民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「坂の上の雲」 「あとがき」その2 司馬遼太郎

2015年01月31日 01時06分33秒 | 雑学知識
 「坂の上の雲」 第一巻  司馬遼太郎 著  文芸春秋 2004年

 「あとがき」その2

 明治は、極端な官僚国家時代である。われわれとすれば二度と経たくない制度だが、その当時の新国民は、それをそれほど厭うていたかどうか、心象のなかに立ち入ればきわめてうたがわしい。社会のどういう階層のどういう家の子どもでも、ある一定の資格をとるために必要な記憶力と根気さえあれば、博士にも官吏にも軍人にも教師にもなりえた。そういう資格の取得者は常時少数であるにしても、他の大多数は自分もしくは自分の子がその気にさえなればいつでもなりうるという点で、権利を保留している豊かさがあった。こういう「国家」というひらけた機関のありがたさを、よほどの思想家、知識人もうたがいはしなかった。

 しかも一定の資格を取得すれば、国家生長の初段階にあっては重要な部分をまかされる。大げさにいえば神話の神々のような力をもたされて国家のある部分をつくりひろげてゆくことができる。素性さだかでない庶民のあがりが、である。しかも、国家は小さい。
 政府も小所帯であり、ここに登場する陸海軍もうそのように小さい。その町工場のように小さい国家のなかで、部分部分の義務と権能をもたされたスタッフたちは世帯が小さいがために思うぞんぶんにはたらき、そのチームをつよくするというただひとつの目的にむかってすすみ、その目的をうたがうことすら知らなかった。この時代のあかるさは、こういう楽天主義(オプティミズム)からきているのであろう。

 このながい物語は、その日本史上類のない幸福な楽天家たちの物語である。やがてかれらは日露戦争というとほうもない大仕事に無我夢中でくびをつっこんでゆく。最終的には、このつまり百姓国家がもったこっけいなほどに楽天的な連中が、ヨーロッパにおけるもっともふるい大国の一つと対決し、どのようにふるまったかということを書こうとおもっている。楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶(いちだ)の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。

 子規について、ふるくから関心があった。
 ある年の夏、かれがうまれた伊予松山のかつての士族町をあるいていたとき、子規と秋山実之が小学校から大学予備門までおなじコースを歩いた仲間であったことに気づき、ただ子規好きのあまりしらべてみる気になった。小説にかくつもりはなかった。調べるにつれて妙な気持になった。この古い城下町にうまれた秋山実之が、日露戦争のおこるにあたって勝利は不可能にちかいといわれたバルチック艦隊をほろぼすにいたる作戦をたて、それを実施した男であり、その兄の好古は、ただ生活費と授業料が一文もいらないというだけの理由で軍人の学校に入り、フランスから騎兵戦術を導入し、日本の騎兵をつくりあげ、とうてい勝ち目はないといわれたコサック騎兵集団とたたかい、かろうじて潰滅をまぬがれ、勝利の線上で戦いをもちこたえた。かれらは、天才というほどの者ではなく、前述したようにこの時代のごく平均的な一員としてこの時代人らしくふるまったにすぎない。この兄弟がいなければあるいは日本列島は朝鮮半島をもふくめてロシア領になっていたかもしれないという大げさな想像はできぬことはないが、かれらがいなければいないで、この時代の他の平均的時代人がその席をうずめていたにちがいない。
 そういうことを、書く。どれほどの分量のものになるか、いま、予測しにくい。

 昭和44年3月
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「坂の上の雲」 「あとがき」その1 司馬遼太郎

2015年01月29日 00時26分47秒 | 雑学知識
 「坂の上の雲」 第一巻  司馬遼太郎 著  文芸春秋 2004年

 「あとがき」その1

 小説という表現形式のたのもしさは、マヨネーズをつくるほどの厳密さもないことである。小説というものは一般に、当人もしくは読み手にとって気に入らない作品がありえても、出来そこないというものはありえない。
 そういう、つまり小説がもっている形式や形態の無定義、非定型ということに安心を置いてこのながい作品を書きはじめた。
 たえずあたまにおいているばく然とした主題は日本人とはなにかということであり、それも、この作品の登場人物たちがおかれている条件下で考えてみたかったのである。

 維新後、日露戦争までという三十余年は、文化史的にも精神史のうえからでも、ながい日本歴史のなかでじつに特異である。
 これほど楽天的な時代はない。
 むろん、見方によってはそうではない。庶民は重税にあえぎ、国権はあくまで重く民権はあくまで軽く、足尾の鉱毒事件があり女工哀史があり小作争議がありで、そのような被害意識のなかからみればこれほど暗い時代はないであろう。しかし、被害意識でのみみることが庶民の歴史ではない。明治はよかったという。その時代に世を送った職人や農夫や教師などの多くが、そういっていたのを、私どもは少年のころにきいている。
 「降る雪や 明治は遠くなりにけり」
 という、中村草田男の澄みきった色彩世界がもつ明治が、一方にある。

 ヨーロッパ的な意味における「国家」が、明治維新で誕生した。日本史上、大化改新という管制上(現実はどうであったか)の強力な中央集権国家が成立した一時期はあったが、その後、すぐ日本的自然形態にもどった。日本的自然形態とは、大小無数の地方政権の寄りあいというかたちである。封建とか、地方分権主義とかよんでもいい。あの維新前における最強の政権であった徳川政権ですら、徳川将軍家は、実質的には諸侯のなかでの最大の諸侯というだけにすぎず、その諸侯たちの盟主というにすぎなかった。元禄期の赤穂浪士には浅野侯への忠義はあっても、国家意識などはなかったのである。

 ところが、維新によって日本人ははじめて近代的な「国家」というものをもった。天皇はその日本的本質から変形されて、あたかもドイツの皇帝であるかのような法制上の性格をもたされた。だれもが、「国民」になった。不馴れながら「国民」になった日本人たちは、日本史上の最初の体験者としてその新鮮さに昂揚した。このいたいたしいばかりの昂揚がわからなければ、この段階の歴史はわからない。

 いまからおもえばじつにこっけいなことに米と絹のほかに主要産業のないこの百姓国家の連中が、ヨーロッパ先進国とおなじ海軍をもとうとしたことである。陸軍も同様である。人口五千ほどの村が一流のプロ野球団をもろうとするようなもので、財政のなりたつはずがない。
 が、そのようにしてともかくも近代国家をつくりあげようというのがもともと維新成立の大目的であったし、維新後の新国民たちの少年のような希望であった。少年どもは食うものも食わずに三十余年をすごしたが、はた目からみるこの悲惨さを、かれら少年たちはみずからの不幸としたかどうか。

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「将棋の鬼」 坂口 安吾

2015年01月27日 00時47分37秒 | エッセイ(模範)
 「日本の名随筆」 別巻 8  「将棋」 団 鬼六 編  作品社 1991年

 「将棋の鬼」 坂口 安吾 P-227

 将棋界の通説に、升田は手のないところに手をつくる、という。理屈から考えても、こんなバカな言い方が成り立つ筈のものではない。
 手がないところには、手がないにきまっている。手があるから、みつけるのである。つまり、ほかの連中は手がないと思っている。升田は、見つける。つまり、升田は強いのである。
 だから、升田は手がないと思っているところに手を見つける者が現れれば、その人は升田に勝つ、というだけのことだろう。

 将棋指しは、勝負は気合だ、という。これもウソだ。勝負は気合ではない。勝負はただ確実でなければならぬ。
 確実ということは、石橋を叩いて渡る、ということではない。勝つ、という理にかなっている、ということである。だから、確実であれば、勝つ速力も最短距離、最も早いということでもある。

 升田はそういう勝負の本質をはっきり知りぬいた男で、いわば、升田将棋というものは、勝負の本質を骨子にしている将棋だ。だから理づめの将棋である。
 升田を力将棋という人は、まだ勝負の本質を会得せず、理と云い、力というものの何たるかを知らざるものだ。
 升田は相当以上のハッタリ屋だ。それを見て、升田の将棋もハッタリだと思うのだが、間違いの元である。
 もっとも、升田の将棋もハッタリになる危険はある。慢心すると、そうなる。私は現に見たのである。

 昨年の12月8日、名古屋で、木村升田三番勝負の第一回戦があって、私も観戦に招かれた。
 私が升田八段に会ったのは、この時がはじまりであった。

 以下 略

 坂口 安吾 1906~1955 小説家
 「風博士」等のファルスを収録した「黒谷村」を刊行し注目される。以後、矢田津世子との恋愛の行く末を小説化した「吹雪物語」ほかを執筆したが、戦後、焼跡闇市の世相を鋭く突いた「堕落論」等の評論エッセイで時代の寵児となる。破天荒な生き方と作風から無頼派と称された。
 棋士の中で特に好きだった木村義男と升田幸三の対局を心理面から分析した「観戦記」も面白い。
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「アレクサンダー・テクニーク」 小野 ひとみ 

2015年01月23日 01時59分04秒 | 雑学知識
 「アレクサンダー・テクニーク」  小野 ひとみ 著  春秋社  2007年

 「レッスンを始めるまえに」 P-2

 アレクサンダー・テクニークは、体操法でもなく、何かの健康法でもなく、リラクゼーションや瞑想法のたぐいでもありません。
 人が何かをしたいと思ったときに、自分自身を最良の形で使いこなして、やりたいことを実現できる、心身の基本的なコントロール法です。

 私たちの意識(マインド)や身体(ボディ)は、自分自身で知らず知らずのうちに身につけてきた習慣的な動きや、社会や文化の制約にしばられて、本当にやりたいことを見失い、自然で効率的な動きができなくなっているのです。
 アレクサンダー・テクニークは、そんな自分の心身の状況に気づき、改善していくための一つの有効な術(すべ)となるでしょう。

 「ヘンな生き物?」 P-14

 私たちは感覚を五つも持っています。
 視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚の五感ですが(実際は<筋感覚>を加えて六感)、私たちは実際にはそういった感覚を十分に使っていない、意識下にはおいていないのです。

 私たち人間というのは、まことに自分勝手な生き物で、自分が気にしたい時に、気にしたいことを気にして生きている生き物と言えるかもしれません。
 肩が凝っているとか、腰が痛いということは、その時になって急に起こることではなく、実際にはずっと前から凝っていたり、何かしらの症状があるはずなのですが、ほかに意識が行っているときには、症状としては実際にあるものでも見過ごしてしまっているのです。

 ハッと気がついたら仕事が立て込んで時間ぎりぎりになっていて、「大変!」と思ってフル回転でいろいろやりはじめると、思うようにいかなくて、初めて身体にも意識がいく。
 それで「あ、肩が凝ってる」と気づく。
 そんなことも多くの人が経験していることではないでしょうか。

 そして、身体としては決して居心地が良いわけではないのに、頭の中で漠然とイメージしている「良い姿勢」に無理に合わせてしまう。
 それで窮屈になっている自分に気がつかない。
 それも不思議なことです。
 私たちは、ボディ(身体)の感覚でいろいろなものが捉えられなくなっていて、マインド(理性と感情)の部分だけで上滑りしてしまって生きているとも言えるかもしれません。

 自然治癒力という言葉がありますが、自然体で生きていれば、少しでも身体に変調があって、「ヘンだな?」ということを感覚で捉えられさえすれば、すぐにそれを直そうとする本能的なシステムが働くはずです。
 でも、現代社会に生きる私たちは、そういったわずかなアラーム、異状を知らせるサインに気がつかなくなっていて、本格的に病気になるとか、大きなケガをするといった、最終的なアラームを受けとって初めて自分の身体の異常に気がつく。
 そんなふうに、生き物としてはかなりヘンな無頓着さで日常を生きていると言えるでしょう。

 「ボディとマインドの乖離」 P-17

 アレクサンダー・テクニークが究極の目的として目指しているのは、このようなボディとマインドの乖離をなくすことです。
 そして、人間が本来もっている感覚を取り戻して、自分が本当に「やりたい」と思ったことに対して、本来の能力を適切に発揮できることを目的にしているのです。
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「目をくれた話について」 杉本キクエ(瞽女)

2015年01月21日 00時09分58秒 | 民話の背景(民俗)
 「瞽女(ごぜ) 盲目の旅芸人」 斎藤 真一  日本放送出版協会 1972年(昭和47年)

 「目をくれた話について」 杉本キクエ(瞽女)との問答 P-285

 実はこんな話があります。昔、母の赤倉カツさんに聞いた話ですが、左甚五郎の母は蛇で、どうしても一度人間の女房になってみたいと思って、ある日、大工さんの所へ美しい女に化けてやって来ました。大工さんは、その女が蛇であることはつゆ知らず、ついに夫婦になってしまいました。そして、その間にできた男の子どもが実は左甚五郎なんです。貴方も左甚五郎という人知っているでしょう。その男の子が三歳になったときでした。ある日母は突然「いろいろご厄介になりましたからお暇をください」と主人に言ったのです。「暇をくれとは一体どうしたことか」と父は女房のそのような言葉が信じられなくて・・・。

 ところが母は、「お前さんを長い間ごまかして本当に申し訳ありませんでした。実は私は、この奥の池に住む蛇の主で・・・もう貴方と契りを結んで子どもまでできて、思い残すことはありません。一生ここにいられる身ではないし、・・・どうかお暇をくださいませ・・・」と言って母は泣いて立ち去ろうとしました。父はびっくりして「しかし、もしお前が去れば、この子は一体どうなるのだ・・・跡で母を慕って泣いて困るではないか、どうか思いとどまってくれないか・・・」と、途方にくれてしまって、母を一生懸命引きとめましたが、
「それでは、この私の目を置いていきましょう、この目さえ離さないで持っていれば、この子は一生涯泣かないで、それに生活も困らないで生きて行けるでしょう・・・」と母は言って父に目をあずけて消えるように去ってしまったのです。でも左甚五郎は母が去った後、それから毎日ひそかにその目を持っていつもにこにこしてけっして泣かなかったのです。

 やがて、この噂が京都の人々に知れお殿様の耳にも入り、殿様はある日、その大工さんに「お前のところに珍しい蛇玉(じゃだま)があるそうだが、そんなものを持っていて、かくしだてする必要はなかろう。一度見せてもらえないだろうか・・・」と言って使いを出したのです。

 大工さんは殿様のおおせとあらばしかたがないので「これでございます・・・・」と言ってその蛇の目を差し出してしまいました。

 「ははあこれがその蛇玉か、なんて珍しいものだ。きれいなものだなあ」と殿様は大喜びで大工にお金や宝物を一杯渡し、蛇玉は宝のように殿様の床の間に飾ったのです。しかし、蛇玉を失った子どもの左甚五郎は、その日からまた泣いて泣いてどうにもなりませんでした。

 父はせつなくなって、また途方にくれてしまいました。そして思いあたったようにその子を負んぶして山に行き、母のいる池のそばまでやって来ると「お母さんよ・・・出て来ておくれ・・・この子泣いて困るから、早く出て来てくれ」と大声で泣きさけびました。すると母は池の中からまた人間になって出て来て「どうしたことかね・・・そんなに泣いて」、「実は、お前の置いていった目を殿様にくれてしまい、この子が泣いて困るからどうしたらいいものか教えてくれ」と父が言うと「私、この子可愛くて可愛くてしかたがない・・・では私のもう一つの目をこの子にあげよう、そのかわり大切にしてくださいよ。私は盲目になり、これから夜も昼もわからない不具な蛇になるのだが、この子可愛いばかりに、私はかまいませんよ・・・、だが、ここで是非ともお願いが一つあります。・・・それはお鐘を作ってください。そしてお寺に差し上げてください。そのお願いさえかなえてくれれば・・・」と言って母は今一つの目を置いて去って行ったのです。

 おけさや松前に「三井寺の鐘の音色もつかねば知れぬ・・・惚れて添わねば気が知れぬ・・・」と言う唄の文句があります。三井寺の鐘が、その鐘なのです。父は三井寺に鐘を献上し、母の蛇玉を持った子どもは、その後立派に成長して左甚五郎という彫刻師になったのですよ。

 私はこの話を赤倉のお母さんから聞いたが、蛇ですら母は子どもに目をくれてしまったのでしょう。なかなか我が子にだって目なんてくれる親はいませんもの。それも両目までくれて、立派な蛇だと思いました。むしろ人間の方が薄情かも知れませんね。
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