「還暦後」 高田 宏(1932年生まれ) 清流出版 2000年
「自分のからだ」 P-23
会社勤めをしていたときには、年に一回、指定の病院で「人間ドック」の検診を受けていた。勤めを辞めてからしばらくは検診をサボっていたのだが、この十年間ばかり、ふたたび受診してきた。年中行事のようなものになっていた。
だが、今年でやめようと考えていた。友達がここ数年つぎつぎと他界して、ぼくの死生観がしだいに変わってきたことが、その背景にある。簡単には言えないのだが、死がやってくるなら、そのときはじたばたせずに受け容れよう、といった気持ちが、ゆっくりと水位を上げてきている。自分の死に結びつく病気が出現したら、というより、いずれそうなるだるが、無理矢理その病気と戦いたくないな、と思うようになった。
人間ドックへ行けば、例年のように肝機能とかなんとかの数値に赤信号がつくことは分かっている。しかし、それを知ったからといって、生活を大きく変える気はない。重大な病気が見つかる可能性はあるけれども、見つけてもらうほうがいいとも思えない。
からだという自然に任せておきたい。ぼくはもう「高齢者」に属している。からだの内部にガタがきても当たり前の年齢だ。その故障をいちいち知って、どうするのか。知らぬが仏、でいいじゃないか。という気分である。
後略
1999年冬(67歳)
「自分のからだ」 P-23
会社勤めをしていたときには、年に一回、指定の病院で「人間ドック」の検診を受けていた。勤めを辞めてからしばらくは検診をサボっていたのだが、この十年間ばかり、ふたたび受診してきた。年中行事のようなものになっていた。
だが、今年でやめようと考えていた。友達がここ数年つぎつぎと他界して、ぼくの死生観がしだいに変わってきたことが、その背景にある。簡単には言えないのだが、死がやってくるなら、そのときはじたばたせずに受け容れよう、といった気持ちが、ゆっくりと水位を上げてきている。自分の死に結びつく病気が出現したら、というより、いずれそうなるだるが、無理矢理その病気と戦いたくないな、と思うようになった。
人間ドックへ行けば、例年のように肝機能とかなんとかの数値に赤信号がつくことは分かっている。しかし、それを知ったからといって、生活を大きく変える気はない。重大な病気が見つかる可能性はあるけれども、見つけてもらうほうがいいとも思えない。
からだという自然に任せておきたい。ぼくはもう「高齢者」に属している。からだの内部にガタがきても当たり前の年齢だ。その故障をいちいち知って、どうするのか。知らぬが仏、でいいじゃないか。という気分である。
後略
1999年冬(67歳)