民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「鴻毛より軽し」 その1 杉本 苑子

2015年07月31日 00時19分43秒 | エッセイ(模範)
 「日本語のこころ」 2000年版ベスト・エッセイ集  日本エッセイスト・クラブ編 

 「鴻毛より軽し」 その1 杉本 苑子 P-71

 私の趣味は読書だが、映画も好きで、時おり見に行く。家からさほど遠くないO市に、外国映画の封切り館があり、シニア料金で、なぜか二本も見られるのである。
 
 中略

 私は妙なところに凝る性分で、映画に触発されるとやみくもに、詳しい時代背景や他の歴史事実との関連が知りたくなり、次から次へ本を読みまくる。そしてその読書がまた、映画から受けた感銘を倍化させてもくれるのである。

 中略

 したがって七十三歳の現在なお、知識欲だけは一向におとろえず「あれも判らぬ。これも知りたい」と焦るばかりで、惜しくもない命が、知的好奇心のためにのみ惜しまれる毎日なのだ。
 ところで、このエッセイを書こうと思っているのは、じつは『始皇帝暗殺』についてなのである。・・・と言っても、映画批評ではない。おそらくごまんと批評のたぐいは出たであろうし、自分流にしか映画を見ない私には、批評する資格も、する気もない。この映画で私が注目したのは、主役の始皇帝でも荊軻(けいか)でもなく、脇役扱いされている高漸離(こうぜんり)と樊於期(はんおき)なのである。
 この二人の行動に、私は男ならではの、死の美学を見る。たまらなく、そこに惹かれる。(略)
 まず樊於期だが、彼は秦の重臣だった。しかし秦王政(始皇帝)が父子楚(しそ)の子ではなく、母と宰相呂不韋(りょふい)の三つの所産だという重大な秘密を知ってしまう。このため危険を感じ、燕(えん)の国に逃れて、太子丹(たん)の庇護を受ける身となる。つまり亡命者である。
 しかし彼は、丹太子が刺客の荊軻を放ち、始皇帝を殺害しようと企てたとき、みずかrなお一命を絶つ。それというのも始皇帝が、莫大な賞金をかけてまで、樊於期の首を求めていたからであった。
「始皇帝が欲している燕の領土の地図と、私の首とを恭順の証として持参すれば、皇帝は喜び、まちがいなく謁見を許すだろう」
 そう樊於期は荊軻に告げ、言葉通り自裁して、その首を提供したのだ。
 いま一人の高漸離は、これも荊軻の友人だが、詩人であり筑の名手でもあった。筑というのは胴が円く頸が細く、十三絃のところどころに柱を立てて、撥で掻き鳴らす小型の楽器である。
『史記』では、荊軻を見送った高漸離が、易水の岸辺に佇んで、
「風、蕭々(しょうしょう)として易水寒し、壮士ひとたび去って復、帰らず」
 と吟じる場面が描かれている。日本人にもなじみの深い刺客列伝中のハイライトだし、中国趣味の蕪村などもこの別離に酔ったか、
 
 易水に葱(ねぶか)流るる寒さかな

 と一句ものしている。

「恋欲」は年をとらない その2 岩橋 那枝 

2015年07月29日 00時26分11秒 | エッセイ(模範)
 「日本語のこころ」 2000年版ベスト・エッセイ集  日本エッセイスト・クラブ編 

 「恋欲」は年をとらない その2 岩橋 那枝 


 いつだったか某男性作家が、「六十過ぎたマリリン・モンローよりも、はたちのただの女がいい」と言って、同席していたわたしは大笑いしたが、自分が六十過ぎのただの女になった今は笑いごとでは済まされない。成熟した女の魅力とか、中身で勝負とかいっても、かなしいかな、それが相手に痛痒するかどうか。自信とうぬぼれの境めが、年をとるにつれてむずかしくなり、恋の情熱に変わりはなくても行動は用心ぶかくならざるをえない。肉体にこだわるかぎり、肉体のひけめがつきまとう。

 中略

 野上弥生子の日記から――
<「女は理解されると、恋されてゐると思ふ」といふアミエルの言葉は忘れてはならない。しかし異性に対する牽引力がいくつになっても、生理的な激情にまで及び得ることを知ったのはめづらしい経験である。これは私がまだ十分女性であるしるしでもある>
 六十八歳(昭和28年)の秋、まだ相手と手紙を交わして相思相愛の間柄へすすむ以前に、こうしるしている。

 中略

 弥生子の恋は、けっして奔放に生きてきた女だからではない。彼女は知的作家の代表格だが、主婦としてもじつに有能かつ勤勉で、三児の母親としてかなり猛烈な教育ママだった。
 わたしは学生時代に一度だけ、野上弥生子の講演を聴き壇上の姿を遠目に仰ぎ見た。ちょうど彼女が恋愛中の七十歳頃にあたるが、もし当時それを知らされていたとしても、壇上の地味な和服姿のおばあさんが、まさか、と信じなかっただろう。

 中略

 恋欲に個人差があるのは、食欲と同じで、年をとって食が細くなる人もいる。小食の人に、もっと食べろと強いてもムダで、はたからおせっかいをやくつもりはないが、恋を忘れて老いていくのは人生を自分からつまらなくしていると思う。人生の持ち時間がだんだん減ってきて、生老病死と人生のはかなさを直視する年齢になったからこそ、恋に生気づいてたのしく暮らしたい。年をとって、酸いも甘いも知ったリアリストになるにつれ、愛情も人をみる目もセチ辛くなって、意地悪や不平の多いおばあさんになりがちだから、恋の復活力はなおさら貴重だ。くり返すが、恋友達でも片思いでもいい。要は、心を老化させないことだ。
 「結婚適齢期」はもう死語になったが、「恋愛適齢期」を勝手にきめてとらわれている男女よ、もっとしぜんに生きましょうと申しあげたい。

                                   「婦人公論」99年7月7日号

「恋欲」は年をとらない その1 岩橋 那枝 

2015年07月27日 00時18分20秒 | エッセイ(模範)
 「日本語のこころ」 2000年版ベスト・エッセイ集  日本エッセイスト・クラブ編 

 「恋欲」は年をとらない その1 岩橋 那枝 

 恋は女を少女にする

 恋に年齢はない。六十過ぎても、七十代八十代になっても、恋の情熱は変わらない。
 若い人が聞いたら、「えっ、ウソー」と目をまるくするかもしれない。わたしも若い頃は、老年の恋なんて、よっぽどの例外で、ウス気味が悪いとさえ思っていた。恋に年齢はない、という自然で当たりまえのことがわかっていなかった。自分が六十代になってみると、やっと実感でわかってきた。
 いくつになっても、愛し愛されたいしぜんな欲求を失わないでいるかぎり、恋心は老化しない。
 作家野上弥生子は、五十歳のとき日記に書いている(旧かなづかいの原文のまま引用)。
<人間は決して本質的には年をとるものではない気がする。九十の女でも恋は忘れないものではないであろうか>
 その通りだと思う。
 
 中略

 野上弥生子は、六十代後半に熱烈な恋をした。恋文を交わしてはっきりと相思相愛をたしかめあったのは、六十八歳のとき。
 人生の終わりに近くになって、こういう日が訪れるとは夢にも考えたろうか、と弥生子が日記にしるしている大恋愛は、同い年の相手が亡くなるまで十年間続いた。
 彼女の老年の恋のいきさつは、あとでまたとりあげるとして、もう一人の女性作家平林たい子は、次のような名文をのこしている。
<恋愛とは、私のようなすれからしの女でも娘のような瞬間にかえりうることなのである>
 これまた、まさにその通りで、心が老いこまないで恋をする女ならば誰しも思い当たることだろう。
 平林たい子は女傑といわれ、文壇から総理大臣を出すなら見識力量ともに、この人をおいてほかにないとされながら、その彼女が片思いの恋に燃えたときの内明け話を読むと、胸のときめきも相手の反応に一喜一憂するさまも、うぶな小娘とちっとも変わりない。わたしと同じだなあ、と身につまされて笑ってしまうほどだ。
 年齢相応にしぶとくなったわたしのような者でも、生活に揉まれて感動の鈍ったオバさんでも老齢の女でも、ひととき娘にかえりうる。恋ならではの貴重な復活力だ。平林たい子の名言は、女はなぜ恋を求め続けるのか、それを解きあかすカギの一つといえる。

 中略
 
 恋は、若い人の専有ではない。とはいっても、恋愛のあり方は、年齢とともにちがってくる。
 年をとるにつれて、しぜんな欲求のままには行動できないものが、実生活にも心の中にも、人生経験とともにふえてくる。むろん人によりけりだけれど、若いときとちがってストレートに恋心を行動に移せないほうが普通だろう。枷のふえた暮らしや人間関係など外的な条件もさることながら、もう若くない本人の自覚がいようなしにはたらく。

 中略

 その2に続く

「今の青年の文章に見る三欠点」 幸田 露伴 

2015年07月25日 01時05分43秒 | 文章読本(作法)
 「今の青年の文章に見る三欠点」 幸田 露伴 「露伴全集 別巻 上」 1911年(明治44年)

 近頃の青年の文章を読んで先ず感ずるのは、その文字がいかにも乏(とぼ)しいことである。これは何のためであるかというに、読書をしないからである。
 文字が乏(とぼ)しくては、いかに思想はあふれるほど豊かでも、思いあまって筆ともなわずで、せっかくの思想を凱切(がいせつ)にいい表すことはできない。文字を多く知るには読書するしかない。

 (明治44年、もう既に若者は本を読まなくなっていたのか→ブログ主の感想)

 出典 「国語力をつける本」 轡田 隆史 三笠書房 2002年

「ジョーク力養成講座」 その2 野内 良三

2015年07月23日 06時45分28秒 | 雑学知識
 「ジョーク力養成講座」 野内 良三  大修館書店 2006年

 ジョークの形式
 1、状況を設定する。→導入部
 2、思い込みを誘導する。→展開部
 3、意外性を目撃する。→落ち

 ジョーク集 その2

 ☆大手の靴メーカーがアフリカの奥地に二人の社員を派遣した。数日後、社長に二通の電報が届いた。
 ――悲観主義の社員から→明日帰る。商売は見込みなし。現地人は裸足(はだし)で生活。
 ――楽観主義の社員から→支社を設立。有望な市場。現地人は素足(すあし)で生活。

 ☆ドラッグストアの主人が客に答える。
 ――この殺虫剤はこれまででもっとも強力なものです。
 ――蚤(のみ)も確実に殺せるかね?
 ――もっとすごいことをしてくれます。
 ――それはなんだね?
 ――彼らに猛烈なかゆみを与えるのです。それで彼らは七転八倒の苦しみを味わいます。

 ☆音楽好きな父親が初めて小学生の息子をオペラに連れて行った。幕が開いた。そのうち息子が父親に聞いた。
 ――パパ!あの後ろを向いて棒を振り回している人はなんなの?
 ――あれは指揮者だよ。
 ――あの人はどうしてあのデブのおばさんを棒で脅かしているの。
 ――脅かしているんじゃない。
 ――それなら、どうしてデブのおばさんはあんなに喚いているの。

 ☆ある百姓夫婦が司祭のもとを訪れた。二人は長年連れ添ってきたのだが、この2、3年口論が絶えず、いっそのこと別れて暮らそうということになった。だが、悩みはひとり娘をどちらが引き取るかだった。そして司祭の判断を仰ぎに来たのだった。司祭もどうしたものか、思案にくれた。
 すると、女房が金切り声でまくしたてた。
 ――娘はわたしのものですよ。10ヶ月もあたしのお腹のなかにいて、生まれてからもあたしのお乳で育ったんですからね。ところが、この人はあたしの身体を楽しんだだけ、娘を引き取る権利なんかあるものですか。
 だが、亭主は慌てず騒がず、
 ――司祭さま、ひとつたとえ話で説明しますよ。あっしが缶ビールを飲みたいと思ったとします。自動販売機の割れ目にコインを入れます。すると缶ビールが出てきます。その缶ビールは自動販売機のものですかね。それともあっしのものでうかね。
 司祭は亭主のたとえ話にすっかり感服して答えた。
 ――なるほどなるほど、おまえさんの言うとおりだ。娘はおまえさんが引き取るがいい。