないことにバカの度合いはあまり減っていない。

 しかし60年近く生きてきて、気づいたことが一つある。それは21世紀に入ってから、私が若かった時代にはあまりいなかった新しいタイプのバカが増えてきていることだ。私は彼らを「新種のバカ」と名付けている。

 彼らを見ていると、なんとも心配になってくる。というのは、この社会にはおいしい言葉やうっとりする言葉で若者をたぶらかす奴らがごろごろいて、彼らはいたるところに落とし穴を仕掛けて、「バカ」が落ちるのを待っているからだ。だから、若者たちを見ていると、「しっかりしろ」「気をつけろ」と思わず言いたくなってしまう。

 偉そうに言っているが、もしも私が平成に生まれていたなら、きっとこの「新種のバカ」の一人になっていたのは間違いない。つまり、ここに出てくる「新種のバカ」は、もう一人の私自身でもある。


「大放言」 その8 百田尚樹

2017年06月24日 00時15分22秒 | 本の紹介(こんな本がある)
 「大放言」 その8 百田尚樹  新潮新書 2015年

 「曽野綾子氏の発言は暴言か」  P-18

 前略

 我々は成熟した自由な社会に生きている。言論の自由のない共産国家でせいかつしているのではない。誰もが自由に発言できる社会のはずだ。「問答無用」で発言を封じるのはやめにしようではないか。

 かつて「五・十五事件」で、血気にはやる海軍の青年将校たいてゃ、軍縮を進める犬養毅首相を射殺したが、「話せばわかる」と言った首相に対して、「問答無用!」と叫んで彼を射殺した。この事件の後、政府は軍部の暴走を抑えることができなくなり、やがて大東亜戦争に突入した。

 言葉の自由を失った国は滅びる。皆が一斉に同じことを言い、一斉に誰かを攻撃する時代も同様だ。
 それにどこからも突っ込まれない意見や、誰からも文句の出ない考えというものは、実は何も言っていないのと同じだ。鋭い意見と暴論は実は紙一重なのである。

 だから、皆さん、もう少し心を大きく持とうではないか。
 放言を笑って聞くだけの度量のある社会にしようではないか。一見、無茶苦茶な意見に聞こえる「放言」であっても、そこには一分の真実と魂があるはずだ。




「大放言」 その7 百田尚樹

2017年06月22日 00時23分34秒 | 本の紹介(こんな本がある)
 「大放言」 その7 百田尚樹  新潮新書 2015年

 「私は寝てないんだよ」 その3 P-15

 原野商法や先物取引の詐欺事件が起こると、コメンテーターは一斉に詐欺集団を非難するが、「被害者も欲に目がくらむから騙されるんだ」と言う人はいない。朝鮮高校の授業料無償化に対して、「反日教育を行っている学校に日本の税金を使えるわけがない」と言う人もいない。大人顔負けの残虐な殺人事件を起こした少年に対して、「こいつらはケダモノと同じだから死刑にして当然」と言う人もいない。

 すべてのコメントが当たり障りのないもので、事件の被害者も加害者も傷つけないような美しい言葉で飾られる。それはなぜか。言葉尻を捉えられて、攻撃されるのが怖いからだ。もっともテレビ局が視聴者からの批判を恐れて、コメンテーターに自由に語らせないという面もある。番組が問題になればスポンサーから苦情がくるからだ。

 そうした事情は理解しても、私がぞっとするのは、相手が反論できない立場であるとわかると、あるいは(そういう人物を攻撃しても)人権派弁護士や利権集団などからの反撃がないとわかると、テレビ局もコメンテーターたちも一転して言いたい放題になることだ。まさに声をからして非難の言葉を投げつける。それはもうおぞましいばかりである。