民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

夏目漱石 作 永日小品より 「柿」

2018年11月13日 23時02分28秒 | 朗読・発声
13日(火)
午前中、朗読教室。
文化祭が終わったので新しい教材に入る。
夏目漱石 作 永日小品より 「柿」
明治の頃を書いた作品だから、今ではお目にかかれない生活の様子が出てくる。
女性の髪は束髪、子供がお琴の稽古に行っていた時代、
下駄の歯入れ、鋳かけ錠前屋、洗い張り。
ぎりぎり、オレの小さい頃、いくらか記憶に残っている生活風物詩だ。

読むと、8分くらいのようだ。
セリフは全部、地の文に混じっている。
文の終わりはほとんど、「~する」とか、「~している」とか、「~である」になっている。
今ではあまり見かけない文体だ。
エッセイではよくないとされている。
今度、使ってみて、よくないと言われたら、夏目漱石を真似したと言ってみようか。


歌舞伎、白波五人男の「口上」

2018年10月18日 21時50分54秒 | 朗読・発声
18日(木)
午後1時から群読の練習、若草アリーナ。
自転車で行きかけたが、戻って車で行く。

幕開けで、白波五人男の「口上」をやる。
後ろにそれぞれのセリフを演じる女性陣35人(7人×5)を従えての第一声である。

以下がその「口上」。

(拍子木)とざい とーざい

 一座高こうはござりまするが 口上なもって 申し上げ奉りまする。
 いずれも様には ご健勝なるお姿を拝し 恐悦至極に存じまする。
 私 ○○(名前)にござりまする。

 これよりお目にかけまする演目は、歌舞伎 青砥稿花紅彩画
 通称 白浪五人男より 稲瀬川 勢揃いの場にてござりまする。
 ご来場たまわりました皆々様に、最後まで楽しんでいただけまするよう、
 心をこめて 演じさせていただく所存でござりまする。

 本日 おいでのいずれも様におかれましては 
 今後とも、ご贔屓 お引き立て、また ご指導 ご鞭撻のほど 
 隅から隅まで ずず ずいーっと、
 乞い願い上げ (拍子木) 奉りまする。

以上を暗記して披露する。
 

「ういろう売りのせりふ」 その6 鈴木 棠三

2017年09月13日 00時05分49秒 | 朗読・発声
 「ことば遊び」 鈴木 棠三(とうぞう)1911年生まれ 講談社学術文庫 2009年

 「ういろう売りのせりふ」 その6

 舌もじり・早口文句の集成 P-71

ういろう売りのせりふの構成は、最初にういろう薬の歴史と本舗を紹介する。次に薬効のいろいろ、特に口がよく廻るという奇効があると述べ、その実演に入る先に、音韻の基礎知識について、ちょっと学のあるところを示して煙にまく。「あわや咽・・・唇の軽重」がそれで、これは音韻上の心得として、音の区別を教える教訓歌であるが、芝居の看客は分からぬ者が大多数だったろう。

 近世の音韻額の基本となるのは『韻鏡(いんきょう)』で、これによれば漢字の36字母を、唇・舌・牙・歯・喉・半舌・半歯の7音に分けてある。これを日本語に適用して、ア・ワ・ヤの3音が喉音、サ・タ・ラ・ナが舌音、カが牙音、サが歯音、ハ・マが唇音であるというのが、右の一首の意味なのである。


「ういろう売りのせりふ」 その5 鈴木 棠三

2017年09月11日 00時10分14秒 | 朗読・発声
 「ことば遊び」 鈴木 棠三(とうぞう)1911年生まれ 講談社学術文庫 2009年

 「ういろう売りのせりふ」 その5

 団十郎の創出 P-67

 感激した団十郎は、報恩のため舞台の上から霊薬の名を広めたいと申し出たが、意仙は同家従来のしきたりを守って固辞した。それでも、人助けのためであるからとの団十郎の強い望みに押し切られて、ついにその申し出を承諾した。これがういろう売りの舞台化するまでの経緯であると、外郎家では伝えている。この辺が、従来、歌舞伎関係の書物に記されているのと相違する点である。たとえば、飯塚友一郎の名著『歌舞伎細見』には、「この薬は今でも小田原の名物で、婦人血の道などに特効があるといふ。この薬売りの身振り口上を二代目団十郎が真似たのが『外郎売』のはじめである」と記されている。つまり、外郎薬のセールスマンの風俗と口上を脚色化し団十郎が舞台上に再現したものとされているのが通説だが、それは書きかえられるべきで、団十郎が無から有を創出したとするのが正しい。ういろう売りのせりふも、あの扮装も、全部が団十郎のアイディアだったというわけである。

 記述が前後したが、団十郎は亨保3年(1718)春、江戸森田屋で上演された『若緑勢曽我』の二番目に、ういろう売りに扮して、ういろう薬の効能を滔々と述べ立てて大当たりを取った。爾来、この演(だ)し物は歌舞伎18番の一つとされ、市川家の家の芸として団十郎を襲名する者は必ず一度は出演する習わしさえ生じた。またその上演に当たっては小田原の外郎家へ市川家から必ず挨拶に来る慣習で、その時はういろう売りのせりふの一枚摺りを届けて来た。同家ではこれを印刷にして希望者にわけているが、『歌舞伎年代記』に載せるものと、大異はない。いま、年代記にこれを照合して、せりふの全文を掲げる。



「ういろう売りのせりふ」 その4 鈴木 棠三

2017年09月09日 00時05分39秒 | 朗読・発声
 「ことば遊び」 鈴木 棠三(とうぞう)1911年生まれ 講談社学術文庫 2009年

 「ういろう売りのせりふ」 その4

 団十郎の創出 P-66

 ういろう薬が天下に名を知られたのは、東海道を上下する旅人によって口コミ的に名が広まり、また土産に買い求めて帰国した者が実物による宣伝に協力したことが第一の理由で、外郎家自身は最後まで武士の商法的なやり方で終始し、希望者には売るといった態度を変えなかったということである。希望する者には、三方にのせて差し出す。代価も定まっておらず、思し召しであった。そんなふうだから、積極的に宣伝することなどは一切しなかったが、ここに二世団十郎(1688~1758)という名優が、すすんで宣伝に一肌ぬぐという事態が起こり、これによってういろう薬の評判は飛躍的に高まった。

 もともと二世団十郎には痰と咳の持病があって苦しんだ時期があり、その際ういろう薬の噂を聞いて服用したところ、痼疾が全治した。非常に喜んで団十郎がわざわざ小田原の外郎家まで礼を述べに赴いたところ、同家では格式を度外視して厚遇したばかりか、隠居の意仙が俳諧を嗜んでおり、はなはだ団十郎と話が合った。この意仙は13代相治の隠居名で、ういろう売りのせりふには「只今は剃髪いたして、円斎と名のりまする」とある人物に当たる。円斎は団十郎が創作した作り名で、外郎家には円斎と号した人物は現在に至るまでないということである。