民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「本が心になるまで」 荒川 洋治

2015年06月30日 00時26分45秒 | 文章読本(作法)
 「包む」 現代日本のエッセイ 幸田 文  講談社文芸文庫 1994年

 人と作品 「本が心になるまで」 荒川 洋治

 前略

 随筆は、日本人が古来、得意とするジャンルであるが、小学校時代に読まされる著名な随筆家の作品はぼくがぼんやりしていたせいもあって、どこがいいのかわからなかった。随筆の醍醐味を感じとるのは、やはりある程度としをとらなくてはならないのだろうか。ぼくもそれからとしをとっていったけれど、随筆のよさを理解したとはいいがたい。それでもその世界について語ってみたい気持ちになるのである。
 随筆というものについてはいろんな見方があるが、ひとことでいうと、文章そのものを味わうことに尽きるのかもしれない。もちろん随筆のなかには、知識がおりこまれていなくてはならない。思考ものぞかせなくてはならない。さらにその人の風格がただよってこなくてはならない。そしてそのうえでの話だが、読者が気軽に読めて楽しめる雰囲気のものであってほしいものだ。
 これらは読者の側からの希望であるのだが、書く当人にとってはかなりむずかしい注文ということになる。希望のひとつひとつをみたしながら、それを文章のなかで示してみせることになるのだから。
 随筆はいつも読者の目に見張られているわけなのである。その読者の注文の性格にも時代の変化があらわれる。いまは随筆ということばにかわって、エッセイが登場した。エッセイというのは、随筆とは少しちがうように思われるものの、共通する点がある。それはまず、作者が自分の専門のことではなく、そこから離れて、いろんなことについて自由に語るという姿勢である。いちばん得意なところを語ってみせるのではなく普段知らないところにも分け入って自分の感想を述べるということだ。
 小説家は詩について書く。歌人は社会について語る。科学者が世間について語る。建築家は農村について語る。そういうひろがりが求められる。ぼくはいつも一日じゅう、家のなかにいますが、宇宙について書いてもいいですか?ああ、いいですよ。ぼくは犬が好きですが、牛について書いてもいいですか?ええ、いいですよ。
 本来、随筆には、そういうことが期待された。つまり自分の場所にいて動くつもりのなかった人が、そこから外へ出て、人間の社会のひろさに触れる。文章を書く人なら、自分の文章ばかりでなく、人生の気分まで変える。それで幅が出て、一段おとなになる機会を与えられる。それが随筆というものの重要な働きのひとつかもしれない。つまりそれは文章というものが、何かにとどまるのではなく、生きて、流れるものであるからである。生きて、流れるため、あれこれをめぐるために、文章はつづられていくのである。随筆は、文章が生きる姿そのものをあらわすものだということになる。