民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「桜もさよならも日本語」 その7 丸谷 才一 

2015年12月30日 00時01分44秒 | 日本語について
 「桜もさよならも日本語」 その7 丸谷 才一  新潮文庫 1989年(平成元年) 1986年刊行

 Ⅰ 国語教科書を読む  

 7、名文を読ませよう

 前略

 本当はかういふよりぬきの名文をくりかへし何度も読ませることがいちばん大切なので、子供の作文なんか載せなくてもいい。それなのに今の教科書は、どの社のものも、子供の書いた文章をむやみに入れたがる。あれは忘年会のとき、幹事がまづ皮切りに下手な唄を歌って、こんなのでもかまはないから何か隠し芸をやれとそそのかすやうなものだ。文章の感覚を磨くことにはならないだろう。

 中略

 とにかく奇怪な理屈をつらねた不思議な文章だが、この文章よりもつと不思議ななのは、かういふものが教科書に採用されたことである。文章ではまづ中身が大事で、読むに価する中身が論理的に展開されてゐなければならないといふ、文章論の初歩の初歩を知らない人たちが国語教科書を作つてゐるのだろうか。それとも、反面教師といふのがあるやうに、反面教材といふのもあるのだらうか。わたしは何だか、狐につまれたやうな気持である。

「桜もさよならも日本語」 その6 丸谷 才一

2015年12月28日 00時19分38秒 | 日本語について
 「桜もさよならも日本語」 その6 丸谷 才一  新潮文庫 1989年(平成元年) 1986年刊行

 Ⅰ 国語教科書を読む  

 6、漢語は使ひ過ぎないやうに

 漢語は最初から漢字で教へるほうがいい、とわたしは言つた。さらに、漢字は訓も教へようと言つた。が、それとは別に、今の小学教科書は、殊に低学年で、漢語を使ひ過ぎると思つてゐる。

 中略

 わたしは、子供相手のときはあまり漢語を使はないほうが向こうによくわかつていいと思ふのだが、そんなことはおかまひなしに、「とくちょう」とか「ぶぶん」とか、むづかしいことを言ひたい、そのついでに「地下」なんて言葉も使ひたい、さういふ人たちが集まつて教科書を作つてゐるわけだ。近ごろは子供も大変である。
 もちろんこれには現代日本語の反映といふ面もあらう。このごろは「引越し」とは言はないし、「家移り」は廃語になつた。もっぱら「転居」「移転」を使ふ。電話をかけてくれと頼んで、「うちにをりますから」と言ひ添へると、「御自宅ですか?」と念を押される。「生きがいい」は「新鮮」、「こだはる」は「抵抗感」、「思ひがけない」は「意外性がある」。生活用語にも、「団地」「暖房」「解凍」などと漢語はどんどんはいつて来てゐる。一体に戦後の日本語では、戦前とくらべて、漢語がむやみに幅をきかせてゐるのである。今の日本語は外来語づくめだとよく言はれるけれど、それと並ぶこの漢語ばやりも見落としてはならない。
 これは能率を重んじる風潮のせいである。和語でゆくとまだるつこしくなるから、漢語を使ふのだ。しかし、世の中がさうだからと言つて、子供にも漢語の多い本をあてがはなくちやならないものかしら。

「桜もさよならも日本語」 その5 丸谷 才一

2015年12月26日 00時15分08秒 | 日本語について
 「桜もさよならも日本語」 その5 丸谷 才一  新潮文庫 1989年(平成元年) 1986年刊行

 Ⅰ 国語教科書を読む  

 5、ローマ字よりも漢字を

 文部省の『小学校指導要領』によれば、四年の国語では「日常使われる簡単な単語について、ローマ字で表記されたものを読み、また、ローマ字で書くこと」を教へる。戦後すぐ、ローマ字論者が威勢がよかつたころ、彼らの顔を立てるためかう決めたのだ。
 そこで四年の教科書はどの社のものも、ローマ字に何ページかを費やすのだが、これは意味がない。第一に、まったく系統の違ふ文字を今ここで教へるのはをかしいし、手間がかかりすぎる。第二に、どうせ中学一年で英語その他を教へるのだから、それまで待てばいい。第三に、さきで英語その他を教へるのにかへつて邪魔になる。第四に、ローマ字は日本語の表記としてまつたく特殊なもので、日本の地名、人名その他を外国人向けに書くときなどに使ふにすぎない。

 中略

 「窓」や「机」のやうな何の変哲もない字をはふつて置いて、そのローマ字書きを教へるのは、どう考へてもばかげてゐる。それは今の国語教育の戯画として絶好のものだらう。教科書会社だけを責めるのは筋ちがひかもしれないけれど、小学校ではローマ字はやめて、もつと漢字を教へなければならない。今さら言ふまでもないことだが、日本語は漢字と仮名をまぜて書くのが普通のかたちで、そして国語の時間数はどう見ても足りないのである。

「桜もさよならも日本語」 その4 丸谷 才一 

2015年12月24日 00時15分01秒 | 日本語について
 「桜もさよならも日本語」 その4 丸谷 才一  新潮文庫 1989年(平成元年) 1986年刊行

 Ⅰ 国語教科書を読む  

 4、読書感想文は書かせるな

 前略

 読んだ本について何かを書かせようとするのは間違つてゐる。読書感想文を書けと強制してはならない。本を読むことをすすめ、あとはただ学校図書館におもしろい本をたくさん用意して置けばそれでいい。わたしはさう思ふ。
 たとへ話でゆかう。男の子が十八人ゐるとき、これから二つのチームで野球をしようと提案すれば、みんな大喜びするはずだ。しかし、試合の経過をあとでめいめい作文に書くといふ義務を付け加へれば、一人残らずゲンナリするにちがひない。読後感を書かせるのはこれとまったく同じことで、読書から喜びを奪ふ。ところが彼らにまづ教へなければならないのは、快楽としての読書なのである。
 本はおもしろいものだといふことを体験させること、本を読む癖をつけること、それが大事だ。その味を覚えさへすればしめたもので、彼らは将来、西洋十九世紀の長編小説も、天文学も、ケインズ理論も、コンピューターの本も、読むやうになるかもしれない。読書感想文を無理やり書かせることでその可能性をつぶしてしまふのは、教育者として正しい態度ではない。
 読書感想文といふのは一種の書評である。そして書評がどんなにむづかしいかは、海千山千の文筆業者がさんざん苦労して、なかなかうまく書けないのを見てもわかる。一冊の本といふ厖大で複雑なものを短い文章で紹介し論評するのは、郵便切手の裏に町全体の地図を書くくらゐ大変なのである。そんな芸当を子供に強制することは、角兵衛獅子の親方だつてしなかった。

「桜もさよならも日本語」 その3 丸谷 才一 

2015年12月22日 00時57分09秒 | 日本語について
 「桜もさよならも日本語」 丸谷 才一  新潮文庫 1989年(平成元年) 1986年刊行

 Ⅰ 国語教科書を読む  

 3、完全な五十音図を教へよう

 (前略)教科書に完全な五十音図が載ってゐないのは不思議である。これこそは日本語の基礎なのに。
 もちろんどの教科書も、一、二年用の巻末には、『ひらがな五十音』とか『カタカナノヒョウ』とか載せてゐるが、ヤ行とワ行がをかしい。

 や (い) ゆ (え) よ
 わ (い)(う)(え) を
 ヤ (イ) ユ (ヱ) ヨ
 ワ (イ)(ウ)(エ) ヲ

となつてゐるのだ。

 や い ゆ え よ
 わ ゐ う ゑ を
 ヤ イ ユ エ ヨ
 ワ ヰ ウ ヱ ヲ

でなければならないのに、さういふ本式の五十音図は教へてゐない。(中略)

 日本語は五十音図に従って動いてゐるし、あるいは、その動き具合をきれいに秩序づけたのが五十音図であつた。
 さういふ大事なものなのに、最初に嘘を教へるのは間違ってゐる。まづ贋の五十音図をかかげ、いつかそのうち正しい五十音図を教へようといふのは、二度手間である。そんな面倒なことはよすほうがいい。さしあたり使はない仮名がはいつてゐるものを小学一年の本に出すのは不親切だ、なんて反対する人がゐるかもしれないが、わたしは今のやり方は親切ごかしにさへなつてゐないと思ふ。

 中略

 しかし一つだけ、正しい五十音図をかかげてゐる小学一年用の教科書がある。安野光雅、大岡信(まこと)、谷川俊太郎、松井直(ただし)の『にほんご』(福音館書店)である。これは文部省学習指導要領にとらわれない、小学校一年生のための国語教科書を想定したもので、つまり実物をつきつけての教科書批判である。上質の日本語と言ひ、きれいな絵と言ひ、美点はおびただしいが、大きく紙面を使つた平仮名五十音図はその一つ。もちろんカツコなんかついてゐない。「いろんな いいかたをして あそぼう。しぜんに うたみたいに なってくるよ」とはじめに誘ひかける。そしてワ行の上には、(ゐ)(ゑ)は いまでは ふつう つかわない もじ。でも おぼえておこう」。