民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

秋田に伝わる祝いの針仕事 近藤 陽絽子 はじめに

2016年10月30日 00時17分27秒 | 伝統文化
 秋田に伝わる祝いの針仕事 「嫁入り道具の花ふきん」 近藤 陽絽子 暮しの手帳社 2013年

 はじめに P-4

 かつて、嫁ぐ娘の幸せを願い、さまざまな祈りを込めた模様を、さらし木綿に刺し子で施したふきんを持たせる風習がありました。「花ふきん」です。産声を上げたときから、幸せを願って少しずつ刺しためた花ふきんは、母の想いのたけです。
 数年前に花ふきんの展示をした際、年配のご婦人が膝まずいて涙を流されたそうです。身体のどこかで「母のぬくもり」を感じたのでしょうか。また、『暮しの手帳』で掲載されたときは、全国の方々から反響が多いとのことでした。それはそれぞれの地で刺し子のふきんがあり、身近で使用されてあったからだと思います。
 わたし自身は、大好きだった祖母から刺し子を教わりました。73歳になった今でも、祖母の膝のぬくもり、手の皺が思い出されるのです。私に針を持たせるのは、そんな祖母と想い出からです。
 花ふきんは、今ではもう昔のような、嫁入り道具としての華やかな「用」はありませんが、毎日使う器のように、生活の中でそれなりに「用」をなして、潤いとなればいいのです。電気釜の上、茶道具のほこりよけ、そのほかの物の上に、威張らずこっそりと、微笑んでいる。有るのが当たり前、無くなれば気になる。そんな存在。「母は――、家内は――、たかがふきんに、よくもこれほど一針一針根気をつめるもんだ」なんてしみじみと家族に眺めてもらえたら、それはうれしい。
 花ふきんの記事をみて、刺してみたいという方に「上手く刺そうとするのではなく、ただただ無心に真っ直ぐに針を進めることです」と、運針の心得だけをお伝えしたことがあります。(中略)
 本格的に刺し子をはじめてから、30数年が過ぎました。他人様に教え、教わる日々でした。先人の暮らしの知恵に感謝しながら、昔ながらのしきたりを守り、かぎり無い模様(刺し)が出来ました。その中の、ほんの数十種をご紹介します。みなさまの刺し見本となり、少しでも刺す喜びをお伝えできたら幸せです。


「人生後半を楽しむシンプル生活のススメ」 松原 惇子

2016年10月28日 00時26分43秒 | 健康・老いについて
 「人生後半を楽しむシンプル生活のススメ」 人生はこれからが本番よ! 松原 惇子 二見書房 2014年

 はじめに

 人生は何が起こるかわからない。死ぬまで住み続けるつもりでいた大好きなマンションを、2年前、65歳のときに思わぬトラブルで手放すことになった。
 しかし、この不幸な出来事により、わたしの暮らし方は大きく変わり、逆に輝きだしたのだから、本当に先はわからないものだ。

 一言で言えば、家を含めてモノを”持つ”生活から、なるべく”持たない”シンプルな生活への転換だ。といっても、何から何まで減らすわけではない。
 わたしが目指すシンプル生活は、好きなモノや好きな人、好きなコトだけに囲まれた生活である。煩わしいことはできるだけ排除し、自分をウキウキさせてくれるものだけに囲まれた、ワクワクする生活。シンプルだけど安っぽくない、愛着のある暮らし。

 「人生の残り時間は少ない。毎日を思い切り楽しまなくては損よ」がわたしの持論だ。
 「人生」という観点から見るとき、60代ほど素晴らしい年齢はないといえる。仕事や家族に追われて生きる時期は終わり、60代からは自由に自分を生きていいのである。そう、あなたの人生の本番はこれからだ。老後のことなど心配している場合ではないですよ。

 「松原さんの暮らしを書いてほしい」という依頼があったとき、生き方本で元気を配達しているわたしとしては、正直言って気が進まなかった。しかし、暮らし方も生き方であることに気づいた瞬間、頭はトップギアに入り、エンジン全開になり、1週間で書き上げてしまった。前代未聞の速さに自分でもびっくりしている。

 わたしの情熱が読者の皆様に伝わるとうれしい。

 2014年7月


 松原 惇子 

 1947年生まれ。昭和女子大卒、NY市立クイーンズカレッジでカウンセリング修士課程終了。38歳のとき「女が家を買うとき」でデビュー。3作目の「クロワッサン症候群」はベストセラーになった。一貫して「女性ひとりの生き方」をテーマに執筆、講演活動を行っている。60歳からは明るく老後を迎えるための著作多し。
  

「ひそかな楽しみ」 マイ・エッセイ 25

2016年10月24日 00時03分58秒 | マイ・エッセイ&碧鈴
 「ひそかな楽しみ」

 冬物から春物に衣替えしてまもなくの五月のある日、「音訳奉仕員養成講座」の第一回を迎えた。「音訳」とは「目の不自由な人のために、文字情報を音声に変換すること」と新明解国語辞典にある。毎週午前の二時間、全三十五回と、長丁場の講座だ。
 定員が二十名のところ、十八人が集まった。男はなんとオイラひとり。男は少ないと聞いてはいたがまさかひとりとは、思わず苦笑いがこぼれる。
 オイラは団塊の世代、「古来稀なり」は目と鼻のさきだ。現役の時はやりたくてもやれなかったことをこれからは思う存分やるんだ、と気合を入れて臨んだリタイア生活も七年が経とうとしている。
 時間がたっぷりあることをいいことに、いろいろやりたいコトに手を出してきたけれど、やりたいコトはモグラ叩きゲームのように次から次に出てきた。そのうちきりがなくなってきて、これからは広く浅くより、狭く深くで行こうと、ほんとうにやりたいコトは何かを見直し、それ以外は手を出すのはやめようと決めた。それからは新しくやりたいコトにぶつかっても冷静にブレーキをかけてきた。それでもブレーキをかけきれず手を出しかけたこともある。そのとき踏みとどまらせる最後の決め手になったのは、ミニマリストのブログの中の「新しいコトをやるということは新しいモノが増えるということ」という戒めだった。 
 オイラは「断捨離」なんて言葉がはやる以前に、「清貧の思想」に共感を覚えていたので、身の回りの増えすぎたモノを減らすことに力をそそいでいた。もうこれ以上モノが増えるのはゴメン、その気持ちは思いのほか強く、最後の砦はなかなか崩れなかった。
そんなオイラが禁を破って「音訳奉仕員養成講座」を受講することにした。「広報うつのみや」で養成講座があるのを知ったときは決然とスルーしていた。それがいくつかの偶然が重なって、なんだか受講するように運命づけられているように思えてきた。それでも新しいコトをやることに逡巡していた。
 迷いを打ち払うのに、二つの理由を言い聞かせた。ひとつは、朗読を先生について習い出して一年になるけれど、栃木県に生まれ育ったので訛りがなかなか直せなくて苦労していた。音訳をやれば標準語が身につくかもしれないという期待。
「音訳奉仕員」は、前には「朗読奉仕員」と言っていたくらい、「音訳」と「朗読」は声を出すパフォーマンスという意味では同じだ。だからまったく新しいコトに手を出すわけではない。朗読は「個性」を重視し、音訳は「没個性」を優先する、まったく正反対の立場でプラス、マイナスの両面があるだろうけれど、「敵を知り己を知れば」、と前向きにとらえた。
 もうひとつは、新しいことをやるからにはなにかをやめなきゃと、リタイア後の大きなウェイトを占めていた民話を切り捨てようという決断。
 シルバー大学で民話に出会い、卒業してからは三年間、いっときは月に七、八ヶ所もボランティアに行っていたほど熱心に活動していた「下野民話の会」を退会することにした。
 そのほかに、経費がテキスト代の千円しかかからないこと、場所が近く自転車で通えることも背中を押した。
「音訳奉仕員養成講座」は初級過程が十五回、中級過程が二十回、それぞれ二回以上休むと終了証がもらえないというなかなかに厳しい講座だ。
 オイラのウリの栃木訛りが標準語になっていたら、オイラが民話から離れるのを惜しんでくれた仲間たちもびっくりするだろう。それを楽しみに頑張ってみる。

「大学」 花森 安治

2016年10月21日 00時14分02秒 | 雑学知識
 「きのうきょう」 社会時評集 花森 安治 LLPブックエンド 2012年

 「大学」 P-88

 世の中へ出て、いい暮らしをするには、よい勤め先をえらばねばならぬ。よい勤め先をみつけるには、よい大学を出なければならぬ。よい大学へ入るには、よい高校へ入らねばならぬ。よい高校へ入るには、よい中学、よい小学校、そしてよい幼稚園へ入らねばならぬ・・・いまの世間をみていると、こういうヘンなスジみちが立っているようだ。
 つまり、いま「よい学校」というのは、上の学校へ入る率の多い学校、就職のらくな学校ということらしい。本人も先生も、親も、それだけを考えて暮らしている。そうするより仕方がないと考えている。

 6・3・3・4プラスアルファ、しめて20年近い年月を、朝から晩まで、ろくにコドモらしく若者らしく、たのしい日々をおくることもせず、試験と就職のことばかり考えて過ごしてきて、やっと思いをとげたとする。ところが、その「よい勤め先」では、大学出の新入生など、まず3年や5年は、大して役に立たぬ、というのが相場である。
 つまり「勤め先」の方では、その3年から5年のあいだの月給を払って、教育をやり直している、という勘定になる。

 大学が、実際は就職のためのパスポートなのに、一方では「学問」をするところ、きめられているから、こういうムダができる。
 どうせ3年も5年も月給を払って教育をやり直すのだったら、いっそ会社や役所で、はじめから自分のところに向く人間を養成する「学校」を作ればどうだろう。「なんとか銀行付属大学」「なんとか省大学」というふうに。
 そして、ほんとに「学問」をしたい人間だけが、肩書きのない「大学」へゆくようにすればよい。

 (昭和32年9月26日)

大学生の記章 (その4) 花森 安治

2016年10月20日 00時01分56秒 | 雑学知識
 「風俗時評」 花森 安治 中公文庫 2015年

 本書「風俗時評」におさめられた文章は1952年から翌年にかけて、同名のラジオ番組で、花森が語ったものである。

 大学生の記章 (その4) P-80

 世の中には、新制中学を出ただけで、働きに行かなければならないコドモが沢山います。そういうコドモに比べて、自分は高等学校に行っているのである、町工場に働いているのではないということ、何かその方がエライのだということ、それを服装の上で見せたいという気持ち、この気持ちを恐ろしいと思います。
 この気持ちを今のうちに摘んでしまわなければ、やがて10年経ち、20年経ち、30年経って、今の学生が社会の中心に立ったとき、日本はやはり同じことになりそうな気がします。この思い上がった気持ちというと御弊があるかもしれませんけれども、とにかく自分は人と違ったものである、違った階級に属するものであるという気持ちほど、今の日本に要らない、邪魔になる、一番困ったものはないと思います。自分は日本人の一人である。自分は人間の一人であるという気持ちが、今は一番大事なので、自分は学生であるとか、自分は金持ちであるとか、自分は組合の尖鋭分子であるとか、自分は政治家であるとか、自分は文化人あるというような気持ちは、実は要らないのではありませんか。少なくとも二の次でいいのではありませんか。ところが今申し上げたように、すでに少年たちの間でも、こういう気持ちの芽生えが強くなって来ているようです。これは、将来の日本のために、大変不幸な現象の一つだろうと思います。ばかげた特権意識を作るための制服は、これは制定すべきではないとボクは考えております。