民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「無名の人生」 その13 渡辺 京二

2018年02月24日 00時03分42秒 | 生活信条
 「無名の人生」 その13 渡辺 京二  文春新書 2014年

 3、生きる喜び

 この世は喜びの宝庫 P-73

 しかし、私たちの日々の生を支えているのは、もっとささやかな、生きていることの実質や実感なのかもしれません。
 本当に何気ないもの。たとえば、四季折々に咲く花を見てほっとするような小さな感情とでもいったらいいのか。あるいは花を咲かせない樹木であっても美しいし、山が好きな人は山登りをすることに生きがいを感じたりもする。あるいは街角に佇んでいて、ふと斜めに日の光が差し込んできたその一瞬、街の表情が変わってしまうようなこと。空を見上げていたら雲のかたちが何かに似ているなと感じること。この自然、この宇宙は、われわれにいろんな喜びを与えてくれるのですが、案外、人間の一生は、そうした思いもかけない、さりげない喜びによって成り立っているのかもしれません。
 一つのカップがあったとして、それを手にしたときの重さが心地いいとか、手触りがいいとかいうことがあるでしょう。じつはこの世というものは、そうしたもののかたち、色、匂い、音、気配としてわれわれと相対していて、もちろん、なかには非常に不快なものもあるけれど、われわれは、そういった自分の感覚を通じて世界と対応しており、それが生きていることの実質なのです。

「無名の人生」 その12 渡辺 京二

2018年02月20日 00時00分52秒 | 生活信条
 「無名の人生」 その12 渡辺 京二  文春新書 2014年

 3、生きる喜び

 身の丈に合った尺度 その2 P-71

 逆にいうなら、幸せなことがまったくない一生もないはずです。一生かかって女一人からも好かれたことがない、そういう男性がおられたら、お目にかかりたいものです。
 人間の一生には幸福も不幸もあるけれど、その評価は、自分で一生を総括してどう考えるかの問題だということになります。他人が判断できることではありません。幸福度を客観的に測る基準などないからです。

 人間の幸福とは、掴みどころのないもの。それでも、ひとつだけ言えることがある。幸不幸の入り混じった人生ではあっても、それを通観してみて、自分なりの尺度でもって判断することはできる。幸も不幸もあったけれど、どちらがより多かったかのか、無駄な一生だったと振り返るのか、それとも実りの多い一生だったと思うのか。

 その際、大切なことは、自分の人生をあるがままに受け取ることでしょう。それは、自分の人生を無理に初めから肯定することではありません。それでは、単なる自己満足、自惚れにしかすぎません。そうではなく、まずはあるがままに受け取れるかどうか。そこにすべてがかかっています。逆にそうできなければ、「自分の人生はこんなはずではなかった」と、恨みや後悔ばかりに苛(さいな)まれることになるでしょう。

 要は、基準となるべき独自の尺度を一生かけてつくりあげられるかどうか。

「無名の人生」 その11 渡辺 京二

2018年02月18日 00時44分13秒 | 生活信条
 「無名の人生」 その11 渡辺 京二  文春新書 2014年

 3、生きる喜び

 身の丈に合った尺度 その1 P-70

 人が幸福だとは、一体どういうことを言うのでしょうか。
 一個の人間が一生を通して幸せに過ごそうなどというのは、欲の皮が突っ張りすぎなのかもしれません。幸福と不幸は糾(あざな)える縄の如しで、こいつは不幸のはじまりかと心配したら、実際は幸せのはじまりだっということもあれば、せっかく幸福をつかんだと思ったのに、とんでもない不幸が待ち受けていたとか、人生いろいろです。

 一生のあいだにはさまざまな出来事があって、愛する人が突然死んでしまうこともあれば、。失恋することもある。しかし、パートナーの死も失恋も、偶然です。相性のいい人を好きになれば失恋することもないはずだけれど、相性のよしあしを最初から見抜くことはなかなかできません。同様に、死んでしまうのも病いにかかるのも、みな偶然です。

 もっとも、不幸を避けようとして避けられることもある。なるべく危なそうな事柄に首を突っ込まないようにするのです。
 しかしそれは、賢く一生を送れるかどうかの細かなテクニック、あるいは注意力の範疇に属することであって、すべての不幸を避けることなど不可能だと言えます。不幸の種はかぎりなくこの世に存在していて、どうあがいても不幸は、人生に起こってくるものだからです。また、注意深く不幸の落とし穴に落ちるのを避ける人は一種の賢人ではありましょうが、何だかみみっちい気もいたします。

「無名の人生」 その10 渡辺 京二

2018年02月16日 00時17分46秒 | 生活信条
 「無名の人生」 その10 渡辺 京二  文春新書 2014年

 2、人生は甘くない 

 男と女はちがう その2 P-63

 ただ、この世の中には料簡の狭い男がいることも間違いのない事実でしょう。
 ある女性医師から聞いたところでは、大学の附属病院の医局で女性がしゃしゃり出ると、それを嫌う男性の医師がけっこういるらしい。そういう男は女を愛していない。愛せないのです。私は女性が大好きだから、優秀な女性が立派な発言をし、大きな活躍をすると、嫌な気がするどころか、大いに嬉しくなるのです。

 女性に対して料簡の狭い男は、じつは同性に対しても料簡が狭い。男だから女だからではなく、そもそも人間に対して料簡が狭いのです。器が小さいのです。だから、これは人間の器量の問題であって、器の大きな男は「女のくせに」などとはけっして言わないでしょう。


「無名の人生」 その9 渡辺 京二

2018年02月14日 00時20分24秒 | 生活信条
 「無名の人生」 その9 渡辺 京二  文春新書 2014年

 2、人生は甘くない 

 男と女はちがう その1 P-62

 現実に、家庭においても社会においても区別がある。人間が集団を形づくり、なんらかの事業を遂行しようとすれば、指揮命令系統が必要となり、なにも軍隊式の強圧的な命令系統でなくとも、その事業を進めていくためには、命令する者と命令される者を明確に区別する必要があります。

 だから差別をなくすなど、できない相談なのです。
 しかし、世の中には「いわれなき差別」というものは存在します。今いったような組織として必要な差別でなく、人間本来のあり方を否定するような差別――未解放への差別とか、男女差別のある部分とか、これらは正していかなくてはなりません。
 
 いま、男女差別の「ある部分」と言いました。男女差別は人間本来のあり方としてはなくすべきですが、男女の別は完全になくせるものではありません。なくすべきでもありません。男には出産などできないからです。