民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「お先にどうぞ」という倫理的生き方 その2

2015年05月31日 00時14分00秒 | 健康・老いについて
 「おじさん」的思考  内田 樹(1950年生まれ)  晶文社 2002年

 「お先にどうぞ」という倫理的生き方 その2 P-92

 合気道のお師匠さまである多田先生によれば、「病と対峙せず、病とともに生きる」のが正しい病との接し方であるという。『陰陽師』では阿部晴明も同じことを言っていた。「悪霊と対峙せず、悪霊と折り合いを付ける」のも、構えとしては同じことである。それは、「おのれを害するもの」と人間はちゃんと付き合っていけるんだから、まあ、じたばたすることはないよ、ということである。
 もちろん「おのれを害するもの」と永遠に共存できるわけではない。そうすることで、私たちは、ちょっとだけ「死神」から時間をかすめ取るだけである。でも「無限にある」と思い込んでいる時間と、死神からかすめ取った時間では、その「かけがえのなさ」が違う。時間の密度が違う。時間の厚みが違う。
 多田先生が「病とともに生きる」ことの大事さを繰り返し強調されたのは、そうすれば「健康にもどる」からではない。そうやって生きる方が人間は運命に与えられた時間を豊かに、かつ愉快に過ごすことができるからである。

「お先にどうぞ」という倫理的生き方 その1

2015年05月29日 00時05分28秒 | 健康・老いについて
 「おじさん」的思考  内田 樹(1950年生まれ)  晶文社 2002年

 「お先にどうぞ」という倫理的生き方 その1 P-92

 人間五十にもなると身体の節々が痛んでくる。四十代もなかば過ぎる頃からあちこち痛み出す。最初は「困ったなあ」と思って、病苦を「治癒」の対象とみなし、「病因の特定→患部の摘出」という外科的な図式で病をとらえていた。
 しかし、あまりぱっとしない。
 考えてみれば当たり前で、中年すぎてからの病気というのは、「他が全部健康で、特定の器官だけが単独に機能低下する」というものではなく、「身体のシステム全体」が失調すると、その「最も弱い環」から切れ始めるという仕方で発症するものだからである。
 患部を「敵視」して、それを「えぐり取れば」、もとの健康、「原初の清浄」が回復されると夢想するのは、身体システムの見方としては適切ではない。(社会システムの見方としても適切ではないが)。
 病気は「システム全体の失調」のサインである。
「そろそろ『おつかれさん』の時間だよ」という「終わりの合図」である。

 その2、その3に続く。

「江戸の卵は一個400円」 その15

2015年05月27日 01時23分06秒 | 雑学知識
 「江戸の卵は一個400円」 モノの値段で知る江戸の暮らし 丸太 勲 光文社新書 2011年

 「江戸の子供たちは勉強好き」 その2 P-80

 寺子屋は私塾だから、入門に規則や決まりはなく誰でも入ることができた。多くは6~7歳になると、二月の初午の日に入門の手続きをした。そして、就職が決まれば卒業というケースが多かった。
 授業は朝5つ半(午前9時)から始まり、年少組はお昼まで、年長組は家でお昼をすませて8つ(午後2時)まで勉強した。やんちゃ盛りの子供たちだから、先生の見えないところでいたずらしている者や、それが見つかって立たされている者の様子を描いた寺子屋風景の戯画も多い。
 その子供たちの手習いの成果を占める年に一度のイベントが「席書(せきがき)」で、この日は親や近所の人も参観した。子どもたちはその前で、学んだことをお手本を見ずに清書し、書きあがったものが壁に貼り出された。子供たちの成果はもちろん寺子屋の評判にもかかわるので、師匠も大いに張り切った。
 寺子屋に決められた授業料はなく、入門時には各家庭の事情に合わせて「束脩(そくしゅう)」と称する入門料を納めた。庶民は200~300文(4000~6000円)、お金持ちなら一分(3万2千円)程度だった。月々の月謝は200文、そのほかにも筆や硯箱、紙は自分持ち、机も入門する寺子が用意した。

「江戸の卵は一個400円」 その14

2015年05月25日 00時21分50秒 | 雑学知識
 「江戸の卵は一個400円」 モノの値段で知る江戸の暮らし 丸太 勲 光文社新書 2011年

 「江戸の子供たちは勉強好き」 その1 P-79

 慶応年間(1865~1857)、江戸には1200~1300の寺子屋があった。江戸では寺子屋とは言わず、「手習い」に通うと言った。ここではわかりやすく寺子屋で話を続ける。
 当時子供たちの9割が寺子屋に通っていた。識字率は70%以上。これを他国の識字率と比べてみると、イギリスの主な工業都市で20~25%、フランス14%なので、江戸は図抜けて高い。
 この就学率、識字率の高さを支えているのは、一に教育に対する親の理解、二に寺子屋教育の優れた点にあった。子供が成長して一人前になるには教育が欠かせないことを親が理解し、寺子屋教育がそれに応えていたのだ。
 寺子屋ではまず基本となる読み書き算盤(そろばん)、手紙の書き方などを学ばせ、次に子供たちの将来の職業に合わせて往来物と呼ばれる実用の書で勉強した。たとえば大工の子なら『番匠往来』、商家に奉公に出る子なら、『商売往来』、農民の子供には『百姓往来』などが教科書として与えられ、いわばマンツーマンの教育が行われていた。勉強に競争するものではなく、それぞれのレベルに合わせて生きる知恵を学ぶことだった。女の子には師匠の妻が裁縫を教えることもあった。

「私の文章修行」 吉行 淳之介

2015年05月23日 01時35分10秒 | 文章読本(作法)
 「私の文章修行」 吉行 淳之介 「物書きのたしなみ」所載 実業之日本社 2014年

 長年のあいだ文章を書いてきているのならば、いわゆる「手がきまる」というかたちになって、それほどの苦労もなく文章が書ける、と小説家についてそう考えている人が多いようだ。このことについては、ジャーナリストといえども油断ならない。
 先日も、ある雑誌社から電話がかかってきて、
「お手すきのときに、ちょっと小説を五十枚、書いてくれませんか」
 と言われた。
 私は唖然として、「は、はい」と返事しておいた。
 言うまでもないことだろうが、文章というものはそれだけが宙に浮いて存在しているわけではなく、内容があっての文章である。地面の下に根があって、茎が出て、それから花が咲くようなものである。その花を文章にたとえれば、根と茎の問題が片付かなくては、花は存在できないわけである。
 そこが厄介なところで、おまけに一つの作品ができ上ると、いったんすべてが取り払われて、地面だけになってしまい、またゼロからはじめなくてはならない。その上、その土地の養分はすべて前に咲いた花が使い切ってしまっているので、まず肥料の工夫からはじまる(土壌と根と茎が十分なかたちで揃えば、おのずから立派な花が咲くとおもっていいのだが、やはりその花の様相を整えることが必要である。ここではじめていわゆる「文章」が独立した問題として出てくる。技術についての事柄もいろいろとあるわけだが、私が言いたいのは、自分自身の花については花弁の繊毛についても敏感だが、他人の花のことはそんなに細かいところまで見ない。立派に咲いているかどうか、というその様子のほうにもっぱら眼がゆく。ということは、花を支えるもののほうに、はるかに重点を置いて考えていることになる。もちろん、花自体も肝心なことに間違いないが、他人の花の細部まで調べているヒマはない。下部構造がしっかりさえしていれば、花の整え方はその人の個性に属することで、かなり歪んだ花のかたちでもその人にとってはそれでいいわけである)
 ・・・・・文章を書く苦労が私をかなりうんざりさせていることについて、書いているのである。

 以下略