民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「でんでんむしの かなしみ」 新美 南吉

2013年12月30日 00時13分20秒 | 民話(おとぎ話・創作)
 「でんでんむしの かなしみ」 新美 南吉 (原文)

 いっぴきの でんでんむしが ありました。
 ある ひ その でんでんむしは たいへんな ことに きが つきました。
「わたしは いままで うっかりして いたけれど わたしの せなかの からの なかには かなしみが いっぱい つまって いるではないか」
 この かなしみは どう したら よいでしょう。
 でんでんむしは おともだちの でんでんむしの ところに やって いきました。
「わたしは もう いきて いれれません」
と その でんでんむしは おともだちに いいました。
「なんですか」
と おともだちの でんでんむしは ききました。
「わたしは なんと いう ふしあわせな ものでしょう。わたしの せなかの からの なかには かなしみが いっぱい つまって いるのです」
と はじめの でんでんむしが はなしました。
 すると おともだちの でんでんむしは いいました。
「あなたばかりでは ありません。わたしの せなかにも かなしみは いっぱいです」

 それじゃ しかたないと おもって、はじめの でんでんむしは べつの おともだちの ところへ いきました。
 すると その おともだちも いいました。
「あなたばかりじゃ ありません。わたしの せなかにも かなしみは いっぱいです」
 そこで、はじめの でんでんむしは また べつの おともだちの ところへ いきました。
 こうして、おともだちを じゅんじゅんに たずねて いきましたが、どの ともだちも おなじ ことを いうので ありました。
 とうとう はじめの でんでんむしは きが つきました。
「かなしみは だれでも もって いるのだ。わたしばかりでは ないのだ。わたしは わたしのかなしみを こらえて いかなきゃ ならない。
 そして、この でんでんむしは もう、なげくのを やめたので あります。



  「でんでん虫の 悲しみ」 新美 南吉 (漢字混じり文)

 一匹の でんでん虫が ありました。

 ある日 その でんでん虫は 大変なことに 気がつきました。
「わたしは 今まで うっかりしていたけれど わたしの 背中の からの中には 悲しみが 
一杯 つまっているではないか」

 この 悲しみは どうしたら よいでしょう。

 でんでん虫は お友だちの でんでん虫の ところに やって行きました。
「わたしは もう 生きていられません」
と その でんでん虫は お友だちに 言いました。
「何ですか」
と お友だちの でんでん虫は 聞きました。
「わたしは なんという 不幸せな ものでしょう。わたしの 背中の からの中には 悲しみが 
一杯 つまって いるのです」
と はじめの でんでん虫が 話しました。
 すると お友だちの でんでん虫は 言いました。
「あなたばかりでは ありません。わたしの 背中にも 悲しみは 一杯です」

 それじゃ 仕方ないと 思って、はじめの でんでん虫は 別の お友だちの ところへ 行きました。
 すると その お友だちも 言いました。
「あなたばかりじゃ ありません。わたしの 背中にも 悲しみは 一杯です」

 そこで、はじめの でんでん虫は また 別の お友だちの ところへ 行きました。

 こうして、お友だちを 順々に 訪ねて 行きましたが、どの 友だちも 同じことを 
言うので ありました。

 とうとう はじめの でんでん虫は 気がつきました。
「悲しみは 誰でも 持っているのだ。わたしばかりでは ないのだ。
わたしは わたしの悲しみを こらえて いかなきゃ ならない。

 そして、この でんでん虫は もう、嘆くのを やめたので あります。
 

「12歳の少女セヴァン・スズキが行った伝説のスピーチ」

2013年12月28日 00時26分50秒 | 雑学知識
 「12歳の少女セヴァン・スズキが行った伝説のスピーチ」 1992年地球サミット(リオデジャネイロ)

 こんにちは、セヴァン・スズキです。
エコを代表してお話しします。
エコというのは、子供環境運動(ECO: Environmental Children's Organization)の略です。
カナダの12歳から13歳の子どもたちの集まりで、自然環境を守るための活動をしています。
あなたがた大人たちに、どうか生き方を変えていただくよう、お願いするために、
自分たちでお金を集めて、カナダからブラジルまで1万キロの旅をして来ました。

 今日、私たちが話すことは、すべて嘘のない本心の言葉です。
なぜって、私たちが環境運動をしているのは、私たち自身の未来のため。
私たち子どもが、自分の未来を失うことは、あなたがた大人が選挙で負けたり、
株で損したりするのとは次元の違う問題なのです。

 私たちがこれから話すことは、未来に生きる子どもたちのためです。
世界中の飢えに苦しむ子どもたちのためです。
そして、もう行くところもなく、死に絶えようとしている無数の動物たちのためです。
世界中の飢えに苦しむ子どもたちの泣き叫ぶ声は、あなたがた大人の耳には届きません。
どこにも行くところがなく、次々と絶滅して行く数え切れないほどの生き物たちのことも同じです。
だから、世界中の子どもたちや生き物たちに代わって、私たちが話すのです。

 太陽のもとに出るのが、私はこわい。それは、オゾン層に穴があいているから。
呼吸をすることさえこわい。空気にどんな危険な化学物質が混じっているか分からないから。
お父さんと一緒に、よくバンクーバーで魚釣りに行っていました。
数年前に、体中ガンでおかされた魚に出会うまでは。
そして今、毎日のように動物や植物たちが絶滅していくのを、私たちは耳にします。
一度絶滅してしまった生き物は、もう永遠にもどってはこないのです。

 私には小さいころからの夢がありました。
それは、いつか野生の動物たちの群れや、たくさんの鳥や蝶が舞うジャングルや熱帯雨林を見ることでした。でも、私は見ることが出来ても、私の子どもたちは、見ることができるのでしょうか?あなたがた大人は、私ぐらいの年令の時に、今の私と同じように、未来の自分の子どもの心配したことがありますか?

 こんな大変なことが、ものすごい勢いで起こっているのに、私たち人間ときたら、
まるでまだまだ余裕があるようにのんびりと構えています。
まだ子どもの私には、この危機を救うのに何をしたらいいのかはっきりわかりません。
そして、あなたがた大人も、本当の解決法など持っていないと思います。
だから、せめて、「本当の解決法など持っていない」ということだけは、自覚して欲しいのです。

 あなたがた大人は、オゾン層にあいた穴をどうやってふさぐのか知らないでしょう。
死んだ川にどうやってサケを呼びもどすのか知らないでしょう。
絶滅した動物をどうやって生きかえらせるのか知らないでしょう。
そして、今や砂漠となってしまった場所にどうやって緑の森をよみがえらせるのか知らないでしょう。
だから、大人のみなさん、どうやって直すのかわからないものを、壊し続けるのはもうやめてください。

 ここに集まっている大人のみなさんは、いろいろな国の政府の代表者や、企業や団体の代表者、
そして、報道関係者の人たちです。
でもほんとうは、あなたがたもだれかの母親であり、父親であり、姉妹であり、兄弟であり、おばさんです。そしてあなたがたの誰もが、誰かの子どもなんです。

 私はまだ子どもですが、ここにいる私たちみんなが同じ大きな家族の一員であることを知っています。
そうです50億以上の人間からなる大家族であり、3千万種類以上の生物からなる大家族です。
いろいろな国の政府や国境が、どんなに分け隔てをしようとも、私たち地球で生きるものたちが
1つの大家族だということは、変えようがありません。

 私は子どもですが、みんながこの大家族の一員であり、ひとつの目標に向けて心をひとつにして
行動しなければならないことを知っています。
わたしは、今のひどい環境を見て、怒りで心が震えていますが、それでも、自分を見失ってはいません。
わたしは、今のひどい環境を見て、恐怖で体が震えていますが、
それでも、自分の気持ちを世界の人たちに伝える勇気を持ち続けています。

 私の国での無駄使いは大変なものです。買っては捨て、また買っては捨てています。
そして、そんなにたくさんの物を無駄にしている北の国は、
物が不足している南の国と分かち合おうとはしません。
物がありあまっているのに、私たちは自分の富を、少しでも手放すのがこわいのです。 
カナダで暮らす私たちは十分な食物と水と住まいを持つ恵まれた生活をしています。
食べ物も、水も、お家も、何でも十分にあります。
時計、自転車、コンピューター、テレビ、私たちの持っているものを数えあげたらきりがありません。

 2日前ここブラジルで、家のないストリートチルドレンと出会い、私たちはショックを受けました。
一人の子どもが私たちにこう言ったからです。
「ぼくが金持ちだったらなぁ。もしそうなら、家のない子すべてに、食べ物と、着る物と、薬と、
住む場所をあげるのに。それから、やさしさと愛情もね。」
住むところもなく、今日、食べる物もない一人の子どもさえ、自分のことだけでなく、みんなと分かちあうことを考えているのに、全てを持っている私たちがこんなに欲が深いのは、どうしてなんでしょうか?

 この子どもたちは、私と同じぐらいの年齢でした。私は、自分と同じくらいの年齢の子ども達が、
こんな生活をしていたことが、とてもショックで頭から離れません。
同じ人間なのに、同じ大家族の一員なのに、どこに生れついたかによって、こんなにも人生が違ってしまう。もしかしたら、私がここブラジルのリオの貧民窟に住む子どもの一人だったかもしれないのです。
そして、飢えに苦しむソマリアの子どもだったかもしれないし、大人たちの戦争の犠牲になった中東の
子どもだったかもしれないし、インドで乞食をしている子どもだったかもしれないのです。

 もし世界中の国の大人たちが戦争のために使っているお金を全部平和のために使えば、
環境や飢餓の問題のために使えば、この地球がすばらしい星になるでしょう。
私はまだ子どもですが、それでもこのことを知っています。

 小学校で、いや、幼稚園でさえ、あなたがた大人は私たちに、世の中でどうふるまうかを教えてくれます。
 たとえば、
*争いをしないこと
*話しあいで解決すること
*他人を尊重すること
*ちらかしたら自分でかたずけること
*ほかの生き物をむやみに傷つけないこと
*分かちあうこと
*そして欲ばらないこと

 ならばなぜ、あなたがた大人は、私たち子どもに「するな」ということを、自分達はしているのですか?
みなさんは、今日、何のためにこの会議に出席しているのか、どうか、そのことだけは忘れないでください。そしてこのような会議をいったい誰のためにやっているのか。
それはあなたがたの子ども、つまり私たちのためなのです。
あなたがたはこうした会議で、私たちがどんな世界に育ち生きていくのかを決めてようとしているのです。

 親たちはよく「だいじょうぶ。すべてうまくいくよ」といって子ども達をなぐさめます。
あるいは、「できるだけのことはしてるから」とか、「この世の終わりじゃあるまいし」と言いますよね。だけど、今の地球の環境を見たら、もうこんな言葉を自分の子どもに向かって言えないと思います。
わたしたち子どもの未来のことなんて、みなさんの議題の中にすら入っていないじゃないですか。
みなさんは、私たち子どもの未来のことを本当に考えてくれているのですか?

 私のお父さんは、いつも、「人間の価値は、何を言ったかではなく、何をしたかで決まる」と
言っています。
でも、私は、あなたがた大人がこの地球に対していることを見て、泣いています。
それでも、あなたがた大人はいつも私たち子どもを愛していると言います。本当なのでしょうか?
もしそのことばが本当なら、どうか、本当だということを言葉でなく、行動で示してください。

 最後まで私たちの話をきいて下さって、ありがとうございました。

 スピーチの動画があります。 http://www.youtube.com/watch?v=N0GsScywvx0




「サステイナビリティ」 ネットより

2013年12月26日 22時31分53秒 | 雑学知識
 「サステイナビリティ」 H・P Shin's Laboratory→私的環境学→ サステイナビリティという考え方

 「サステイナビリティ(Sustainability)という考え方」 

 サステイナビリティ の定義
 環境のことを考えるときに、忘れてはならないコンセプトがあります。
SustainabilityあるいはSustainable developmentと呼ばれるものです。
日本語では「持続的発展性」などと呼ばれていますが、若干ニュアンスが異なるような気もするので、
ここではカタカナでサステイナビリティと表記することにします。
サステイナビリティは1980年代に欧米で提唱され始めたコンセプトで、
人によって様々な解釈があるのですが、
現在では1987年に国連報告書の中に示された定義が専ら用いられているようです。

「将来世代が彼らのニーズを満たすための能力を損なうことなく、現在世代のニーズを満たすこと」

 環境学は、すべてこのサステイナビリティを実現することを究極の目的としているといっても
過言ではないでしょう。ただ、このサステイナビリティ、ちょっとやそっとのことでは実現不可能です。

 <サステイナブルであるということ>
定義だけではいまいちピンと来ない部分もあると思いますので、一例を挙げてみます。
100匹の魚がいる湖を考えてみて下さい。この魚たちは1年に20匹の次世代を生むことができ、
そのかわり10匹は寿命で死んでしまうと仮定します。
つまり、放っておくと10匹ずつこの湖には魚が増えていくことになります。
さて、湖の横に一軒の家があり、そこに釣りの好きなおじいさんが住んでいます。
彼がずっとこの湖で釣りを楽しみ、さらに息子や孫の代にも釣りを楽しんでもらうためには、
1年間に釣り上げる魚の数を10匹以内に抑える必要があります。
これを超えると魚たちの再生能力を損ない、湖の魚の数が年々減っていってしまうからです。
 この、おじいさんが年間の釣果を10匹以内に抑えている状態を「サステイナブルである」と言います。
同じような考え方を、イノシシ狩りや果実栽培にも適用することができます。つまり、
自然の再生能力の範囲で生計を立てることがサステイナビリティの最も基本的なコンセプトなのです。
では、現代の人間社会はサステイナブルであると言えるでしょうか?答えはノーです。

 中略

 <人間の歴史とサステイナビリティ>
人間社会はいつからサステイナブルではなくなってしまったのでしょうか?
多少、冗長な感もありますが人類の歴史に沿って少し考えてみます(環境というものについて「考える」
のがこのページのテーマですのであえて回りくどくとも思考の過程に沿って書いていくことにします)。

 地球上に最初に出現したころの人類の生活を想像してみて下さい。
まだ農耕という文明が生まれておらず、狩猟と採集だけで生計を立てていた頃のことです。
この頃の人類は、火を起こすことが出来るという点で他の生物に比べて長じていたものの、
その存在自体は自然の恵みに依存する部分が大きく、
あくまでも自然の食物連鎖の一部として生きていました。
人類だけが爆発的に繁栄するというわけにはいかなかったわけです。やがて、農耕文明が出現します。
農耕は人間の生活に劇的な変化をもたらしましたが、
その中でもとりわけ重要だったのが「安定した食糧供給と貯蓄」を可能にしたという点です。
食料が安定して供給されるようになると、平均寿命が延び、病気や災害への耐性がつき、
結果的に人口が増えます。
人口が増えると狩猟や採集の量も増え、局地的にはサステイナブルではなくなる場合も増えてきます。
人類は食物連鎖から開放されると共に、
「自然からの享受」から「自然からの搾取」へとライフスタイルを変えることとなりました。

 時代は大きく飛んで産業革命期へと移ります。蒸気機関が発明され、
人間社会はより大きな「火の力」を必要とするようになりました。
ここで本格的な化石燃料、すなわち石炭や石油の利用が始まります。
自動車、航空機、電気、電話、印刷技術・・・人間社会がものすごいスピードで便利になり、
人口もこれまでに見られないほどの伸び率を示します。
特に化石燃料は一度掘り返してしまえば何万年も経たないと再生はされません。
化石燃料が文明の基盤になる、ということは、人間の文明そのものがサステイナブルでない段階へと
シフトしたことを意味します。

 そして現代。 先進国に暮らす我々の生活はとても豊かになりました。
スイッチを押すだけで電気が灯り、
毎日食べきれないほどの食料をあらゆるところで手に入れることが出来ます。
一方で、一部の国々は石油の利権を争って戦争を繰り返し、
豊かな生活を実現するための資源を提供してくれるはずの自然は破壊されていく一方です。

 将来へと目を向けてみたらどうでしょう?
現在60億人超の世界人口は2050年には90億人に達すると見込まれています。
石油の埋蔵量はあと50年分とも25年分とも言われています。
砂漠化、酸性雨、地球温暖化など複雑かつ大規模な環境問題は局地的な対応では
もはや手に負えなくなっています。
現代社会は「将来世代が彼らのニーズを満たすための能力を損なうことなく、
現在世代のニーズを満たすこと」 というサステイナビリティの条件を満たしているとは到底言えません。

 <孫の代の世界を想像する気持ち>
 1992年の地球サミット(リオデジャネイロ)で、セヴァン=スズキという12歳の少女が
「伝説のスピーチ」を行いました。(スピーチの全文は後日アップする予定)
環境スクールに通い、初めてこれを読んだとき、私はかなりへこみました。
環境学だ、サステイナビリティだとかっこつけてても、
それまでの私には結局「今の世界をどうするか」という視点しかなかったからです。
このスピーチを読み、孫の世代に石油が本当に無くなったらどうするんだろう、
いや、無くならないようにするには、今何をすればいいんだろう、
というような視点で物事を考えるようになりました。

 結局、セヴァンの言うとおり、
環境問題を解決できるのは政治家やビジネスマンではないのかもしれません。
父親、母親として子供や孫を思いやる気持ち。そしてその気持ちを形あるものに変えていく力。
今のところ、私個人の力はとても小さいものです。
きっと一生かかってもたいして大きなものにはならないと思います。
ですから、少しでも多くの人に同じ気持ちを持って頂きたいと思い、この項を立てました。


「ハチドリのひとしずく」 リメイク by akira 

2013年12月24日 00時42分20秒 | 民話(おとぎ話・創作)
 「ハチドリのひとしずく」 リメイク by akira 

 (ハチドリというのは とっても からだの小さい 鳥の ことです。
一番 小さいのは 体長 6センチ、体重 2グラムしか ありません。
ものすごい速さで 羽を動かし、飛びながら からだを 静止させて、
長い口ばしを 花の中に さし込んで 蜜を 吸います。
羽を 動かす時の「バズーーー」という音が ハチに 似ているので、 
ハチドリという名前が ついています。
英語で 言うと、Hummingbird (ハミングバード)です。)

 そんな ハチドリのいる 南アメリカ、アンデス地方に 伝わる おハナシです。

 むかしのこと、森が 火事になって しまいました。
森の 動物たちは(鳥も、昆虫も)みんな 必死になって 逃げています。

 そんな中で 一羽の ハチドリが 森に向かって 飛んで行きます。
この ハチドリは 川の水を 口ばしに 含んでは 森に戻って、
その 川の水を 燃えている 火の上に 落として、
また 川に戻って、水を含んでは 森に戻って、火の上に 水を落とし、
また 川に戻って、と、森と 川の間を 行ったり 来たり していたのです。

 そんな ハチドリを見ていて、動物たちが(バカにするように)言いました。
「どうして そんなことを して いるんだい?」

 ハチドリは 答えました。
「ボクは、(今)ボクに できることを しているんだ。」

 おしまい


「ハチドリのひとしずく」

2013年12月22日 00時35分18秒 | 民話(おとぎ話・創作)
 「ハチドリのひとしずく」 南アメリカに伝わる話

 森が燃えていました

 森の生きものたちは われ先にと 逃げて いきました

 でも クリキンディという名の
ハチドリだけは 行ったり来たり
口ばしで 水のしずくを 一滴ずつ 運んでは
火の上に 落として いきます

 動物たちが それを見て
「そんなことをして いったい 何になるんだ」
と、言って 笑います

 クリキンディは こう 答えました
「私は、私に できることを しているだけ」

 「英語」

The forest was on fire.
All of the animals, insects, and birds in the forest rushed to escape.
But there was one little hummingbird named Kurikindi,
or Golden Bird, who stayed behind.
This little bird went back and forth between water and fire,
dropping a single drop of water from its beak onto the fire below.
When the animals saw this, they began to laugh at Kurikindi.
"Why are you doing that?" they asked.
And Kurikindi replied, "I am only doing what I can do."