民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「声が生まれる」 音がない その1 竹内 敏晴

2016年11月29日 00時11分28秒 | 朗読・発声
 「声が生まれる」聞く力・話す力  竹内 敏晴  中公新書  2007年

 音がない その1 P-4

 中学二年。
 わたしは教室の最前列のまん中の席にいた。手をのばせば教卓にさわるほどの位置である。わたしのかよっていた旧制中学は、教室の左後ろ隅に成績一番の生徒が席に着き右へ二、三、四、五番と並び、六番が五番の前に来て以下七、八、九と左へ移り・・・、という形で前へ詰めてゆく。わたしは成績ビリの席に座らせられていたのだった。耳が聞こえなかったからだ。

 入学した時は人並みとはいかなかったが、少なくとも右耳はそれに近くは聞こえていた。それが一年の夏休み過ぎから急速に悪くなり、先生の声が全く聞き取れなくなっていた。

 それでもかすかな望みを抱いて教室の中では右耳に聴音器を当てていた。ほかの科目はともくあく、英語だけは発音を強制される。聴音器とは、今用いられている補聴器のように電気によって音量を増幅させる機械ではない。昔、ポスターで見たことのあるヴィクターの犬が耳を傾けている蓄音機のラッパ、あの小型のようなものだ。朝顔型に口を開いて、集めた音を花の付け根にあたるところに取り付けられた湾曲した管に通し、当てがった耳の穴から鼓膜に響かせようという、こう説明するのも果敢(はか)なくシンドイような道具である。もちろん、といってもいいだろう、なんの変化も起こらない。ただ努力の証しを教師に示しているにすぎない。

 それでも当てられた時には発音しなくてはならない。わたしは必死になって時折響いてくる音の切れはしを集め、よくは理解できぬ発音記号と組み合わせて、カタカナで英文の下にいわばルビを振った。たとえそれがかなり正確だったとしても、そもそも日本語の発音さえも十分にできないものが、英語教師を納得させる発音のできる可能性はなかったのだが。

 竹内敏晴 1925年(大正14年)、東京に生まれる。東京大学文学部卒業。演出家。劇団ぶどうの会、代々木小劇場を経て、1972年竹内演劇研究所を開設。教育に携わる一方、「からだとことばのレッスン」(竹内レッスン)にもとづく演劇創造、人間関係の気づきと変容、障害者教育に打ち込む。


「声が生まれる」 はじめに その2 竹内 敏晴

2016年11月27日 00時07分38秒 | 朗読・発声
 「声が生まれる」聞く力・話す力  竹内 敏晴  中公新書  2007年

 はじめに その2

 柳田国男はかつて、近頃は人々がことばを信用しすぎるようだ、という意味の文を書いています。「泣いてばかりいてはわからないからちゃんと話しなさい」と言うが、ちゃんと話せないから泣いているのだ、と。

 現代は、もっと自分の言葉をを語ることがむつかしい時代になっているかもしれません。仕事上のやりとりでも世間のつきあいでも、忙しく油断なく、他人に合わせてことばをあやつらねばならぬ。その気づかいばかりに疲れ切って、人は元気よく他人のことばに応えてみせはするが、自分のことばは語り切れず、次第に声をとどけ切れなくなり、引きこもってゆく。(中略)

 自分のことばを語りだすためには、この「泣き声」を受け止めてくれる人いなくてはならない。しかし、泣いているものも、「自分のことば」を見つけ出すためには、意志を持って一つ一つのステップを踏んでいかねばならないでしょう。

 目をつむってみると、いきなり音たちが押し寄せてからだにふれてきます。風の音が走り寄り鳥の声が呼びかけ車の音が襲いかかる――と仮にこう述べるより仕方がないのだけれど、実は風、鳥、車という判断以前の音の現象なのです。

 目を開きます。「あなた」の呼びかける声はまさに音たちと同じように、いきなりわたしにふれ、からだの内に響き、その瞬間にわたしは変わり始め動き始める。聞くことの目覚めです。無自覚に見ていることは相手を向こうにおき距離を取ること、判断すること。聞くとは、一つになることなのです。

 子どもが自分のイヤなことはイヤだと言え、相手に合わせるのではない自分がほんとうに感じていることを、十分にことばにできるようになるためには、なによりも、母の、父の、友だちの、そして教師の、じかに子どもにふれてくる声の呼びかけが必要です。そのなまなましい声を、大人たちに持ってほしい。それに応えることによって、子どもの声は成長し、自分のことばになる。人という生きものは、ことばによって、人間になるのですから。

 竹内敏晴 1925年(大正14年)、東京に生まれる。東京大学文学部卒業。演出家。劇団ぶどうの会、代々木小劇場を経て、1972年竹内演劇研究所を開設。教育に携わる一方、「からだとことばのレッスン」(竹内レッスン)にもとづく演劇創造、人間関係の気づきと変容、障害者教育に打ち込む。


「声が生まれる」 はじめに その1 竹内 敏晴

2016年11月24日 00時04分11秒 | 朗読・発声
 「声が生まれる」聞く力・話す力  竹内 敏晴  中公新書  2007年

 はじめに その1

 お母さんたちは、なんとまあみごとに聞き分けるものだと思います。男の眼からみると。赤ちゃんの泣いているあの声はおなかがすいたのか、それともお尻がぬれたのか、眠くなったのか。男たちにとってはまるで同じにしか聞こえないのだけれど。

 その泣き声が、ある日今まで出したことのない音に変わり、なにか違ったリズムで動き始める。声が「ことば」に変わり始めるのです。その瞬間を、幸運にも、わたしは聞きました。

 ある晩わたしの娘は、毎晩のおやすみのオハナシを始めた時、ばたばたをしました。わたしはあわてて話をやめて「どうした」。かの女は「グィイ、グィイ」と変な音を出している。聞いたことのない声です。おなかでも痛いのか?いやそうじゃないみたいだ。なにか催促されているような感じもする。「はてな、なにかひどく喜んでいたみたいだったけれど、昨夜話したのはなんだっけ?」――ひょっとして、わたしはあてずっぽうに「キリキリ パッタン」と口に出してみた。とたんにかの女は足をばたばたさせてワッワッと笑うのです。へえ、とわたしはびっくりした。「キリキリ パッタン カランコ カランコ」、これは、こんなちっちゃい子にわからないだろうけど、と思いながらしゃべった瓜子姫の話の中の、機(はた)を織る音だったのです。

 この日からわたしは毎晩毎晩瓜子姫の、ではなく、キリキリパッタンのお話をすることになりました。かの女は「グィイ グィイ アッ アッ」と声を合わせる。アマンジャクが瓜子姫をほうり出して乱暴に機を織り出す「ドッチャライ バッチャライ」になると、キャッ キャッと喜んで大声になる。やがてそれが「キイ キイ パッ パッ」になっていく。声がことばになってゆくとはこういうことかと、幼い頃耳が聞こえずことばをしゃべれなかったわたしはびっくりして眺めていました。

 しかし、人によっては、このように出発してのびのびと育ってきたことばが、思春期になって出てこなくなる。また、出ても、他人に通じない、ということが起こります。そして、大人になり社会で仕事をするようになってから後、ある日突然しゃべれなくなってしまう人もある。

 レッスンの中でわたしはたびたびそういう人と、改めて声を出し自分のことばを生み出すために一緒に考えたりレッスンを試みたりします。その時人はだれでも、あの時のわたしの娘のように始めなくてはならないのです。その人に向かって、わたしが16歳で声が聞こえ始めてからようやくまあ人並みに話ができるようになるまでのほぼ30年近く、少しずつ進んできたステップを呼びさまし、改めて気づきながら、具体的な試みを差し出してゆくのです。

 竹内敏晴 1925年(大正14年)、東京に生まれる。東京大学文学部卒業。演出家。劇団ぶどうの会、代々木小劇場を経て、1972年竹内演劇研究所を開設。教育に携わる一方、「からだとことばのレッスン」(竹内レッスン)にもとづく演劇創造、人間関係の気づきと変容、障害者教育に打ち込む。





50ドル札の災難 岡田 光世

2016年11月21日 00時03分36秒 | 雑学知識
 「ニューヨークのとけない魔法」 岡田 光世  文春文庫  2007年

 50ドル札の災難 P-52

 最寄りの地下鉄の駅で、1週間乗り放題のプリペイド・カードを買おうとしたが、1ドル札と50ドル札しかない。
カードは17ドルだった。
 50ドル札を渡すと、売り場の黒人女性に、
 Too big.
 大きすぎるよ、とひと言で、突き返された。 
 これしかないんですけど、と言うと、
 Too bad.
 あいにくだね、とまたひと言。
 どうしたらいいんですか、と聞く私に、
 Get change.
 くずしてきな、とこれまたひと言。
 どこで?とさらに聞けば、
 Get upstairs.
 上に行きな、とあきれた様子で、首を左右に振る。
 頭を使ったらどうだ、と言わんばかりだ。
 単語ふたつで、彼女はすべてを表現する。
 お見事だ。
 とはいえ、上でお金をくずしてこいとは、地上に上がればお店がいろいろあるだろ、ということか。
 50ドル札は受け付けないなら、ひと言、そう書いておいてほしいものと思っていたら、売り場のすぐ横に、小さな字できちんと表示されていた。
 30ドル以上の購入に限り、50ドル札を受け付けます。

 現金をあまり持ち歩かないアメリカでは、50ドル札は大金だ。この時も、銀行で日本円からドルに替えたばっかりだった、という特別な事情がある。
 50ドル札など持っていようものなら、財布を開ける前にはきょろきょろ周りを確認し、金持ちであることを人に知られないように気をつかうものだ。
 スーパーマーケットで百ドル札でも渡そうものなら、レジにマネージャーが呼び出される。マネージャーはお札を仰々しく両手で掲げて透かし、偽札でないかを確認する。その儀式を終えて初めて、私は無事、支払いを許されることになる。

 後略

 Get change.=くずしてきな

 
 著者紹介 岡田 光代

 1960年東京生まれ。青山学院大学卒、ニューヨーク大学大学院修士号取得。読売新聞米現地紙記者を経て作家、エッセイスト。高校、大学時代に1年間ずつアメリカ中西部に留学し、1985年よりニューヨークに住み始める。今も東京とニューヨークを行き来しながら執筆を続けている。

「ニューヨークのとけない魔法」  はじめに 岡田 光世

2016年11月19日 00時10分08秒 | 本の紹介(こんな本がある)
 「ニューヨークのとけない魔法」 岡田 光世  文春文庫  2007年

 はじめに P-9

 住み慣れたニューヨークから、久しぶりに東京に戻った。天気がよいので、ふだんはあまり開けない窓を開けた。その瞬間、向かいの家の窓が音を立ててぴしりと閉まり、さっとカーテンが引かれた。
 近所の中年のお父さんたちに「おはようございます」と挨拶しても、下を向いたままで目を合わせない。わずかに会釈してくれることはあった。
 そんなとき、私はニューヨークが恋しくなった。ベランダに出れば、ジョギングしている人が足を止め、下から声をかけてくる。
 花がとてもきれいだから、毎朝ここを走るのが楽しみなの。ありがとう。
 部屋でピアノを弾いていると、ドアの呼び鈴が鳴った。ドアを開けるとそこには、郵便物の束を抱えて、見慣れない女性の郵便屋さんが呆然と立っていた。
 あまりにも美しい音色だったから・・・。思わず呼び鈴を鳴らしてしまったの。
 郵便受けに入れればそれで済む郵便物を、わざわざ手渡しして、次の配達先へと去っていった。
 あるとき、バスに乗り遅れまいと必死に走っていると、バスのドアが閉まり、ゆっくり動き始めた。その瞬間、たまたま通りを歩いていた男の人がバスに向かって大声で、待て!待て!と叫んだ。バスは止まり、私はその男の人に礼を言って乗り込んだ。

 東京はみんな、自分のことで忙しそうだ。周りの人など存在しないかのようだ。電車の中では、ひたすら携帯電話に向かって指を動かし、メールを打つか、ゲームに没頭している。イヤフォンで音楽を聴いている。鏡に映る自分の顔を見つめながら、化粧をしている。

 中略

 ニューヨークは孤独な大都会のはずなのに、人と人の心が触れ合う瞬間に満ちている。飾ることなく、ごく自然に、笑顔や言葉を交し合える。だから私は、この街に魅せられる。

 中略

 私は今、東京でも見知らぬ人に気軽に声をかけている。だからこの街でも少しずつ、人とのつながりを肌で感じながら、暮らし始めている。

 後略

 著者紹介 岡田 光代

 1960年東京生まれ。青山学院大学卒、ニューヨーク大学大学院修士号取得。読売新聞米現地紙記者を経て作家、エッセイスト。高校、大学時代に1年間ずつアメリカ中西部に留学し、1985年よりニューヨークに住み始める。今も東京とニューヨークを行き来しながら執筆を続けている。