民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

森繁久彌「向田邦子」を語る その1

2017年03月31日 00時11分42秒 | 人の紹介(こんな人がいる)
 「森繁の重役読本」 向田 邦子 文春文庫 2012年

 森繁久彌「向田邦子」を語る その1

 花こぼれ なお薫る ――彼女は人の優しさ弱さを彫琢する手品師だった――

 去る者、日々に疎し――。
 この古人の箴言は、向田さんにはあてはまりません。
「台湾上空で行方不明になった飛行機に乗ったらしい」というTBS・久世光彦くんの第一報から本当にそんな年月が流れたのでしょうか。
 三周忌の前に、弟の保雄さんから多摩墓地に姉の独立した墓を建立したいので墓碑銘を考えてほしいと依頼されました。
 娘と生まれて、同じ姓のまま同じお墓に入るのは親不孝だとご両親から言われたことを生前、とても気にしていたそうですね。駄文を刻むのは恥を子孫に残すことになりますが、決意して、こう記しました。

 花ひらき はな香る
 花こぼれ なほ薫る

 今度はもう、
「こんなの、嫌い」
「三週間かかって絞り出した文句なんだけどなあ」
 なんてケンカのしようもなくなりましたな。

 そして今、改めて噛みしめるのは、初めて出会ったラジオ番組「重役読本」のころの思い出です。
 昭和37年春から始まった向田邦子作「森繁の重役読本」は二千四百余回続きました。週に一度、十回分ほどを録りだめするのですが、台本のあがりが毎回、収録ぎりぎりになるんです。おそらく渡す直前まで考え抜いて、喫茶店はもちろん途中の駅のベンチ、電話ボックスのなかでまで書いていたんじゃないですか。
 しかも大変な悪筆で、字はぐじゃぐじゃ。向田さんの筆跡なら絶対大丈夫だというガリ版切りの職人さんが放送局にひかえていて、原稿をもってとび込んでくると、素早く台本づくりに入る。それでも「手紙」が「牛乳」に、「嫉妬」が「猿股」になってしまう。男みたいな、ひん曲がった字でタタッと連ねて書いてあって、我々には読めない文字なんです。

 男まさりは文字だけではありません。一回五分の帯ドラマで、二百字詰め原稿用紙七枚程度の掌篇が八年にわたり放送されたのですが、その間始終、ケンカばかりしていましたなあ。
「また、以前、オンエアしたのと同じ趣旨じゃないか」
「そうよ、それでいいのよ。毎回違ったものを書いちゃ駄目なの」
――てな調子で、まさに楽しいケンカです。


「明治――西欧化と印刷術」 丸谷 才一

2017年03月29日 00時15分21秒 | 日本語について
 書きたい、書けない、「書く」の壁 (シリーズ 日本語があぶない) 丸谷 才一ほか 2005年

 三、明治――西欧化と印刷術 P-11

 これまで見てきたやうに、明治時代に日本語は大変革をおこなひ、それ以前にはなかつたほど作り変へられました。その要因をぼくは二つあげたい。

 第一はこれまでお話してきた西洋化です。そして第二は、活版印刷のはじまりであつた。この二つに共通するのは、能率と機能性です。それまでオットリと構へていた日本語が、突然、そんなノンビリしたことは許されなくなった。

 マクルーハンは活字と印刷術の出現を指して「失楽園」と言いました。つまり、それまでは聖書はごく一部の聖職者だけのものであつたのが、印刷術の出現でかなりの人が聖書を持つことになつた。それが、プロテスタンティズム誕生のきつかけにもなり、それによつて、これまで神父様にまかせていた魂の問題を、個人個人が自分で考へなくてはならなくなつた。さらに言えば、そのプロテスタンティズムのせいで資本主義が到来して、人々の生活は非常にせはしくなつた。さういふ文明の大転換だつたわけです。

 それと同じやうな大転換が、明治の日本にも起こります。これは当時の日本人、日本語にとつてもまさしく楽園喪失のやうなもので、たいへん厳しい現実へと日本を追い込んだのです。ノンビリ暮らすわけにはゆかなくなつた。

「大栗」 丸谷 才一

2017年03月27日 00時04分33秒 | 日本語について
 書きたい、書けない、「書く」の壁 (シリーズ 日本語があぶない) 丸谷 才一ほか 2005年

 「大栗」

 電網上の会話にはまったく新しい表現が次々と登場し、着々と浸透し定着しつつある。
 サイトへの投稿、書き込みなどに縁がないわたしでさえ、友人との携帯メールで「ごめん。ちょっと遅れる鴨」とか「とりあえず電話汁!」などと書いている。乙・・お疲れ様 キボン・・希望する チャソ・・チャン 漏れ・・俺 香具師・・奴(やつ) ・・・キーボードの打ち間違い、漢字変換ミス、さらには記号や文字の形状の類似から、「おもしろいじゃん、これのほうが」と認知されていくコトバ。

 ペンで手紙を書くとき、変換ミスはない。書き間違えや記憶違いだけだ。誤字は失礼にあたるからと、間違えるたびに新しい便箋に書き直していたものだ。分からない漢字は辞書をひいたし、塗りつぶして書き直したときには末尾に「取り急ぎ誤字多く乱筆にてあしからず」と書き添えたり。

 以前、添付ファイルをメールで送ってきた仕事先のかたから「二件大栗します(お送りします)。ご確認ください」と添え書きがあった。手書きなら書き間違えることはないし、こんな手紙を貰ったら「なんなんだ、こいつは」と思うだろうが、メール文なら「うふふ」で済まされるのだ。

「思考のレッスン」 その6 丸谷 才一

2017年03月25日 23時11分02秒 | 文章読本(作法)
 「思考のレッスン」 その6 丸谷 才一 文藝春秋 1999年

 「書き出しから結びまで」 その4 P-277

 次に終わり方。これは書き出しと同じです。

 「終わりの挨拶は書くな」

 「はなはだ簡単ではあるが・・・」とか、「長々と書いてきたが・・・」とか、これはやめる。パッと終わればいい。誰もそんな結びの挨拶なんか読みたくないんです。結びの挨拶がないと格好がつかないという感覚を、えてして人は持ちがちだけれども、そんなことはない。すっきりと終わればいいんです。

 繰り返しますよ。書き出しに挨拶を書くな。書き始めたら、前へむかって着実に薦め。中身が足りなかったら、考え直せ。そして、パッと終れ。

 そこにもう一つ、全体にかかわる心得を付け加えます。それは、「書くに値する内容を持って書く」ということ。

 書くに値する内容といっても、別に深刻、荘重、悲壮、天下国家を論じたり人生の哲理を論じたり、重大な事柄である必要はない。ごく軽い笑い話、愉快な話、冗談でもいい。重い軽いは別として、とにかく書くに値すること、人に語るに値すること、それをしっかりと持って書くことが大事なんですね。

「思考のレッスン」 その5 丸谷 才一

2017年03月23日 00時05分03秒 | 文章読本(作法)
 「思考のレッスン」 その5 丸谷 才一 文藝春秋 1999年

 「書き出しから結びまで」 その3 P-276

 丸谷 次は、文章の半ばのコツ――。

 「とにかく前へ前へ向かって着実に進むこと。逆戻りしないこと。休まないこと」

 話があっちこっちへ飛ぶ書き方というのもあるけれども、これは玄人の藝であって、また別。

 (中略)

 もう一つ、書いてる途中で、「ちょっと中身が足りないなあ」ということがある。そのときに、どうすればいいか?

 僕なんかそれで暮らしを立ててる身だから当たり前だけれど、人の文章を読んでいて、「あ、ここからここまでが水増しだ」とわかる。ことに随筆なんか、如実にわかっちゃう(笑)。随筆って、具合の悪いことに枚数が指定されているでしょう。10枚書いてくれとか。あんまり書くことがなくても、決まった枚数は埋めなきゃならないからたいへんなんですね。
 でも水増しというのはなにか興ざめするものでね。読んでいて急に味気ない気持ちになる。
 では、水増しとわからないようにするための書き方は何であるか?実に簡単です。水増しをしないこと(笑)。

 まず自分の書く中身を考えて、どうもこの枚数には、これじゃ足りないぞと思ったら、もう一度、考え直す。この内容で何枚書けるかということは、たくさん書くとわかってくるんです。ところが、この考え直すことをみんなしたがらないのね。

 ――せっかく考えたんだから、なんとかそれで間に合わせたいんです(笑)。

 よく、「原稿用紙が埋まらない」とウンウン言いながら書いている人がいるじゃない。一体に、考える時間が短いから、書く時間が長くなるんです。たくさん考えれば、書く時間は短くてすむ。